記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

映画『熱いトタン屋根の猫』 当時は先進的過ぎたのかもしれない(ネタバレ感想文 )

1958年の映画(<この時代感重要)。
テアトルクラシックスのポール・ニューマン特集にて初鑑賞。

ポール・ニューマンやエリザベス・テイラーにはご縁が薄く、その作品をあまり観ていません。やっぱり、少し上の世代なんですよね。
さらに言うなら、恥ずかしながらテネシー・ウィリアムズ戯曲ものも観たことがありませんでした。

映画としてはこの時代の撮り方だし、いかにも舞台作品の映画化だなという感じがしますが、予備知識ゼロで鑑賞したら話のレベルが高くてビックリした。
『欲望という名の電車』(1951年)や『ガラスの動物園』(87年・ポール・ニューマン監督)も観ないといけないなあ。
世の中には観るべき作品がまだまだいっぱいある。

以下、映画を観ている最中に思った疑問と、その疑問を解消すべく調べたこと(推測含む)を書きます。

観ている最中に思った2つの疑問点

「ん?」と思ったんです。

私は「長男は父親の本当の子ではないんだ」と思って観ていました。
「お父さんがプロポーズしてくれた時、既にお腹の中にいた」という母親の台詞やその後の態度から推測されます。
そう考えれば、父親が次男のポール・ニューマンを可愛がる理由も、家督を継がせたがる理由も、「愛していない女でも抱け!」とまで言って跡継ぎを切に望む理由も全て納得がいきます。
しかし、映画はその種明かしをしません。
種明かしをしないことが、一つ目の「ん?」。

また、私は「このポール・ニューマンはゲイだ」と思って観ていました。
「親友」と言っていますが、ゲイの恋人です。
「父さんは愛というものがわかってない!」的なことも言いますしね。
親友が自分の妻を寝取ったことが事態の原因ではありません。ゲイの彼氏が女を抱いたと告白したこと(=自分がフラれたこと)が問題なのです。
ポール・ニューマンがリズを許せないのは、「浮気した妻」だからではなく、「自分の彼氏を取った」からです。
まるでグザヴィエ・ドラン。この時代の映画としたら非常に先進的です。
ところが映画は、リズと子作りしようと持ちかけるところで終わります。
「愛していない女でも抱け!」という父の言葉を実践したとも考えられますが、枕を二つ並べる小粋なラストショットで「夫婦仲が収まってよかったね。めでたしめでたし」感があるのです。
そこが二つ目の「ん?」ポイントでした。
だって、ゲイにとっては苦渋の決断のはずだもの。「めでたしめでたし」でいいのか?

鑑賞後に調べた解答

解答っていうか、こんなものに正解はないんですけどね。

タイトルの 『熱いトタン屋根の猫』 とは、愛する夫が同性愛に走り、久しく夫婦関係がない欲求不満のマギーのことを指す。映画化に際し、原作戯曲のブリックとスキッパーのホモセクシュアルな関係は匂わす程度で留まり、隠された演出となっている。この脚色に原作者のウィリアムズは大変失望したと言われている。

(Wikipediaから引用)

「ゲイの話だよね」という私の見立てが間違っていなかったという裏付け(というか自慢)のための引用ですが、疑問の残る書き方です。出典は何なんでしょうかね?

実際、原作戯曲を書いたテネシー・ウィリアムズ自身がゲイだったそうですが、あるんですよ、そういうの。出ちゃうのか、わざと(隠して)出しているのか。
『太陽がいっぱい』(60年)だって、誰もそんなこと言ってない早期に淀川長治先生は「同性愛の映画だ」って主張してたそうです(淀長先生もそうだった)。そして、それからしばらくしてから原作者のパトリシア・ハイスミス女史が同性愛者であることをカミングアウトして、別名義で同性愛小説を書いていたことが明らかになる。その原作を映画化したのが『キャロル』(2015年)。ルーニー・マーラ超可愛い。

話がそれました。『熱いトタン屋根の猫』に戻ります。ニャー。

Wikipediaでは「映画化に際し」改変されたかの如く書かれていますが、私の調べでは、既に1955年のブロードウェイ上演の時点で演出家が改変したという説が有力です。

その演出家はエリア・カザン

映画版『欲望という名の電車』の名監督ですね。
そして、ハリウッドにも吹き荒れた「赤狩り」の嵐の中で、司法取引をして仲間を売った「裏切り者」として悪名も高いエリア・カザン。
アカデミー名誉賞を授与された40数年後の1998年ですら、会場からブーイングが起きたほどだからね。
ただ、まあ、トルコ生まれのギリシア系という出自で(その当時の)アメリカを生き抜いていくには、やむを得ない選択だった気もしますが……。

エリア・カザンが非米活動委員会に責められたのが1952年。
その彼がこの話を舞台演出して原作を改変した(と思われる)のが55年。
その改変後の戯曲を映画化したのが58年。
これは、そういうバックボーンを背負った作品なのです。

さて、この「赤狩り」ですが、もはや「魔女狩り」だったのだろうと思うんです。「非米活動委員会」は、その名の通り「非アメリカ」的な物事を槍玉に挙げたのではなかろうかと。

推測するに、エリア・カザンが懸念して改変した「非アメリカ」的要素が、
「同性愛」と「実子ではない」という点だったのではないでしょうか。
これは、当時としては先進的過ぎて「時代に曲げられた」作品なのかもしれません。

さらに推測

では、テネシー・ウィリアムズはこの戯曲で何を描きたかったのか。
いわゆる「家族愛」的なこととは真逆の、「既存の価値観」に対する反抗だったように思います。
既存の価値観は全て「嘘だ」「虚像だ」という主張。
折しも、ジェームズ・ディーン『理由なき反抗』(55年)の時代。
若者が既存の価値観に反抗し始めた時代なんですよ。
そう考えると、『エデンの東』(55年)は、ちょっと似た話だな。
あ、監督はエリア・カザンだ。

そう考えると『熱いトタン屋根の猫』というタイトルも、劇中で言ってるような(Wikipediaに書かれているような)表層的なものとは違う意味があったように思います。
英語の慣用句の「ジタバタする」という意味であれば、リズよりもポール・ニューマン、いや、登場人物全員が「ジタバタする」映画なのです。
いや、赤狩り吹き荒れる当時のアメリカそのものが「ジタバタしている」という皮肉だったのかもしれません。

父親の父親が南北戦争の従事者だったのに貧乏で(それが南北どちら側だったかは、制帽を見れば分かる人は分かるのかな?)、その息子が労働者として黒人を雇って資産家になるという、アメリカの縮図も垣間見えるんですよね。話のレベルが高い。

長々失礼しました。

(2022.10.29 シネ・リーブル池袋にて鑑賞 ★★★★☆)

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?