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何度も振り返りたくなる不思議な歌

つい最近も、7月くらいに連続で投稿された「遊園地シリーズ」※勝手に私がそう呼んでいます。の10首にノックアウトされたばかりですが、2019年頃の初期のブログに多く登場するちょっとしたコメントと共に掲載されている歌はどれもズシッとした質量感をもって感じられて、牛が反芻するように何度も何度も読み返して味わっています。

歌人の方の歌集などを読んでみても、若い歌人の歌はもっとライトで表面的な感じ、悪く言えば薄っぺらい感じがしますし、ベテランの歌人の歌は老いとか病気とか介護とかでとにかく身につまされるような暗いものが多くて、なかなかミルクさんのようなテイストの歌に出会うことがありません。

約2年間ミルクさんのブログを追いかけて気付いたのは、その視点がミルクさんでなければ成立しないような歌が全くないことでした。自分の気持ちではなく浮かび上がってきたものをミルクさんが代わりに掬いあげてくれている感じでしょうか。そう思いはじめてから他の歌人の歌を読んでみると、自分がことさらに作者の世界を過剰に理解しようとする姿勢を取りながら読んでいた(あるいはそのような姿勢をとらされていた)ことに唖然とするようになりました。わざわざ深掘りする必要のないものに対して、必死に深掘りしようと試みていたのだという虚無感だけが残ったのです。

たった数回の鑑賞にも耐えられない歌ばかりが巷に溢れている中で、何度も何度も同じ歌を読み返す私の気持ちは更にぐいぐいと引き寄せられていきました。
それと同時に、ミルクさんがブログ内でよく形容される「知らんがな」という歌の感想に共感することが珍しくなくなってきたのです。
どの雑誌や歌集を見ても、ほぼ9割以上が「自分にしか解らない自分ごと」を短歌にしています。私という個の文学だから、自分のことを歌にすることは当たり前だと当然のように思っていたのですが、殆どの歌に「知らんがな」という感想が当てはまることに今更ながら気付いて少しショックだったことを思い出します。
そう感じる歌が時々ある、ではなくて、殆どの歌にそう感じるのは、果たして自分がおかしいのか、歌の方がおかしいのか、解らなくなることさえあります。
しかし、果たして短歌ってこのままで良いのだろうとかと問いかけてみると、「このままで良いわけがない」という答えを持つ確かな自分がいるのです。
何か今の王道ではないような気がします。それは解っています。けれども正直な気持ちは歩きたい道ではないような気がします。
何かその先に素晴らしい景色があるような、「予感」のようなものがぼんやりとあるだけですが、そんな脇道があると知ってしまったからには、元には戻りたくないという純粋な欲求のようだと納得しています。

たとえば、最初のほうに”派遣労働”というタイトルがついた歌があります。

・漂って色が抜ければまた染まる派遣はみんな安いシャツだと

そしてこの歌に付けられた後書きがあります。

着慣れたシャツだけが体の不調に気づくことに、気づいていない会社は多い。

まるで強い薬品で漂白するがごとく、企業は派遣労働者をモノのように扱って繰り返し、破れるまで使ってしまうことへの強烈なアンチテーゼの歌ですが、「漂って」の意味する所や「安いシャツだと」と言い切らないでおくことに含ませた感情の重みがリアリティを際立たせます。更に「これが言いたいんだ」と言わんばかりに後書きが続きますが、それは派遣社員だけではなく、働く人たちすべてに向けられたような言葉になっています。
「考えろ」、「もっと考えろ」。そう言われているような気がして、更に歌を読み返します。
そしてたった2行しかないこれらの言葉に、とても大きな思考の種が含まれていることにあらためて驚くのです。

「自分ごと」からは真逆にあるような歌だからこそ、誰にでも浸透する圧力をもっているのかもしれないと感じた短歌の一つでした。

ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/