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三部作『ZOO』 第一話「親和行動」

『イルカは群れで行動する生物で、群れの中でパートナーを見つけ、繁殖するのが通例である。しかし、ごく稀にイルカの雄同士で繁殖行動を試みる事例があり、その場合に誕生した同性のカップルは、異性同士のつがいよりも長く付き合うことが多い。理由は解明されていないが、群れの中でのパワーバランスを保つためであるとも考えられている。時に、雄のイルカ同士で噛みつくなどの攻撃を行いながら性交に及ぶこともあり……』

 新幹線の揺れの中でまどろむ小林仁の脳裏に、手に持ったままの本の内容が反芻されている。瞼を開けると、先ほどまで窓の外に見えた山々の連なった田園風景は消え、所狭しとビルが乱立している。
「まもなく品川ー、品川ー。お降りのお客様はお忘れ物のないようお願い致します……」
 車内のアナウンスを聞き、持っていた『海洋生物行動学~繁殖編~』をトートバッグにしまって、仁は準備した。改めて窓の外を見る。品川は海が近いと聞いていたが、見たところさっぱり海は見えない。
 品川のホーム上に降り立ち、言われていた改札へ向かう。
「物が多すぎる……」
 仁は無意識のうちに呟いていた。駅の構内にはデパ地下のような食料品店が並んでおり、そこ以外でもお土産用の菓子などがあちらこちらで売られていた。これから世話になる家への手土産なんて、わざわざ地元で買う必要もなかったな、と仁は思った。
 多すぎる改札や出口の案内表示に戸惑いながら、仁は目的の改札を見つけた。向こう側で、手を振る叔父の姿が見えた。
「仁くん!こっちだ、こっち! 」
 改札を抜けると、叔父の歓迎を受けた。
「いやぁ、仁くん久しぶりだなぁ。会うのは中学生以来か!でっかくなったなぁ、男前じゃないか! 」
「いやいや、そんな……お世話になります」
「いいんだよ、俺らは君のことちゃんと引き取れないんだから。礼ならこれから行く斎藤さんとこに言いな。ホレ、行こうか。鳴門と違って東京は迷うだろ、何もかも狭いクセにデカくってよぉ……」
 叔父に連れられて仁はゴチャついた駅を後にした。

 車に乗って間もなく、見えなかった海が見えた。
「本当に近いんですね、海」
「おう、そうだぞ。芝浦からは、小笠原に行く船も出てるからな。大学じゃあ、そっから父島とか行って研究とかするんじゃないのか? 」
「多分、そうだと思います。やるのは三年生からでしょうけど」
「しかし、立派だねぇ。海の動物研究するんだろ?こりゃ将来は学者かなぁ……斎藤さんとこの旦那も博学な人でねぇ、そういう話出来る人間が一緒に住むってなったら、喜ぶだろうなぁ。あ、でもその前に悩みの種になったりするかもな」
「なんでですか? 」
「一人娘の沙耶ちゃん、すっごい美人さんだからよ……」
 仁は予想だにしていない情報に紅潮を隠せず、叔父にしばらくからかわれた。

 家に着いた仁は、終始委縮するしか出来無さそうだった。着いた家は立派な和式の一軒家で「お屋敷」という言葉がピッタリ当てはまりそうな佇まいだった。先ほどの喧騒を感じさせない閑静な住宅街には、似たような「お屋敷」が横にもズラリと並んでいる。
「ごめんください、小林です」
 叔父がインターホンを鳴らす。ドアが開いて、貞淑な婦人が現れた。
「あら、いらっしゃい!待ってたわよ 」
「小林仁です、この度はお世話になります……」
「ううん、いいのよ。サトちゃんの頼みだしね。国公立の大学だなんて立派じゃない。ここから近いから、きっと便利よ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、百合絵さん。申し訳ないけど、俺はこのへんで失礼します」
「あらぁ、来たばかりじゃない」
「いやぁ、お話したいのは山々なんだが俺も仕事が立て込んでてね。また遊びに行くよ」
 唯一の肉親が離れてしまって、仁は途端に不安になったが、それを裏切るかのように百合絵は優しく家の中へいざなった。
「仁くんのお部屋は二階のそこね。好きに使って頂戴。若い子はベッドの方がいいと思って、洋間にしておいたけど良かったかしら? 」
「すみません、お気遣い頂いて」
「いいのよ、離れしか場所が無いからこれくらいはさせてよ。洗面所とお手洗いが一階で不便すると思うけど、同じ階の突き当たり、隣の部屋は主人の書斎になってるの」
 そう言って百合絵が指をさす。
「主人も勉強が好きでね、沢山本があるからきっと仁くんの役に立つと思うわ。今は出張でいないから鍵が開いていないのだけど、帰ってきたら入れてもらえるように頼んでおくわね」
「何から何まですみません」
「もう、いいのよ改まらなくても。家族が一人増えるみたいでみんな嬉しいんだから」
 部屋に荷物を置いて、仁はこれから自分の部屋となる場所を見渡した。置かれている家具は充実しており、どれも質が高いものだと一目で分かるものばかりだった。早速荷物を展開させて、勉強に必要な本を本棚に並べ、ノートパソコンを繋ぎ、洋服や下着を箪笥に仕舞い込んだ。
 全てを終えると、窓を開けた。綺麗に整えられた庭が見え、まだまだ寒い空気が入り込んだ。ケータイを取出し、母親に「無事、下宿先に着いたよ。家具とかは全部揃っているから心配しないで。みんなとてもいい人です」とメールを送った。送り終わって目を上げると庭から声が聞こえた。
「ただいまー! 」
学校の制服に身を包んだ可愛らしい女子高生が裏門から駆けてくるのが見えた。叔父の言うとおり、ものすごい美人だ。一目で、それが沙耶であることに気付き、仁は見られてもいないのに窓を閉めて隠れてしまった。
 毎日の朝食と夕食は母屋の食卓で一緒に食べるのが決まりらしい。百合絵の手料理は素晴らしく、素朴ながらとても美味しかった。立派な住まいの割には庶民的な、けれども上品な献立で、それがまた仁には嬉しかった。夕食作りを手伝っていたらしい、沙耶がエプロンをしたまま仁に質問を繰り出していた。
「海洋生物行動学? 」
「うん……その、動物の起こす行動がどういう理由で、どういう目的があって行われているのか考えて、研究するって感じかな。僕は、イルカを専門に勉強するんだけれど」
「じゃあ、学者さんになるの? 」
「いや、人によっては水族館のスタッフになったりする人もいるよ。色々あるよ」
「へぇ、水族館のスタッフは憧れるなぁ」
「沙耶、あんま質問攻めすると、仁くんが夕食食べられないわ」
「はぁい、ごめんなさい」
 むくれる沙耶もかわいい。思わず浮上した想いに頭を振りながら、仁は出汁巻き卵に手を付けた。
「あ、それ沙耶が作ったのよ」
「え、沙耶さんが? 」
「そう!意外と美味しいでしょ」
「すごいなぁ、表面も綺麗に焼けてるし。まるでお店で出されるものみたいですよ。すごく美味しい」
沙耶が、その言葉に嬉しそうにはにかんだ。仁は人生でおそらく初めての初恋も、この新生活と共に始まると確信した。

