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映画『パラレル・マザーズ』 ねじれた世界と接点(ネタバレ感想文 )

監督:ペドロ・アルモドバル/2021年 スペイン=仏(日本公開2022年11月3日)

アルモドバルとも長いお付き合いで、『オール・アバウト・マイ・マザー』(1999年)以降の監督作は全部観ていると思います。本当は『神経衰弱ぎりぎりの女たち』(88年)辺りまで遡って観たいんだけど。

もう73歳という年齢もあってか、最近めっきり「スペインの名匠」呼ばわりされるアルモドバルですが、元は鬼才というかイカレポンチだと思うんですよね。韓国のキム・ギドク、デンマークのラース・フォン・トリアーと並ぶ「世界三大珍味監督」の一人と、かつて私は呼んでいました。
『私が、生きる肌』(2011年)なんか超イカレてるからね。
もっとも、この説をアルモドバルが耳にしたら「あんな病んでる奴らと一緒にするな!」と怒るかもしれませんけど。

前作『ペイン・アンド・グローリー』(2019年)はアルモドバルの自伝的要素が強く、だいぶ内省的な方向に向かったなという印象でした。この『パラレル・マザーズ』のスペインの過去(内戦という自国の傷)を巡るエピソードは、その内省的思考の延長線上のように思えます。

いや、映画としてのバランスは悪いんですよ。
母を巡る話と墓掘りの話は一見噛み合ってない。
余計な事を言うと、途中で挿入されるBGMもバランスが悪い。
キャノンボール・アダレイの(というかマイルス・デイヴィスの)「Autumn Leaves」とジャニス・ジョプリンの「Summertime」が流れるんですが、この2つの名曲は強すぎちゃって画面が負けちゃうんですよ。
アルモドバルほどの人が分からないわけはないと思うので、「夏と秋」を出したい理由が何かあったのかもしれませんね。知らんけど。

でもバランスは悪いんだけど、何となく分かる気もするんです。

この話の中枢である「母」を巡る話は『オール・アバウト・マイ・マザー』や『ジュリエッタ』(2016年)などでもしばしば取り扱ったモチーフです。また、画面から周到に男どもを消し去って『女だけの都』(1935年)にしちゃうんですが、これも『ボルベール』(2006年)などでしばしばアルモドバルがやる「女性映画」の描き方です。
しばしば扱うモチーフということは、彼の内側に何かあるのでしょう。
つまり、一見噛み合ってない母を巡る話と墓掘りの話は(アルモドバルの中では)内省的思考の同一線上にあるのかもしれません。

別の言い方をしましょう。
主人公ペネロペ・クルスにとって、写真でしか会えない人物が二人出てきます。
それが、曽祖父と実の娘。
彼女を真ん中に据えて、過去と(来るはずだった)未来を写真で繋げる。
ある意味「パラレル(平行)」な世界。
そこに、アルモドバル個人とスペイン人としてのアイデンティティーを投影する。
これは、そういう映画なんだと思います。
もしかすると「マザー」が指し示すのは、「母」だけでなく「大地=この国」という意味なのかもしれません。

私は、この映画で描かれているのは、パラレルというよりも「ねじれた」世界のような気がします。
実子を巡るねじれた関係。同胞が殺し合うという内戦のねじれた関係。
過去も未来も、国も個人も、様々な形で世界はねじれていて、
「このねじれた世界をどうにかできないできないものか?」
とアルモドバルが言っているような気もします。

余談1
スペイン内戦がスペイン人にどれだけ影を落としているか、やはり日本人には皮膚感覚では分かりません。
私が愛してやまない『ミツバチのささやき』(1973年)もスペイン内戦を背景としていますし、ブニュエル翁に至っては国を追われてますからね。
そういやアルモドバルは『ジュリエッタ』で一人の女性を二人の女優に演じさせたのですが、ブニュエル翁の『欲望のあいまいな対象』(77年)のオマージュだと言ってるそうです。

余談2
いまや大女優ペネロペ・クルスは、昔はよくおっぱいをポロポロ出してたもんです。我が家では「おっぱいポロリペネロペちゃん=ペネポロちゃん」と呼んでいたのですが、もう濡れ場はあってもポロリはしないんだな。

(2022.11.05 新宿シネマカリテにて鑑賞 ★★★★☆)

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