弱者男性のネトウヨ化を救いあげる
「弱者男性」と呼ばれる競争に敗れた男性にスポットライトを当てる言論を最近よく目にするので
・なぜリベラルは弱者男性を守れないのか?
・守られない弱者男性はどこに行くのか?
・弱者男性側に立つ組織はできるのか?
などなど、考えたことを書いてみました。
差別と固有性・流動性
何に対して差別が起こっているのかを考えた時に「固有性」と「流動性」という視点から考えられます。
この「固有性」と「流動性」は僕がここで便宜的に使う言葉ですが、「固有性」とは所与として与えられたもの、つまり自分で選択できないものを指します。例えば、家族や性別や人種です。
対して「流動性」は固有性とは反対に、所与として与えられたものではなく自分で選択したものを指します。
なぜこの区別を出したかというと固有性は差別の温床になりやすく、その分制度的な保護の対象として守られやすいのに対して、流動性、つまり自分の選択によって引き起こされた不利益については自己責任として、制度的な保護からこぼれ落ちてしまうことが綺麗に説明できるからです。
リベラルやリバタリアンの無関心
差別を根絶しようとするリベラルの立場は、上記の例で言うところの「固有性による差別」を根絶しようとしているように見えます。しかし、一方で自分の選択が招いた不利益については恐ろしく冷たいのもリベラルの特徴でしょう。
また、余談ですが数年前にホリエモンが「金で買えないものはない、だって金で買えないものがあったらそれは差別になるから」という趣旨の発言をして炎上したことがありました。
この発言も固有性・流動性とリバタリアンの関係で説明することができます。
リバタリアンとはつまり、家族・性別・人種、などの金で購入できないものは差別になりやすいので、家族や性別や人種など本来はお金で購入できないものですら購入可能なものに変換して個人の選択によって変更することができる状態にすれば固有性に対する差別すがはなくなると主張していると考えられます。
例えば、自分がAfrican-Americanで肌の色による差別を受けていたとしたら、自分の肌の色を変える手術を受けられるようにすれば(当然お金はかかりますが、、)肌の色による差別は受けなくて済むということです。
しかし、僕は差別廃絶のための主義主張として、この意見には反対です。なぜなら、「固有性に対する差別」を「流動性に対する差別」に変換しているだけに感じるからです。
確かにお金さえあれば所与として与えられたものですら変更する可能性があることは自由の範囲を広げていると思いますが、選択に失敗したらそれは自己責任論によって二度と保護されなくなってしまいます。自分で選んだ結果として失敗した人にとことん冷たいのが今の社会だとするならば、固有性によって差別されていた方がまだ制度によるサポートが見込める分、望ましいとすら言えます。
今の日本は「大学選び」と「会社選び」の2つどちらかを失敗しただけでも取り返しのつかないことになる可能性がある社会です。そんな社会でこれ以上自分の人生を変える可能性がある選択肢を増やすことは僕個人としては耐えられないというのが正直な意見です。
つまり、差別を極力無くしていこうと志向するリベラルもリバタリアンも無くそうとしているのは「固有性による差別」のみで、「流動性による差別」については優先度を低く見積り過ぎている結果、彼ら・彼女らが制度的なサポートからこぼれ落ちていると考えられます。
リベラルやリバタリアンから見放されている彼ら・彼女らが行き着く先はおそらくネトウヨや極右です。なぜなら「日本人でさえあれば」最低限の尊厳を与えてくれるからです。
自分の選択という流動性によって差別されている彼ら・彼女らが最後に頼るものが「日本人である」「男性である」という自分の固有性なのです。
弱者男性がネトウヨになるまで
やっと本題に辿り着きましたが、僕はこのような背景から弱者男性論は生み出されていると考えています。
前述の図式で考えると、男性である彼らは性別という固有性で差別されることはありません。しかし、男性である以上は大学受験や就職、その後の仕事ぶりなど、当たり前のように競争の土俵に立って戦うことを余儀なくされます。つまり、流動性の中に放り出されます。そこで競争に負けてしまった男性は「機会の平等があったのにも関わらず」シンプルに努力が不足していた人の烙印を押されます。
周りを見るとリベラルな人たちは女性・子供・老人などのわかりやすい「固有性の差別」を必死になって変えようとしており、リバタリアンの人たちは徹底的に競争に負けた男性を努力不足と言ってきます。保守だって家父長的な価値観から一家の大黒柱になれないような男性は価値がないと切り捨てます。
流行りの言葉で言えば男性には競争に勝つという「自助」しかなく、共助や公助などにはあまり期待できません。そんな状況で唯一の救いなのが、「男性である」というだけで尊厳をもたらしてくれるネトウヨや極右の意見で、今やネトウヨや極右が有力な弱者男性の連帯方法になってしまっているのではないでしょうか。
やはりこれはまずいわけです。リベラルが女性や子供を守ろうとすればするほど弱者男性がそれに反対するネトウヨに供給されるだけなのですから、社会が全く前に進みません。
弱者男性の連帯はいかに可能か?