 大学が始まって数週間後。仁が図書館で本を読みながら、課題を遂行していると、ケータイのバイブが鳴った。見ると百合絵からだった。
「今日、夫の正信が帰ってきます。夕飯、豪華にするし、あなたのこともちゃんと紹介したいから早めに帰ってきてね! 」
とのことだった。仁が斎藤家にやってきてから日にちは随分経つが正信にはまだ会ったことが無い。一大服飾系商社の管理役員である正信は、出張が多く中々家にいることがないからだった。まだ入れていないあの書斎も気になるし、博学ということもあるので仁はずっと会うのを楽しみにしていた。
すると、後方から同じ専攻の剛がやってきて、仁の背中を小突いた。
「おぅ、苦戦してるなレポート」
「うん、盛り込みたい資料が多くて、まとめるのに一苦労だよ」
「あと、どんぐらいで終わりそう? 」
「そんなにかからないよ。三十分くらいかな」
「お、じゃあさ、ちょっと早いけど今日俺ん家来て飲もうぜ」
「あぁ、ごめん。今日は下宿先の旦那さんが帰ってくるみたいなんだ。まだ挨拶とかしてないからまた今度な」
「あー、そっか。そらしゃーないな……その旦那に追い出されるなよ」
「なんでだよ」
「気になってるんだろ?そこの娘さん」
「まだそんなんじゃないから! 」
 仁が剛とじゃれあうと、図書員が近づいてきた。察した二人は早急に逃げ出すことにした。

 早めに帰ったものの、飛行機の到着が遅れたようで正信はまだ帰っていなかった。百合絵は正信の帰りに合わせて夕食を準備していたらしく、好物らしい筑前煮はあとは温めるだけ、おひたしや冷奴などは冷蔵庫で待機となっていた。特にすることもなく、コーヒーを飲みながら、仁は庭先を眺めていた。仁の部屋からは庭を挟んで母屋が見え、二階のちょうど向かいの部屋は沙耶の自室だった。ほんのりと灯った明かりの中で、沙耶が机に向かっているのが見えた。宿題だろうか。真剣な表情で机に向かう姿も魅力的で、仁はいつまでも見ていられると思った。遠くからでも黒髪の艶や、ふっくらとした頬の感じが手に取るように分かった。いつかこちらを向いて微笑んだりしないだろうか、と考えては昼間剛が言っていたことを思い出して、頭を振るというのを繰り返していた。
 すると、インターホンが鳴り百合絵が慌ただしく声をあげながら出て行くのが分かった。それに伴い、沙耶もハッと顔をあげて自室を出て行った。仁も、玄関に向かうことにした。
 渡り廊下を通って玄関まで向かう間に、遠くから家族団らんの声が聞こえた。お土産をせがむ沙耶の声、出張先でのことを心配する百合絵、その合間合間に、低音の声が聞こえた。仁が玄関へ顔を覗かせると正信がいた。趣味の良い、質のよさそうなスーツを纏った高身長の男で、体つきもしっかりしていた。年の割には若々しい見た目をしており、顔立ちも非常にハンサムだった。男の仁が見てもそう思うのだから、百合絵があんなに正信を大事にするのもよく分かる、と仁は思った。
 仁に気づいた正信は一瞬驚いた顔をした。
「あぁ、君が仁くんだね」
「はじめまして、小林仁です。しばらくご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」
「固くならなくていいんだよ、もう君は家族みたいなもんだ。さぁ、大分待たせてしまったみたいだから、早く百合絵の食事を食べよう」
 正信は仁の肩に手をかけて奥へ進めた。

