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映画の次の「物語デバイス」は何か

映画が誕生して120年。日々、様々な新作映画が公開されている。映画の興行収入は一度は落ち込みながら、90年代後半のシネコン(大型映画館)開業とともに、右肩上がりを続け、コロナ禍による影響を除けば、最悪の時期は脱したといえる。だが、映像メディアが誕生した当初から映画が唯一絶対の物語デバイスであったかといえばそうではない。今回は映画の歴史を振り返りながら、今後、登場するであろう新しい物語デバイスについて考えてみたい。

社会実情データ図録 参照

映画とはなにか?

映画とは物語を伝えるための唯一絶対不変のデバイスなのだろうか?

多くの人に映画とは何か?と問えば、唯一絶対の物語映像表現だ!という人。映画館で公開された作品群だ!という人。作品の長さで区切る人もいる。

映画という言葉がフワフワとしている。

映画とは何か?

それをここでは映画館というデバイスで観ることに特化した物語作品群と定義してみる。

だが、「映像誕生」時、映像メディアが現在の映画館のような形態がとられていたかといえば、そうではない。

映画前夜

人類史における映像の萌芽は「パラパラ漫画」であった。別名フリップブックと言われ、何枚も絵を重ねることで、動いているように見える。

パブリックドメイン

その後、歯車式に絵が動いているのを楽しめるゾートロープ、フェナキストスコープが発明される。日本では「回転のぞき絵」「驚き盤」の名で知られている。

感じる 表す 美術 2009 浜島書店

こうして人類は静止画が何枚も重なる映像群=動画を手に入れた。それに派生する形で様々な映像デバイスが生まれる。(広い意味では、紙芝居や鳥獣戯画も物語映像デバイスに入るかもしれない)

映画の誕生

誕生した映像デバイスの中でもエジソンとディクソンによって発明されたキネトスコープがその代表だろう。発明当初、大ブームを生み、アメリカ中のパーラーに置かれていた。(インベーダーゲームのようなイメージか?)

サンフランシスコのキネトスコープ・パーラーの店内

キネトスコープは1人用の映像体験として考えられており、これは、現在のVRに形態が似ている。

恵比寿映像祭2022で実際に体験できた

だが、1人1台の映像デバイスブームは終わりを告げる。映画の登場がその主な要因だ。

映画の誕生の瞬間は1896年のリュミエール兄弟による「シネマトグラフ」の公開と言われている。画面に向かって、走ってくる機関車を鑑賞者が避けようとしたのはあまりに有名だ。映画黎明期、アメリカで最も人気を集めた作品は「M・アーウィンとJ・C・ライスの接吻」で人類史上初のキスシーンを撮った作品だったらしい。なんともニューシネマパラダイスな逸話である。

シネマトグラフに対抗してエジソンが開発したヴァイタスコープ

シネマトグラフが登場した際、観客に熱狂をもって、迎えられたと伝えられる。先日行った恵比寿映像祭ではキネトスコープとシネマトグラフが蘇っていた。実際に体験してみて確かに臨場感では、シネマトグラフ(映画)の方に軍配が上がる。

ちなみに日本ではシネマトグラフ上陸以前から、映画に近い存在として「幻灯芝居」があった(西洋の同様の機械より複雑な演出が可能)

このように物語デバイスとしての映像は誕生当初、様々な形態の可能性があった。1台あたりの儲けの大きさからその後のシェアは映画(TV)が握っていく。詳しい歴史はこちらの記事を参照したい。

その後、映画は物語や音を手に入れ、色を手に入れた。画面サイズは広がり続け、IMAXで見る大作映画は圧巻である。だが、映画は劇場で見られる特別なモノでは無くなって久しい。VHS、DVD、VODの普及で映画の魔法は解けてしまった。映画は劇場公開の終了と共に終える2週間の命だから、心に刻まれるのだと、誰かは言った。各地の映画館は激減し、「映画」が個人の体験になりつつある。

しかし、映像の歴史を紐解けば、キネトスコープの時代に回帰しただけとも言える。

たしかに劇場での映像体験は極上で、これからも価値を持ち続けるだろう。あれほどの映像設備と音響は家庭では決して持つことはできない。だが、映画は物語を語る唯一絶対のデバイスではない。

こう考えたとき、21世紀の物語映像デバイスは何であろうか?

