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映画『欲望のあいまいな対象』 (ネタバレ感想文 )究極の女はワカラン映画

ブニュエル翁の遺作。
特集上映でデジタルリマスター版にて、たぶん30数年ぶりに再鑑賞。

謎の「二人一役」

二人の女優(フランス人キャロル・ブーケと、スペイン人アンヘラ・モリーナ)に同一人物(ヒロインのコンチータ役)を演じさせた珍奇な試みで名高いブニュエルの遺作。

特集上映の公式サイトより

公式に「珍奇な」と言われちゃってる「二人一役」ですが、既に様々な解釈が世界中でされたことでしょう。たぶんブニュエル翁は、それを「あの世で」ニヤニヤ見ているに違いありません。「天国で」とは言いません。彼は無神論者でしたから。

「わたしが無神論者であるのも、ひとえに神のおかげである」

ルイス・ブニュエル

どこまでふざけたジジイなんだ。

ちなみに「二人一役」に関して、ウチのヨメは「どっちでも良かったんじゃない?」という解釈をしていました。つまり、コンチータという一人の人間を愛したのではなく、(コンチータのような)若く美しい女性を愛したに過ぎない、と。

謎の「出来ない話」好き

私は、不可解な「二人一役」は、そのまま「女はワカラン」ということなんだと思っています。フランス映画に多いんですよね「女はワカラン映画」。そういうジャンルがあるんじゃないかってくらい多い。なんだかんだあって、結局「女はワカラン」という結論に至る。これは究極の「女はワカラン映画」。

あとまあ、端的に言えば「こんなに貢いでるのにヤラセてくれない」という、悪魔に魅入られたというか、キャバ嬢に魅入られた男の話(笑)。キャバ嬢は悪魔ですよ(経験者談)。
この「出来ない話」ってのがブニュエル翁は非常に多い。
『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(72年)がひたすら「飯が食えない」話だというのは有名ですし、前作の(前回私が感想を書いた)『自由の幻想』(74年)も各エピソードほとんどが「何かをやろうとして出来ない」と言っても過言ではない。『皆殺しの天使』(62年)はパーティーをしている部屋から出られない話だし、『昇天峠』(52年)は峠を越えられない乗合バスの話だったりします。
この「出来ない話」に何の意味があるのか、いや、そもそも意味があるかどうかも分かりません。
なにせブニュエル翁の映画は「教訓のない寓話」ですから。
この映画の「表テーマ」はこの「ヤラセてくれない」話なのです。

「愛」の定義(半笑いで)

ブニュエル翁の作品には「裏テーマ」があるというのが私の持論です。
この映画、「ヤラセてくれない」という男にとっての「試練」あるいは「苦行」を、宗教上の「試練・苦行」に見立てているのではないか?と私は思います。

ブニュエル映画の多く(もしかするとほぼ全て)はキリスト教と無縁ではありません。無神論者のくせに。アンチこそ逆に意識しているということでしょうか。
しかしこの映画は司祭も神父もミサも出てきません。たぶん通常だったら、最初の列車で乗り合わせる中に神父がいるような気がします。ところが今回は、似つかわしくない判事や心理学教授というメンバー。この映画、細部にキリスト教的要素が見当たらない。

であれば、映画全体がキリスト教の揶揄なのではないか?
ヤラセてくれない女は処女受胎マリアのパロディーで(ある意味マグダラのマリア的でもあるけど)、男に与えられた試練はキリスト教的「無償の愛」のパロディーなのではないだろうか?
正直に言うと、「ヤラセてくれない」って泣く老人の爆笑シーンを見て、カール・th・ドライヤー『奇跡』(54年)を思い出しちゃった。申し訳ない。ドライヤーに申し訳ない。こんなふざけたジジイの引き合いに出して大変申し訳ない。

きっと、人の悪いブニュエル翁が残したメッセージなんですよ。
「愛だ苦行だ言うたところで、性欲と何が違うのさ。宗教なんて所詮その程度。はあ?祈れば救われる?じゃあこの世界はどうなのよ。どうせテロだって(ドカーン)

「今日まで無神論者でいられたことを神に感謝する」

ルイス・ブニュエル
監督:ルイス・ブニュエル/1977年 仏=スペイン

(2022.01.23 角川シネマ有楽町にて鑑賞 ★★★★☆)

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