 正信は仁に非常に興味を持って、沙耶以上に色々聞いてきた。話は深く進み、夕食が終わった団らんの最中に沙耶は自室に戻っていた。
「面白いものを研究しているんだね。生物学系の研究は、どれか一種類に生き物を絞って研究するんだろう?君は何を研究するんだい? 」
「バンドウイルカを研究しようと思っています」
「バンドウイルカ?水族館のショーによく出ているやつだね。四国の方でも見れるんだろう?確か仁くんは、四国の出身だったね。昔、あの辺でイルカを見たことがあるよ」
「はい、小さいころからよく見ていたんですごく好きなんです。もっとちゃんと勉強して、いずれ地元でイルカウォッチングとかのガイドとかやれたらいいなって思っているんです。鳴門からはちょっと離れているんですけれどね」
「いい夢だね、素晴らしいと思うよ。今はイルカの何について調べているんだい? 」
「主に繁殖行動ですね。その中でも、いわゆる異常行動の方を」
「異常行動? 」
「繁殖の場合は、例えば同性愛とかですね」
 チラと百合絵の様子を伺った。百合絵は意に介していないようだったが、やはり気恥ずかしいものがあった。
「へぇ、イルカにもあるんだね。話にしか聞いたことは無いが」
「群れの中のパワーバランスを取るためにそうなることもあるらしいですよ。パートナーによっては、普通のカップルよりも長く続く関係になったりもするらしいです」
「イルカの中では普通のことなのかい? 」
「異常行動って名前だけだと大層なことのように思われますけど、実際はそんなことなくって、一定の数で発生しているらしいんですよ。だから、きっと僕たちが感じているよりも普通のことのように捉えているかもしれませんね。人間界で起こると異常なことだと言われていますが、実際はきっとそんなことないんですよ」
「そうかそうか……」
 正信は微笑みながら話を真摯に聞いていた。
「遅くまで話させてしまったね、すまない。久しぶりに面白い話を聞けて楽しかったよ。しばらくは家でゆっくりすることが多いから、また話し相手になってくれると嬉しいな」
 物腰の柔らかい言い方に、仁は彼自身の品の良さを感じて快く返事した。

 仁が百合絵の片づけを手伝っていると、百合絵が嬉しそうに笑った。
「あの人があんなに嬉しそうに話してるの久しぶりに見たわ」
「そうなんですか? 」
「えぇ、私も沙耶も難しいことはよく分からないから話す内容に限度があるのよ。あの人は優しいから、言わないけれどきっとそれなりに不満だと思うの。あんなに嬉しそうなの初めて、きっとすごくあなたのことを気に入ったんだと思うわ」
洗い物を終えた百合絵が手をふく。
「いつも書斎で一人でいることが多いから、出来るだけ話し相手になってあげてね。あの人、なんだかいつでも寂しそうなの」


 ある日、仁が早めに大学が終わって帰宅していると車が通りがかった。ウィンドウが開くと、正信だった。
「仁くん、偶然!今日は授業終わるの早いんだね」
「はい、バイトでも探そうかなって思ってたところでした」
「そうかそうか。あ、だったら車乗っていくかい?もし、時間に差し支えなければ、ちょっと付き合ってくれないか? 」
「はぁ、いいんですか? 」
「良いも何も、構わないさ。こっちの用事に付き合わせちゃうんだから」
 誘われるがままに車に乗り、向かった場所はお台場のショッピングモールだった。はじめて見る規模の商業施設で、仁は目が回りそうだったが正信はそんな仁の歩幅にキッチリ合わせて目的の場所へ向かった。男性用アパレルブランドの店に入ると、正信は何着かを取って仁を呼んだ。
「仁くんは、何色が好き? 」
「えっ……青とか、ですかね」
「よし」
 正信は群青のデザインシャツを一着取ると仁の背中を押して、試着室に入れた。
「着てみて、似合うと思うから」
 と一言だけ言うと、困惑する仁を置いて試着室の扉を閉めた。きっと、正信の会社の商品を試着した印象でも見たいのだろうと、仁は考えた。服を着て、試着室から顔を覗かせてみると、待っていた正信が来た。
「見せて見せて」
 と言って、ドアを全開にする。満足そうな表情をすると正信は
「ありがとう」
とだけ言って扉をゆっくり閉じた。着た服を脱いで出ると、正信はそれをサッと受け取り、レジへ持っていった。他にも何着かあったが、きっとそれは正信が仕事で使うものだろうと仁は思った。
 家に帰ると仁は荷物を運ぶのを手伝った。
「手伝わせてごめんね、俺の仕事なのに。助かるよ。書斎の方にお願いするよ」
 仁は言われた通りに正信と共に荷物を運んだ。床やテーブルにさっき買った洋服を広げ正信は色々見ていた。仁も荷物を置いて、中身を取出し、どこに置いたらいいか聞いては展開させた。
「他に何かありますか? 」
「いや、もう大丈夫だよ。ありがとう」
 それを聞いて部屋を出ようとする仁を正信が呼びとめた。振り返った仁に、先ほどの群青のシャツを紙袋に入れて手渡した。驚く仁に正信が続ける。
「あげるよ、今日手伝ってくれたからバイト代。あんまり服に関心が無さそうだったからさ、きっと似合うから着てくれよ」
「あ、ありがとうございます。すみません」
 仁は照れくさそうに書斎を去って、すぐ前の自室に入った。紙袋を覗くと、あの群青のシャツ以外にも洋服が何点か入っていた。

