[環境問題の本質的原因は、環境に無い]”人類の本当の敵とは何か”を、あなたは知っているか
こんにちは。ヒロです。
突然ですが、あなたは環境問題についてどれほど考えたことがありますか。
私は今まであまり真面目に考えてこなかったように思います。
環境問題とは確かにみんな言うけれど、、、せいぜいリサイクルくらい。
一人暮らしになってからはプラ、紙の分別もしなくなっていました。
結局自分のことを1番に考えるべき。
そんな考えに固執していたからです。
(中学では部活を小学校終わりまで続けていた集団競技のサッカーから個人競技のテニスに変えましたし、、。)
ところが、読書を続けるうち、こういった意識を大きく変えてくれる本に出会いました。
大きく3点まとめると。
・私たちは今までで最高濃度のCO2濃度の空気を吸っている。
・これからの世の中は次世代に向けSDGs(持続可能な社会)であることがより求められる。また、長期的に利益を見込むためにも、協力、協調が必要となる。
・日本よりもアフリカ・東南アジア諸国や、インドでは日本より進んでいる地域もある。
このように、環境問題について考えることは、今を生きることであり、経済について考えることでもあるのです。
皆で勝つ。
誰かを蹴落とすのではなく。
キングコングの西野亮廣さんも言うように、これからの時代は優秀な人材ほど「競争」を避けて生きていくのが当たり前になるでしょう。
次々に身の回りに「無料」が増えることからも分かるように、”価値の重心”が急速に変化したのです。
そもそも、兵法書の原典・「孫子の兵法」の真髄は戦わないことでした。
長い人類史で見れば、競争がここまで激化した資本主義社会で生きる我々の方が異常だったのかもしれません。
本質はいつも大切なことを示唆してくれるものだし、一旦方向性がずれたとしても収束・回帰する場であると考えています。
今回は最後に、とある有名なスピーチを引用して終わります。
環境問題について考えることは、おそらくあなたが考える以上に重要な意味を持っており、様々な教えと有機的に繋がりを持つことと思います。
このスピーチは、環境問題について考えるとともに、その本質は何か、豊かさって、結局これだよ、ということを教えてくれます。
少なくとも私は、感動しました。
今、一見すると人類の前に環境問題が立ちはだかっているかのように見えます。
しかし、これは環境の問題ではなく、膨大な消費に依存する「経済的な問題」だと、世界一貧しい大統領・ムヒカ氏は強く訴えるのです。
人類の本当の敵は、限りある資源ではない。
限りのない我々の欲望そのものなのです。
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お時間があれば、ご覧になるとともにコメント欄で意見もお待ちしております。
では、また会いましょう。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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(以下、スピーチ関連)
※本日のスピーチ部分はこちらから全て引用させていただきました。
以下、全文を引用しておりますが、こちらの動画をぜひご覧ください。
熱意のこもったスピーチです。
ホセ・ムヒカ氏:会場にお越しの政府や代表者の皆さま。ありがとうございます。ここに招待いただいたブラジルと、ディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。
私の前にここに立って演説した、快きプレゼンターのみなさまにも感謝いたします。国を代表するもの同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない。その素直な志をここで表現しているのだと思います。しかし、頭に中にある厳しい疑問を声に出させてください。
午後からずっと話されていたことは、持続可能な発展と世界の貧困を無くすことでした。私達の本音は何なのでしょうか? 現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか? 質問をさせてください。
ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てば、この惑星はどうなるのでしょうか。息をするための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を、世界の70億~80億人の人達ができるほどの原料が、この地球にあるのでしょうか?
それは可能ですか? それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?
なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか? マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが、無限の消費と発展を求めるこの社会を作ってきたのです。マーケット経済がマーケット社会を作り、このグローバリゼーションが、世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。
私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか? あるいは、グローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?
このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で、「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか? どこまでが仲間で、どこからがライバルなのですか?
このようなことを言うのは、このイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません。政治的な危機問題なのです。現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。
私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球へやってきたのです。
人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。ハイパー消費が世界を壊しているにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が世界のモーターとなっている世界では、私たちは消費をひたすら早く、多くしなくてはなりません。
消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。このハイパー消費を続けるためには、商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間も持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!
そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので、作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいることに、お気づきでしょうか。
これは紛れもなく政治問題ですし、この問題を別の解決の道に進めるため、私たち首脳は世界を導かなければなければなりません。なにも石器時代に戻れとは言っていません。マーケットを再びコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。
昔の賢明な方々、エピクロス(古代ギリシャの哲学者 快楽主義の祖)、セネカ(小セネカとも:古代ローマの哲学者で、皇帝ネロの家庭教師を務めた)やアイマラ民族(南米の先住民族)までこんなことを言っています。
「貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」。これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。国の代表者として、リオ会議の決議や会合に、そういう気持ちで参加しています。
私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことをわかってほしいのです。根本的な問題は、私たちが実行した社会モデルなのです。そして改めて見直さなければならないのは、私たちの生活スタイルだということ。
私は、環境に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。しかし、世界でもっとも美味しい牛が、私の国には1300万頭もいます。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は牛肉やミルクの輸出国です。こんな小さい国なのに、領土の80%が農地なのです。
働き者の我が国民は、毎日一生懸命に8時間働きます。最近では6時間だけ働く人が増えてきました。しかし6時間労働の人は、その後もう一つの仕事をし、実際には更に長く働かなければなりません。なぜか? 車や、その他色々なものの支払いに追われるからです。
こんな生活を続けていては、身体はリウマチに全身をおかされたがごとく疲弊し、幸福なはずの人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。そして、自分にこんな質問を投げかけます。
「これが人類の運命なのか?」私の言っていることはとてもシンプルなものです。
発展が幸福の対向にあってはいけないのです。発展というものは、人類の本当の幸福を目指さなければならないのです。愛、人間関係、子供へのケア、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。幸福が私たちにとってもっとも大切な「もの」だからなのです。
環境のために戦うのであれば、幸福が人類の一番大事な原料だということを忘れてはいけません。
ありがとうございました。
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