テクノロジーの進歩はノスタルジーを作る

21世紀の物語映像デバイスの筆頭格はゲームだろう。主体的な映像体験では映画をはるかに凌駕する。自分でボタンを押し、選択する主観性は、受動的なメディアである映画にはない。ガンダムの富野由悠季さんもラジオでゲームが映像にもたらす影響について語っている。

こうしたテクノロジーの発展はノスタルジーを作る。例えば、19世紀の産業革命による工業都市社会の出現は、郷愁を感じるものとして里山や田舎を観光するという副産物をもたらしたとマクルーハンは語っている。

18世紀後半、人々がワンダフルな湖沼の自然を愛でに行くものとして「観光」が始まったことについてである。この理由としてマクルーハンは、18世紀の産業革命を経て「新しい機械的環境」を迎えた際「はじめて人々は(古い環境としての)自然を審美的・精神的価値の源泉として見るようになった」と述べている。これをやや乱暴に言えば「やっぱ自然って美しい」みたいな感じは産業革命以降のメンタルだということだ。

「メディア」について考える(その2)〜マクルーハンのメディア論をめぐって
佐々木淳

「テクノロジーの発展はノスタルジーを作る」これを映像に置き換えたとき、身体をかけ合わせた映像表現、つまり映像を組み合わせた演劇がより脚光を浴びるのではないか。今撮影現場ではテクノロジーの発展が目覚ましい。編集ソフトやPCの進化によって、撮影現場や撮影素材は身体性が失われつつある。人間が危険なスタントを行ったり、実際に爆発を起こさなくとも、同様のシーンがCGで「作れる」時代だ。

もちろん、実写による迫力にまだ及ばない部分はあるものの、スタントマンや肉体を使うことは稀になり、VFXによる効果で映像の味付けがされるのが主流になりつつある。CGやVFXを使わない大作映画監督は少なく、極論、味気ないグリーンバックの箱の中で撮影が完結する時代も近い。

であるがゆえに観客が実際に役者と同じ空間を共有し、身体性を感じられる(そこにいる感じがある)演劇と映像をかけあわせた表現手法に魅力を感じる。そこで描かれる題材や手法はなんだろうか。

2020年代の物語

ここでもう一度、「足りないもの」について考えてみる。

現代日本で若年層に流行っているもの、「YOASOBI:夜にかける」や「呪術廻戦」「君の名は。」「鬼滅の刃」「東京リベンジャーズ」はどれも臨死を描いている。少々過激に書くと、臨死体験コンテンツが流行るのは、「死」が身の回りから遠ざかりそれ自体が「娯楽化」しているからではないか?さらに言い換えれば、「生きている実感が欠如」しているのではないか?現代を仮に生の実感から遠ざかりつつある時代と仮定しよう。

例えば、電車はジョイント音を極力無くすような方向に進み、モーター音は消音化。昔と比べて、電車に乗っているのか、わからないほどにスーッとした乗り心地である。

携帯電話からはボタンが消え、電車の前照灯が消え、街にはプリントしただけの平たい看板が溢れる。人との会話は画面の向こう側に遠ざかり、ボタンはタッチパネルになり、毎日の歯ごたえが徐々に薄れつつある。オール電化の家に住めば、火を見ることも容易くない。

↓左の赤帯の電車は1975年登場。右は2018年登場

つまり、実感や手応えの薄れつつある時代のただ中に生きているといってもいいのではないだろうか?こうなったとき物語デバイスとして演劇の存在感が急浮上してくる。そこに映像表現をかけ合わせた「映劇」を作ってみたい。畢竟、生きている実感の遠い社会は個人的に不健全だとも思う。

映像×演劇=映劇

映劇では、よりインタラクティブ性を高めるため、コンピューティング的なアプローチも取り入れる。

例えば、会場にいる観客の心拍数によって、照明の色が随時変わるインタラクティブ劇が作れるかもしれない。投影したプロジェクターに映る人物と舞台上の人物がリアルタイムに会話する劇を作れるかもしれない。拍手の大きさによって人物の選択肢を決める劇が出来るかもしれない。1時間前に演じた自分の動きをフォログラムで同じ舞台上に再現し、今と過去を同一の舞台で表現できるかもしれない。

生きている実感の遠ざかる時代に生感のある「演劇」は戦えると思っている。ここに今しかできないテクノロジーであるPCによる演算を組み合わせれば、「映劇」という新たな物語デバイスが誕生する。

誕生するというより、自分自身がこれからそういったものを作っていきたい。

凹凸のない時代を生きる僕ら。演劇の復権する時代は近い。という半ば強引な妄想に近い大風呂敷を広げてみたが、つまるところメディアアート的なものを組み合わせた今までにない演劇を作ってみたいというお気持ち表明。

歯ごたえのある、生きている実感のある、手触りのある映像コンテンツを作っていきたい。

個人で確認している部分がほとんどですので、間違ってる知識や記述ありましたらコメント欄に書いていただけると幸いです。ここまでお読みいただきありがとうございました。

活動報告はTwitter・Instagramにて。

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