 正信の選んだ服は大学でも好評だった。服に詳しい剛は、着ているシャツが普通の大学生じゃめったに着れないような高級品であることに驚き、羨んだ。そんなに良いものとは気付かなかった仁は、簡単にそんな粋なことが出来る正信に舌を巻いた。

 その後も、正信は仁を誘って外食に行ったり、買い物に付き合わせたりしていた。仁が自分から行かないようなところに行けるのは仁にとっては新鮮で、楽しく、また都会の観光地も見ることが出来たので、正信との外出が心底楽しかった。
「若いからって、質のいいものを体験しないのは勿体ないが、普通の学生じゃ金銭的には難しいからね。僕も大学生だった時はそうだったよ。だから、出来る範囲で君のそういうことのサポートをしたいと思っているんだよ」
 と正信は語った。百合絵も、仁を連れて外出する正信を見ては
「まるで息子が出来たみたいね」
 と嬉しそうに語っていた。

 ある日、仁は兼ねてからお願いしたかったことを正信にお願いした。書斎のことだった。一度、入った時に、その書物の量に仁は驚いていた。しかし、日中仕事で正信が留守の間はいつでも扉には鍵がかけられており、仁一人では入ることが出来なかった。百合絵や沙耶もあまり中に入ったことが無いらしく、彼女達は合鍵すらも持っていなかった。仁にとっては、大学の図書館で中々見つけられない本を探してみたいという気持ちもあった。仁が頼むと正信はそれを快諾し、明日の夜なら家にいるから声をかけてくれと話した。
 翌日の夜。仁が大学から帰り、「ただいま」と声をあげると、珍しく誰の反応も無かった。不思議に思いながら、自室に向かうと丁度書斎から正信が出てきた。
「あの、百合絵さんたちは? 」
「あぁ、沙耶と二人で出掛けたよ。舞台のチケットをあげたんだ。帰ってくるのは遅いらしいから、今夜は二人で何かうまいものでも食べよう」
 正信は百貨店のデパ地下で買ったらしい、美味しそうな惣菜を広げた。ワインも開けて仁に飲ませた。まだまだ酒のうまさが分からない仁だったが、このワインは何故か美味しく飲めた。程よく良い気持ちになったところで、正信は書斎へ行こうと誘った。
 改めて書斎に入るとやはり、すごい本の量だった。それにも関わらず、本棚は分野ごとに分かれて配置されており、さらにそこからタイトル順、ものによっては作家順に並んでいた。
「好きなだけ借りていっていいよ」
 と話すと、正信は窓辺のカウチに腰かけ、残っているワインを飲みながら本を探す仁を見ていた。その間、仁は夢中で本を漁っていた。元々本好きだったのもあり、生物行動学以外の本でも魅力的なものがたくさんあった。五冊ほどの本を腕に抱えたままウロウロしていると、仁は背後に気配を感じた。振り返ると正信が立っていた。今まで見せたこと無い表情で、仁をじっと見つめている。
「正信さん……? 」
 仁が不思議そうに声をかけるとほぼ同時に、正信は仁の両手首を掴んで本棚に押し付け、強引に口づけした。押し付けた衝撃で本は高い所からバラバラと落ちた。さっきまで仁が抱えていたものと、落ちてきた男性モデルの写真集や三島由紀夫の初版本が混ざる。突然のことで驚きを隠せない仁は身体がすっかり固まってしまい、動けない。抵抗しようにも、正信との体格差では成す術は無かった。口腔内を蹂躙されて、やっと唇を解放されたが、仁から言葉は出ない。起こった事態が理解出来ずにワナワナと震えて言うことを聞かない身体はそのまま正信の腕の中に収まり、抱え込まれた。カウチに押し倒され、再び唇を犯されながら身体をまさぐられたところで、今から起こることをようやっと仁は理解した。
「まっ、正信さん、何を……」
 正信は仁の言葉を意に介さず、夢中で服を脱がした。仁の肌が空気に触れる。元来、運動が嫌いだったので仁の胸板は薄く、肌は白い。それをいとおしむ様に正信は掌で愛撫し、口づける。
「や、やだ……やめてください、お願いです、正信さん」
 舌が生き物のように皮膚上を這いずりまわる。ある一点を刺激されると、あろうことか声が出た。声を出した自分が信じられず、仁は愕然とした。ズボンを下着と共に一気に下ろされる。仁は必死に抵抗するが、虚しいものだった。正信の温かい手と口が仁を掴んで、やんわりと刺激する。やだやだと頭を振りながら中空に手を振る意識とは裏腹に、仁のそれは徐々に質量を増す。正信の舌は陰茎から裏に回り、後門に到達してほぐし始めた。事態は仁が思っていたよりも深刻そうであった。指を入れられた圧迫感は体験したことのない苦しさで、仁の眼には涙が浮かぶ。抵抗の声も弱々しくなり、さっきまで威勢のよかった手の力も抜けた。
 そこからのことはおぼろげにしか覚えていない。自分の顔を愛おしそうに撫でながら、正信が覆いかぶさって見えない天井。下半身に響く律動。枯れた喉から漏れる自分の声。断片的ではあったも、それは仁をいたぶるのには十分すぎる記憶だった。

