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大袈裟でもいい。私の夢だ。

 「心理学科がある大学に行きたい」
高校3年生の春、三者面談で初めて口にした。それまでは漠然と面白そうなものに惹かれていただけで、伝える勇気なんてなかった。それに私が目指している(という体だった)ものは看護師だ。心理学者でも臨床心理士でもない。既に進路先を看護専門学校に絞っていた段階だった。心理学科に進んでは看護師にはなれない。10代の無知な私ですら分かる事だった。
でも、今言わなければ手遅れになると思った。

 小さな希望と勇気も虚しく、即却下された。

 私には2歳下に弟がいる。私より何百倍、何千倍と頭のいい弟には果てしない希望が広がっている。彼のために少しでも金銭的余裕を残して起きたいから、私が行ける所は限られていた。
「看護科は授業料が高いが、3年制の公立短期大学か専門学校なら抑えられるからなるべくそこを目指して欲しい。」
条件付きでの進学。近隣の心理学科はほぼ全て(国立大学を除き)私立の四大だった。条件を大幅にはみ出した私の希望は呆気なく散った。

(この話しをすると大抵の人から大変だったねみたいな顔をされるけど私は別に大変じゃなかったし、看護でよかったと思っている。お給料がいいので)



 結局、心理学は私にとって未知な存在のまま看護学校に入学した。

 19歳。新品の教科書や分厚過ぎる参考書を前に、目に飛び込んできたのは「精神看護学」の文字。心が踊った。唯一、楽しいとも思った。勉学で面白いと思ったのは初めてだった。これがinterestingなのかと、中学生のとき教科書に出てきた英単語の意味がハッキリ分かった。
残念だったのは精神看護学の必要単位数が4単位しか無かったこと。大嫌いだった基礎看護学は11単位、495時間もあったのに。

 たくさんの知識を取り込んだ。疾患の名前、症状、薬の副作用。教科書のページをめくる度に増す好奇心は私の看護師としての夢を具現化していった。

精神科で働く看護師になりたい。

強く思えば思うほど、将来設計が楽しく、鮮やかになっていった。
精神科と言うと、スキルアップが出来ないだの出世できないだの口を出してくる人もたくさんいた。間違ってはいないと思う。総合病院に比べると医療行為も身体ケアも少ない。確かに技術を磨くには物足りない場なのだろう。
でも私は採血をしたい訳では無い。痰吸引もIVHの介助をしたい訳でもない。心電図の波形を眺め続けるなんて真っ平御免だ。輸血中の状態観察の何が楽しいのか分からない。
私が心の底から面白いと感じ、憧れる先が邪道でも構わない。スキルアップよりも求めているものがあるのだ。



 迷いもあった。“好きは仕事にした途端、嫌いへ変わってしまう”
よく聞く言葉のどこまでが本当なのか。私には嫌いになる程の熱意があるのか定かでは無かったし、飽き性でもあるため長い事憧れ続けられるのかも分からなかった。
その中でも特に大きな悩みになったのは、夢が叶ってしまう事。夢が現実になった瞬間、次は何を目指したらいいのだろう。もし仮に精神科で働けることになったら、ゴールテープを切った先はどのレーンを走り、どの目的地に向かって走ればいいのだろう。夢があるってとても楽なんだと、自分が浸かっているぬるま湯の有難みを知った。

 迷いと、ほんの少しの怖さを抱き、逃げた。
まだまだ嫌という程働かなければならないから今じゃなくてもいいし、精神科はお給料が低めだって聞いたし…
頭の中で都合のいい言い訳を反芻して、逃げる口実を言い聞かせた。誰に、ではない。自分に、だ。

1年半。派遣に登録しながら責任とは程遠いところで働いていた。色々な所を転々としながら働くのは面白い。少しずつだけどたくさんの経験ができた。時給が高い(ものによるけど大体1,500~1,900円/時くらい)のも魅力的で、派遣でも充分生計を立てていける。
それでも不安は拭いきれなかった。どうしてもこのままではいけないような気がした。

 大きなきっかけは、自分でもよく分からない。胸を張りたいと思ったのと、“好き”が怖くなくなったから。あとは、仮にこの先何があっても仕事は無くならない事を実感できたのも大きい。
この先の人生、決して永く無い。大切な人ができた今、仕事以外でやりたいと思える夢がたくさんできた。まだまだたくさんあると思っていた時間も、考え直してみると一瞬で終わってしまう。後回しにしている時間なんて微塵もなかった。



 私は、今を生きている。
過去でも未来でもない今を、とびきり素敵にできるのは今の私しかいない。仕事にできる好きがあるって、これ以上のキラキラは無い。

半ば勢いで進み始めた転職活動が功を奏し、もうすぐ、夢が叶う。

夢だなんて大袈裟だな、なんて思わない。大袈裟でもいい、これが私の夢だ。

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