必要とされているのは、「流動性に対する差別」を守る組織を作り、自己責任論を解除するロジックを作ることです。
「流動性に対する差別」をなくすための組織は今のところネトウヨや極右にしかなっていないのでまずは、ネトウヨ以外の方法で「流動性に対する差別」から身を守るための連帯を作ります。
その方法はシンプルに会社や仕事だったりするのではないかと思っています。なぜなら競争に敗れた人に再びやり直すための選択肢としての仕事や再教育を与えていくことがネトウヨや極右を現実的に回避する方法になりうるからです。
その意味で「日本型雇用」と呼ばれる雇用方法は現在評判は悪いですが、実は競争に負けた人を救いあげる方法として優れているのではないかと感じます。なぜなら、日本型雇用と呼ばれるメンバーシップ雇用は「就職」ではなく「就社」と呼ばれます。つまり特定の職ではなく、会社に就くことで万が一最初についた職で失敗したとしても社内にある他の職がセーフティーネットになることができます。
そもそもその会社に入社するのが難しいんだよ!と反論が聞こえてきそうですが、今のところそれ以外に弱者男性を救いあげてくれる組織や自己責任論を解除するロジックを作れそうにないなと思います。
特に後者については、自己責任自体は批判対象ではなく、過剰な自己責任が批判対象になると考えているので、「どこまでの自己責任は許容できて、これ以上の自己責任は過剰なので国が保護します」というラインを決めるのが非常に難しく永遠に決められないのではないかと思っているので、シンプルに完全雇用に向けて経済を良くしていくしかないというのが僕の意見です。
*しかし、昨今のコロナによる退職者数の増加やメンバーシップ型ではなくジョブ型雇用の増加など、雇用に関する日本の商習慣の変化が弱者男性論に対して悪い影響を与えなければいいなと思います。
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会社員と寛容
最後に本題とはズレますが「会社」と「差別思想」の関連について少し。
前述したように会社という安定してお給料がもらえたり、失敗しても再びやり直しやすい環境に身を置くことが他者に対してどの程度寛容になれるのかに大きく影響を与えていると考えています。
それは会社とネトウヨの関係だけではありません。
「多様性、多様性」と口では繰り返し言っていても自分と似たような人とばかりつるんでしまうのが人間なはずです。
しかし、唯一自分と似ていない他者が必要だな〜と実感できるのは会社で働いているときに自分の苦手な仕事を担当しなくてはいけない時だったりします。
森本あんり先生の不寛容論に詳しいですが、寛容とは「自分が生理的に無理だと思う人とでもどうにか隣にいることができる状態」を指します。昨今、大声で喧伝されている多様性は「棲み分け」によって成立する多様性なので本当の寛容ではないと言われています。その点、自分が本当に嫌いな人でも隣のデスクで仕事を一緒にする経験を積ませてくれるのが会社なので「寛容」を学ぶ場としても役に立つのではないかと考えています。
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