 全てが終わって頭がハッキリしてきた頃、仁は気がついたら自室のベッドに寝かされていた。
「きっと夢だったのだ」
 と言い聞かせながら、仁は上体を起こす。腰に、今まで感じたことのない鈍痛を感じた。恐ろしくなって、シャツをまくる。白い肌の所々に赤い痕が残されていた。
「蚊に刺されたのだ」
 と言い聞かせながらズボンを脱ぐ。内腿に集中的につけられた痕を見て、仁の脳裏にあの記憶が蘇る。ふと、下着に違和感を感じて恐る恐る下ろしてみる。ベッタリと白い液体が付着しており、それが自分の性器からだけではなく、肛門から出ているものだと気付いた。体液がその二か所から出ていることの意味を理解した時、仁は声にならない声で嗚咽を漏らした。

 翌日、家にいても正信のことで落ち着かないと考えた仁は大学へ行ったが、しかしそれはそれでひどいものだった。普段は真面目に取り組んでいる講義も、昨晩のことが気になって上の空だった。それを剛に見抜かれて小突かれる。
「おい、珍しいじゃねぇかぼーっとして」
 小突かれたことでびっくりした仁は椅子から少し飛び上がった。
「な、なんだよ。大丈夫かよ」
 剛は思ってもみない仁の反応に戸惑う。明らかに何かに動揺している仁は傍から見てもおかしいのは明らかだった。
「なんかあったのか? 」
「いや、何も……何もないよ」
仁が再び講義に集中しようと板書の方へ向き直る。講師がイルカの異常行動について話しており、そこで同性交尾を挙げた。事細かにその様子の説明を聞かされていると途端に、胃から何かが込み上げてきたので、仁は慌てて立ち上がってトイレに駆け込んだ。
正信と顔を合わせるのが嫌で、まともに朝食を食べなかったせいか、胃液しか吐き出せなかった。むせ返りながら、すっかり出しきってしまうと仁の身体から力が抜ける。便器にもたれていると、ドアが叩かれた。剛だった。
「仁、平気か?医務室行くか? 」
「大丈夫……大丈夫だから」
「どっか悪いのか? 」
「平気だよ……」
 ドアから仁が出る。
「吐いたのか? 」
「胃液しか出なかったよ」
「飲みすぎた? 」
「いや……」
「あんま無理すんなよ。ホラ、歩けるか? 」
 剛がふらつく仁の腕を掴んで抱えようとする。が、触れられそうになると仁が小さく声を上げながら腕を振り払った。剛が驚いた顔をしている。
「大丈夫……大丈夫だから」
呆然とする剛を置いて、仁は壁伝いにのろのろ歩きながらその場を去った。

外の空気に当たれば気分も紛れるだろうと仁は考え、中庭のベンチに腰かけながらケータイをいじっていた。母親からメールが届いている。
「仁 なかなか連絡をくれないから心配しています。斎藤さん家に失礼の無いようにね。身体を大事にするんですよ」
 仁は「返信」ボタンを押して、助けを求める文章を書こうと思った。
「母さん 僕はあの家の旦那さんに」
 そこまで書いて指が止まる。「旦那さんに」その後何をされたのか、書くのには大いに拒まれた。仁はそれらを消して
「心配ありません、僕は大丈夫です」
 と書き直して送信した。深いため息をついて仁はうなだれた。頭上では夏の訪れを告げる雲が青い空を黙って通過していく。
 重い足取りでそっと仁は斎藤家に帰ってきた。人に聞こえない程度の声で「ただいま」と呟く。台所で、百合絵が夕飯の支度をしているのが見えた。仁の気配に気づいて百合絵が振り返る。
「あら、仁くんおかえりなさい。気がつかなかったわ」
「あ……すみません、帰ってました」
「なんだか、体調が優れて無さそうだけれど大丈夫? 」
「だ、大丈夫です、大丈夫です」
「そう?うーん、でも念のため何か身体に良いものを作ってあげるわね」
 百合絵はそう言って台所に向かった。
「そうそう、仁くん」
 百合絵が何かを思い出したかのように発した。
「正信の書斎にあなたの本、忘れたでしょ?沙耶が預かっているはずだから、沙耶の部屋に寄ってみて」
 仁は沙耶の部屋に合法的に入れる喜びを感じながらも、そのチャンスが正信によって作られたことに憤りを感じていた。わざとなんじゃないかとすら思えた。僕が沙耶さんを気にしているのを知っててわざと……
 沙耶の部屋をノックすると、中から鈴のような声で沙耶の返事が返ってきた。
「あ、仁さん!本でしょ?今持ってくるね 」
 沙耶がドアを開け放ったまま奥へ戻る。女の子らしい、清潔感のある良い香りがした。その綺麗な部屋の奥に、あの男の本が積まれていた。途端に、仁は憎らしくて仕方が無くなった。
「はい! 」
 沙耶がそんな気持ちも露知らず、元気よく本を渡した。
「ありがとう」
 力なく返事をすると沙耶が声をかけた。
「仁さん、今日の服とっても素敵よ。爽やかだし、かっこいい。もっとそういうの着たらいいと思う」
 仁は自分の着ている服を見つめた。あの時に正信に買ってもらった群青色のシャツだ。仁は益々胸の内で憎悪を燃やした。
 しかし、仁には何も出来なかった。けだるくベッドに預けた脳内に、百合絵と沙耶のことが浮かぶ。二人とも自分にとても良くしてくれている。食事も寝るところも風呂も全てこの家が世話してくれている。彼女たち家族は、正信の素性なんて露知らずいつでも幸せそうだった。彼女たちにとって、あの男は理想の夫で、理想の父。尊敬さえされているのだろう。確か、いつか百合絵が言っていた「あの人のおかげで私たちはとてもいい暮らしが出来ている」と語っていたのを思い出した。
 果たして居候の身である自分が、その幸せを壊す権利があるのか?そうだ、彼女たちは何も知らないのだ。正信にそういう趣向があるということを。あの書斎の秘密も。彼女たち自身には何の責任もない、ならば恐怖心はあるが自分自身で正信に対峙し、決着を付けるべきなのではないだろうか。気がつけば仁の手は胸元でシャツをキツく握っていた。

