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被害者をめぐるゲーム/加害者を叩くゲーム

前回までで設計者なきシステムが無限の被害者を生み出していく仕組みについて書いてきました。

今回は無限に生産されていく被害者と顔なき加害者が作る時代の空気を書きたいと思います。

被害者をめぐる闘争

自分は1997年に生まれました。生まれた時にはすでにバブルが崩壊し、ちょうど97年をピークに会社員の手取りは下がり続け、銀行にお金を預けてもほぼゼロ金利で、中国に抜かれることはほぼ自明で、少子高齢化で自分の年金は今よりももらえないことはほぼ確定的で、国債発行もどんどん積み上がっていくんだろうな〜という空気感で生きてきます。

そんな僕の目からは誰が本当の被害者なのかを椅子取りゲームで決めている20年間に見えています。

最近のニュースで車椅子の女性が無人駅までいきたいことをJR職員に告げたところ断られて揉めてしまったということがありますが、車椅子女性が被害者なのか、自助努力が欠けている女性に付き合わされたJR側が被害者なのかをめぐった争いに見えます。

もっとマクロな話で考えても、例えば

・韓国との関係性でも国際法的には解決している問題をほじくり返される日本が被害者なのか、いまだに個人と国との関係では被害者関係が続いていると主張する韓国の元従軍慰安婦が被害者なのか?という問題 

・アメリカ大統領選で明らかになった白人中産階級と有色人種の分断では、真面目にコツコツ働いてきたのに仕事を奪われた白人中間層こそが被害者なのか、白人エスタブリッシュメントによっていまだに搾取されている有色人種が被害者なのか?という問題

 ・ISISで拘束されて殺害されたジャーナリストが被害者なのか、ジャーナリストが自己責任で現場に行ったのにそれに巻き込まれて対応しなくてはいけない国家が被害者なのか 

・三子の幼児の育児に疲れて殺害されてしまった子供が被害者なのか、家族や社会の支援もなく育児に忙殺されてしまった母親が被害者なのか

など、多くの事件とそれに関連して可視化される世論が誰が本当の被害者なのかについて対立する意見として整理できるのではないでしょうか。

システムの一部分である以上、誰しもが心に溜めていた被害者性が一つの事件によって焦点となり、被害者をめぐる罵り合いがSNSで起きる炎上の構造ではないでしょうか。

そしてポリコレ疲れのような世の中において被害者の椅子に座れた人だけが気持ちよく本音を言える特権を持ちます。被害者特権を獲得し日常の鬱憤を晴らせるのであれば自分から進んで被害者のレッテルを貼られにいくほど屈折した感情が醸成されいているような気がします。

加害者不在と加害者叩き

しかし、ここで考えたいのはやはり加害者の不在の問題です。

本来であれば、被害者をめぐる闘争などせずに、お互いの被害者性を共有して加害者に対する連帯を作ることは可能なはずです。それができないのは、大規模化・複雑化した社会によって加害者の顔が見えないまま被害者だけが大量生産されているからではないでしょうか。

このように考えると日本だけでなく世界的に左翼の衰退が起こっているのは先進国において統治機構が複雑化したことで加害者が不在になり、被害者が抵抗しようにも抵抗できず、有り余ったエネルギーを被害者をめぐる椅子取りゲームで消費してしまっていることにあるのではないかと考えられます。

逆に加害者が完全に特定できる場合には加害者叩きは異常なほどに徹底的に行われます。加害者や犯罪者の個人名が特定できる類の事件を思い出してもらえればわかりますが執拗なまでにメディアやSNSで報じられ、一発アウトで職を失ったり、社会復帰できない状態になります。普段、被害者をめぐる闘争で使っているエネルギーを加害者叩きに使った場合は非常に危険な攻撃力を発揮してしまうのでしょう。

ここでさらに踏み込んで考えたいのは、システムの一部分である以上はシステムからの恩恵を受けているはずです。その意味では誰しもが加害者性を持ってしまっているのではないかということが#1で書いたことです。

この加害者性はどこへ行ってしまうのでしょう?

僕の考えでは「被害者の代弁者」としての位置を占めることで積極的に忘却するか、もしくは補填されるのではないでしょうか。

象徴的な事件が起きた時、多くの人間が完全に被害者でも加害者でもない第三者の位相にいます。しかし、被害者に対して共感を示し、積極的に被害者の発言を代弁して語りながら加害者への口撃を仕掛ける場合が少なくありません。このように書いている僕でもあまりにも被害者に感情移入して自分がそのシステムから恩恵を受けていることを忘れることもあります。

それほどまでに被害者の代弁者の位置を占めて加害者への攻撃に加わることはスカッとするということです。しかし自分を棚に上げて誰かを攻撃することはいつか自分に返ってくるというのが僕の意見です。加害者を批判するのであれば自分の中にある加害者性にも自覚的でありながら、いつか自分に跳ね返ってくるブーメランとも戦う覚悟がないといけないと思います。それは戦後、学生運動で資本主義の恩恵に預かりながら学生運動していた人間の言葉が届かなかったことからも学べます。

脱線してしまいましたがとにかく社会を変えるためには被害者の語りは重要です。被害者が被った被害を社会に伝えることが社会を変えるエンジンになることがあると思います。

しかし、それと「被害者の代弁者」とは区別しなくてはいけないです。被害者の代弁をしている人がいればまずは警戒して、それが自分のポジション取りになっていないか、一瞬の快楽のためではないか、を吟味することが必要だと思います。

この社会は加害者不在のシステムによって作られた多数の被害者がお互いの椅子を奪い合うゲームにエネルギーを浪費してしまっています。そして加害者が一度見つかればその人を徹底的に叩くゲームに早変わりします。

重要なことはゲームは一過性です。椅子取りゲームや加害者叩きが終われば何事もなかったかのようにシステムは温存されます。ここから学べることはどうしたらゲームに参加するエネルギーを長期的なシステム変革に使ってもらえるか?ではないでしょうか。

これに対して何かしらの回答が見つかったらまた続きを書こうと思います。

(続く)

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