 百合絵も沙耶も寝静まった時間を狙って、仁は書斎の前で正信を待ち受けていた。階段を上る足音が聞こえ、正信が現れた。仁に気付き、優しく微笑む。
「随分遅い時間まで起きているんだね、大丈夫かい? 」
 少しも悪びれを見せない正信は仁にとっては大変な驚きだった。無言で正信を睨みつける。
「昨日のことだね」
「えぇ」
「怒ってる? 」
「えぇ」
「はは、そりゃそうだよな……」
 力なく笑いながら、正信は窓辺に寄りかかる。
「あなた、なんとも思わないんですか? 」
「……」
「嫌がる人間を無理やり犯したんですよ!立派な犯罪ですよ! 」
 正信は力なく俯いて、黙って仁の言葉を聞いていた。
「訴えたっていいんですからね、こっちとしては。どうしてあんなことしたんですか! 」
「どうして? 」
 正信が向き直る。
「どうしてって? 」
 正信があの優雅な頬笑みを湛えながら返す。
「君が好きで堪らないからに決まっているだろう? 」
 仁がたじろぐ。
「何を言ってるんですか? 」
「好きじゃなきゃ君を抱いたりはしない」
「やめてください! 」
「疑われるかもしれないっていうのは分かってる。でも気持ちは本物だ」
「何を言っているんですか? 」
「また君を抱きたいとすら考えている」
「いやだ! 」
 後ずさりした仁の足がもつれて、尻もちをつく。
「ありえない……ありえないですよ!僕男ですよ! 」
「同性でも愛があると君は語ってたね」
「あれはイルカの話です! 」
「君はこうも語っていたよ。生物学上同性愛は存在し、人間に起こるというのも何ら異常なことではないと」
「それとこれとは違うんです! 」
「何も違わない! 」
 正信が倒れた仁の腕を掴んだ。仁が震える。
「あ、あなたには百合絵さんも……沙耶さんもいるじゃないですか」
「そうだ。世間からの差別が怖くて俺は普通を装っている。それがどんなに苦しいことか……出張を理由に遠方に出てはそこで本当の自分を解放していた。でも、本当に心から好きになる男には中々出会えなかった。虚しく、肉欲のみを解放するだけだ。その内、世間体を守るために百合絵と結婚し、親から怪しまれないように沙耶を産ませた……俺は最低だ」
 正信が仁の腕にすがりつく。
「自分に何度も言い聞かせた。『俺はこの女が好きなんだ。至って普通なんだ』と……一時の気の迷いでそうなっていただけなんだと納得させるために、自分を解放する場所へ行くのを自分からやめた。でも、どうだい?そうしたらなおのこと、苦しくなるばっかりだ……誰も本当の俺を知らず、見ようともせず、誰にも何も話せない……凄まじい孤独感だ……そんな時に君が来て、あのイルカの話をしてくれたね。俺は嬉しかった。君は美しいし、頭もいい。理想的だ、俺にとっては希望そのものだ。一目で君のことが好きになった……こんな魅力的な青年が一つ屋根の下で、しかも俺の書斎の隣室にいるなんて、考えただけでもう、心地が良かった。君が、俺の書斎で夢中で本を選んでいる背中や腰をじっと見つめていると、もう我慢が出来なかった」
 正信が仁の頬をゆっくりと撫でる。
「いきなりあんなことをして申し訳ないと思っている。でも、僕のこの気持に君が応えてくれたら長い人生の中でこんなに幸せなことは無い」
 仁は正信の眼から離せなかった。
「もっと世の中がイルカの群れのようにシンプルだったら良かったのにと何度も思ったよ……仁くん」
 呼びかけた正信に、震える声で仁が返事をする。
「はい……」
「口づけしてもいいかい? 」
「……」
 はい、ともいいえとも言えず、仁は俯いた。正信はそれを了承と捉えて頬を包みこんで唇を重ねた。昨日よりもずっと優しくされたことで、仁の胸がざわめいた。
「君は本当に美しいよ」
正信は仁の腕を抱いて立ち上がらせる。
「書斎に来てくれるかい? 」
「えぇ……」
 正信は嬉しそうに微笑んで仁の背中に手を回し、書斎に誘った。
「俺の見立てた通りだ。そのシャツ、本当によく似合ってる」
 そう言って仁の胸元に置かれた正信の手は既に熱くなっていた。

 百合絵と沙耶が寝静まった頃か、両者がいない日は必ずと言っていいほど仁は正信に抱かれた。ほとんど正信の自室で行われることが多いが、時折遠出して、買い物などしてからホテルなどに入って行われることもあった。正信は、自分が買った服を仁が着ているといつも以上に興奮した様子だった。仁はあえて着るのを避けたこともあったが、そうすると正信はわざと仁を焦らしてなかなか果てさせてくれず、苦しい思いをさせられるので、仁はそのうち正信の買った服を決まって着るようになった。淫らな女のように、正信のを求める自分が嫌だったし、そうなってよがる自分を見て満足そうな顔をする正信も嫌いだった。しかし、嫌いだ、嫌いだと頭では思っていても、正信が仁を優しく抱きすくめ、満足そうにため息を漏らしながら「好きだ」と耳の中で囁かれると、もうどうとでもなってしまうのだ。
 ずっと田舎で暮らしていて、女の子との浮ついた諸々も無く平穏に暮らしていたのに、まさか同性から性的な目で見つめられることが自分に起こるなんて思ってもいなかった。これがいけないことだと分かっていても、あのイルカの生態文書が脳裏によぎる。
『群れの中のパワーバランスを保つため』
『異性カップルよりも長続きする場合もある』
 それに被さるように正信の言葉がよぎる。
「もっと世の中がイルカの群れのようにシンプルだったら良かったのに」
 今、仁の隣では正信が静かに寝息を立てていた。こういうことは何度もある。そしてその度に仁は正信を殺したいと思った。今、静かに眠るこの男の首を絞めて殺してしまえば……今、この男の胸に刃物を突きたてたら……そのたびに、仁の脳裏には沙耶や百合絵の笑顔がよぎる。幸せなあの家庭は、裏で仁と正信が関係を重ねている間も続けられていた。正信が家に帰れば、元の理想的な父親に変わり、二人を深く愛していた。正信の家族に対する愛はきっと本物なのだろう。百合絵のことも沙耶のことも、とても大事にしていたし、二人の誕生日や記念日などのお祝いの日を忘れることもなく、そうでない日でも彼女たちが喜びそうなものを見つけたら買って、与えていた。偽りじゃない、本物の家族だ。
 仁が正信の首元に手を伸ばしかけたのを躊躇しているところで、正信が目を覚ました。正信はまた微笑み、黙って仁を抱いて押し倒した。

 そんな日々を続けていると、仁の私生活に影響が出てきた。正信の誘いに抗えないまま、誘われるままになっていくごとに、仁は大学に行かなくなった。正信の休みが平日でさらに不定期ということもあるが、大学に行っても授業が手に付かず、ぼんやりするばかりということもあった。剛にちょっとでも肩を触られると変に意識してしまうのも居心地が悪かった、もちろん剛自身にそんな気持ちは全く無い。しかし、男の手によって穢れた身体で、何も知らない誰かと関わるのはそれなりに苦痛であった。何かの拍子にバレてしまうのも恐ろしかった。
 大学に来ない仁を心配して、何度も剛から電話もあったが「体調が悪い」とだけ言って、頑なに彼との接触を拒んだ。専攻科目の授業にも行かなかったせいで、家族のもとに通達も行ったらしい。母親からの電話もあったが、出たくなかった。出れなかった。こうして孤独になっていくごとに正信との時間は長くなり、正信に心まで入れ込んでいくのが自分でも分かった。いつしか、耳に流し込まれた囁き声に、嘘でも同じ言葉で返すのに抵抗がなくなっていった。

 ある日、修学旅行から沙耶が帰ってきた。京都に行っていたらしい。仁の部屋の扉が叩かれた。ずっと会えなかった沙耶に会えるのは純粋に嬉しかったし、いつか沙耶が自分のことを好いてくれたら、この地獄から抜け出せるのではないかとも少し考えていた。ドアを開けて、沙耶を迎える。
「おかえりなさい、沙耶さん」
「ただいま、仁さん。お土産があるの」
 思ってもみなかったことに仁は驚いた。沙耶は小さな箱を渡した。
「開けてもいい? 」
 仁が聞くと、沙耶ははにかみながら頷いた。甘酸っぱく高鳴る胸を押さえながら箱を開けると、中には鈴のついた美しい簪が入っていた。
「え……なんで? 」
「変に思われるかもしれないんだけど、仁さん最近とても綺麗になったなぁって思ったの。不思議なんだけどねこの簪見た時、女物なのに仁さんの顔が浮かんだの」
 恥ずかしそうに話す沙耶には何の悪気もなければ、何か強い確信があるわけではない。それは仁でも分かっている。
「ごめんなさいね、変なこと言って。でも本当にこの簪、仁さんに似合うと思うの。つけることなんて無いんでしょうけれど」
「……ありがとう、とても綺麗だと思うよ」
 笑いながら沙耶は去って行った。取り残された仁は、初めての淡い恋をした相手から貰った初めてのプレゼントが、あまりにも皮肉めいていることに何とも言えない打撃を感じていた。

正信が短期の出張に出ることになった。岡山の方らしい。百合絵たちとの食卓でそんな会話が出た。正信が言った。
「部下を一人連れて行こうと思ったんだが、そいつが身体を壊してな。あまり難しいことはしないから、出来れば仁くんを連れていきたいと思っているんだ。簡単な手伝いだけなんだけどね」
 嘘だ、と仁にはすぐに分かった。
「でも、仁くんだって大学の授業があるんだから」
 と百合絵が制するが、正信は続ける。
「他の授業はちゃんと出ているんだろう?なら平気だよ、バイト代だってちゃんと払うし、出張とは言っても二泊三日程度だ。仁くんさえ良ければ来てくれると助かるんだがな」
 正信がじっと仁の目を見る。仁に拒否する力は無かった。


 正信が取った宿は風情のある高級旅館だった。今まで来たことの無い場所の格式高さを感じて、仁は少し委縮したが正信は嬉しそうだった。
「君を連れてここに来たかったんだよ。素敵なところだろう?すごく静かで良いところなんだ。たまにはこういう旅行もいいだろう? 」
「どうして……」
「どうしてって、君は大事な恋人だからね。こういうサービスとかしたくなるんだよ。君が、俺のために俺の買った服を着るのと同じだよ」
 仁は頬を赤らめてそっぽを向いた。
「仁、君を何度でもこうした旅行に連れて行きたいよ。今度はイルカを見に行こうな。小笠原とか良さそうだ……君の生まれ故郷で、船に乗りながらというのもいい。君が、君の好きなものを見ている時の顔が見たいよ」
 そう言って見つめる正信の目線に応えず、仁は荷物を持って歩いた。山には紅く紅葉が広がっていた。


 せっかくの温泉もそこそこに、二人は布団を引くとすぐに睦みあった。軽くしか入らなかったにも関わらず、すぐに身体は熱くなる。来るときに着ていた服は周囲に散らかったままだった。肌蹴させられた浴衣から覗く白い肌に正信の掌や舌が密着する。熱い吐息も絡み合って、部屋の湿度は増していく。仁の下半身に埋めた正信の頭髪に仁の指が絡み、喉が反り上がる。
 ほどなくしてほぐれた仁の中に正信が身を沈める。上へ上へと突き上がる衝動のせいで、仁の手が頭上にあった自分の服に触れた。「チリン」という音が響く。ふと見ると、仁の着ていたジャケットのポケットから、肌身離さず隠し持っていたあの簪が覗いていた。音に気付いて正信が簪に手を伸ばす。
「簪か、綺麗だな」
 あがった息のせいで仁は答えられない。
「誰がくれたのか知らないが、確かに君によく似合うだろうね。嫉妬しちゃうなぁ、こんなプレゼントをする人に……」
「違う」と仁は答えたかったが、正信は仁を抱きかかえると自分の上に跨らせた。さっきより深く正信のが仁の奥へ入っていく。高い声を上げながら仁は身をよじる。離れてしまいそうな意識を繋ぎとめるために正信の背に手を回す。しかし、仁のちょうど背後にある正信の手からは先ほどの簪の鈴の音が動きに合わせて「チリン、チリン」と鳴いている。
「誰がくれたんだい? 」
 正信が仁の耳に問う。仁の目には涙が浮かぶ。
「沙耶さん……」
 かき消えそうな声で答えるが、正信には聞こえていない。仁の脳裏に沙耶の笑顔が浮かぶ。最初に見かけた、庭先に駆け込む姿。出汁巻き卵を褒めた時のはにかんだ顔。本を取りに行った時に香ったあの香り。
 全てがこの男に奪われた。ふと見ると、自分のケータイが光っている。画面には母と剛からの着信を知らせる表示が出ていた。仁の胸に、律動以上の何かが込み上げてきた。
 正信が簪を仁の耳にかけた。正信はそのまま仰向けに倒れ、下から仁を突き上げる。突き上げるたびに肉の絡まる音と、鈴の音色が何度も響いた。
「綺麗だ……」
 正信が少し上体を起こして、仁の脇腹から頬へ向かって手を伸ばしながら呟く。鈴の音と肉の音で仁の頭はグラグラに揺れていたが、正信の言葉で頭に何かが立ち上がった。
「仁……本当に君は綺麗だ」
 仁はかけられた簪を抜いて手に握った。そのまま、満ち足りた表情でこちらを見つめる正信の胸にそれを思い切り突きたてた。小さくうめき声をたてながら正信がそのまま後ろに倒れる。驚いて、仁を見つめる正信。手をかざして防御しようとするのを、仁は力いっぱい振りほどいてまた、突きたてた。鈍く裂けた正信の肉から血が噴き出し、仁の白い肌に返ってくる。
「仁……」
 正信は何度も名前を呼ぶが仁には届かない。嗚咽をあげながら仁は何度も胸を刺した。声にならない訴えが手に握った簪と共に突き刺さる。何往復したのか分からない簪はいつしか先端が欠け、鈴もこびりついた血のせいで鳴らなくなった。
 虫の息になった正信が仁を見つめている。仁の太ももは、徐々に失いつつある正信の体温を確かに感じていた。正信は残された力で手を仁に伸ばした。血まみれの顔を、それ以上に血まみれの手が弱々しく撫でる。
「仁……」
 仁は我に返った。力を失って頬から離れた手は布団の上に落ちた。手の中には簪が握られたままだ。正信の目からは涙が流れた。太ももの下はどんどん冷たくなっていく。
 仁はこの時にはじめて、少しでもこの男を愛していたことに気付き、震えながらはじめて彼から唇に口づけた。決して息を吹き返さないということは分かっていた。
 開け放たれた窓から紅葉が一枚舞い込んで、赤い血の海に溶け込んだ。不思議なことだが、仁はこの時一瞬だけ変に冷静になって「あぁ、もうイルカが見れない」とふと思った。



三部作短編小説の第一話『親和行動』です。
動物の生態行動に即して、人間の関係性なんかを描こうというコンセプト。

今回のテーマはズバリガッツリ「同性愛」。
男×男です(お洒落なおっさんと大学生)。
直球どストレートな性描写があります。

もっと世の中シンプルならいいのにね。

2014年9月9日公開
<こちらはpixivより引っ越ししてきた作品です>

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