あらためて認知症とは何か考えてみた

★はじめに


先日のnoteの追記のような形になるのだが、これも備忘録として残しておこうと思う。

認知症といえば、人の名前や顔を忘れてしまう、徘徊して迷子になるといったなんとなく誰もが共有している認識があるかと思うが、それはそれであながち間違いではないが、実はもっと多様でもっと奥深い。

父と母、両方が認知症になったので、二人の違いや共通点のようなものを探っていきたいと思う。そして「認知症」とは一体何者なのかも少し掘り下げて考えてみたい。

★共通点

近い記憶から抜け落ちていく。
これは二人に共通している。20年前、30年前の、いやそれよりもっと前の記憶は鮮明にあるのだが、最近の記憶がすっぽり抜け落ちている。
80歳を超えた彼らにとって、ここ10年以内はすべて「最近」である。
だからスマホはただの飾り物となり、固定電話と手紙しか通信手段がない。
ついでに言うと固定電話の留守番電話機能も使いこなせていないので、私が訪れた時には昨年10月に吹き込まれたメッセージがまだ残っていた。

何度も同じことを言う、聞く。
これは直近の記憶がないのと関係あるのかもしれないが、私たち正常な人間から見たら滑稽なほど、同じ話をしたり、質問している。本人たちはすべて初めてする話や質問なので、仕方がない。最初は私もストレスを感じていたが、これは案外慣れる。慣れてしまえば気にならない。しかし、こちらが仕事で疲れていたり、睡眠不足だったりこちらの余裕がない時は堪えるかもしれない。

暑さや寒さを感じにくくなっている
もう5月も後半だというのに、布団は冬用の大きなものを使い、下着も冬の長袖やレギンスを着用している。それでは熱中症になってしまうと言ってもなかなか脱ごうとしない。どうも外気温や室内の気温に鈍感になっているようだ。水分を摂ることも忘れがちなので、脱水症状要注意である。
母に言わせると薄着をするのが少し怖いと感じるらしい。何かにぎゅっと守られていないと不安になるのかもしれない。これからの季節、お年寄りがエアコンをつけず、よく室内で熱中症になるケースが多いがエアコン以前の体感気温も私たちとは大きく違うようだ。

★相違点

父はテレビを見たり、新聞を読んだりして、世の中で何が起こっているのか知ろうとする努力をしている。すぐに忘れるので一日に何度も新聞を読む。
母はもうテレビや新聞に興味がない。たぶん母の方が認知症が進んでいるのだと思う。もちろん他人全般に興味がなくなっているようにも感じる。

父はキレイ好き。母はだらしない。
これが一番の相違点かもしれない。父は毎日決まった時間に入浴し、パジャマや下着を毎日取り換え、歯磨き、髭剃り、髪の毛のセットを欠かさない。
こざっぱりとしたファッションを好み、洗面所をピカピカに磨いたりしている。
一方母は放っておくと数日風呂に入らず、髪の毛はセットせず、もちろんメイクもしない。昨日は入浴していないでしょうと聞くと、「いや、ちゃんとお風呂に入った」としれっと嘘をつく。洗濯物やバスタオルを見れば入浴していないことはバレバレなのに。

私が子どもの頃は父は家のことが何もできず、母にすべて任せているように見えた。母がいなければ父はダメなんだというくらいに。
その認識は大きく覆った。
母は、本当はだらしなくて、料理や掃除や洗濯なんて本当はやりたくもなかったが、妻、母、という役割を担う上で、父や私たち子ども、あるいは近所という世間体の前では身なりを整え、毎日主婦業を営んでいただけなのかもしれない。今、こうやってだらしない、料理の手順を間違えたり、冷蔵庫の中がぐちゃぐちゃの母の姿を見ると母は本来だらしなかったのだとわかった。

父と母のこの違いは単に認知症の進行度合いの違いというよりも、その人が生まれ持った「気質」の違いなのだと感じる。
キレイ好きの父と汚くても気にならない母。
コロナ禍もあって、認知症になり、年を重ね、だんだん他人の目が入らなくなるとそれが顕著になっただけなのかもしれない。

父は自己肯定感が高く、母は自己肯定感が低い。
どこまで父も母も自分が認知症であるかを自覚しているのか、こちらで推し量るのは難しいが、少なくとも父は自分のことを客観視できて、自分は身体は強いが少し脳に問題があると認識している。ただそれ以上でもそれ以下でもない。情緒が安定し、母を思いやるそぶりもする。鏡の前の自分を見て自分はイケていると本気で思っている節がある。
一方母はいつも不安そうにしている。落ち着きがなく、家の中をウロウロしたり、父の様子を何度も見に行ったりする。頭の中に霧がかかったような状態が不安なのか、じっと考え込んでいる時間が長い。言葉がうまく出てこない。一度に二つ以上の作業ができないことに自分自身いら立っているようなきらいもある。私は「できない子」だと自分で自分を卑下しているような感じが強い。口癖は「わからない」だ。

★最後に

認知症という病気(というか状態)は、たぶん100人いれば100通りの症状の出方や進行具合があるのだろうと思う。
そして、その認知症の人に接する態度に正解も不正解もないのだ。
その人の生まれ持った性格や生育環境、受けてきた教育や、成長過程や社会に出て仕事や家庭で獲得した、あるいは失った様々な経験、体験といったものが私たち一人一人の個性を形作っている。その私たちを形作る様々な肩書や、役割といったものを玉ねぎの皮を一枚一枚めくっていくようにして、現れてくるものがその人本来が持っているものなのだ。認知症という症状は最初は怖いと思っていたが、案外「素」の自分にただ、ただ戻っていくだけなのだと思えばいたずらに怖がる必要もなさそうである。
少なくとも私は父と母の共通点や相違点を観察しながら、そんな結論にたどり着いた。

脳科学の分野はまだまだ謎だらけだ。それでも認知症の研究は日々進んでいるだろうし、新しい薬や治療法も開発されるかもしれない。
でもどんなに医学や技術が発達しても私たち人間は「老い」から逃れることはできない。平均寿命が延びた今は、私たちにとって「老い」は目を背けることのできない最大のテーマであると言っていいかもしれない。

あとはその「老い」と自分自身、あるいは家族がどれだけ仲良くつきあっていけるかどうか?それこそが長い時間を生きる現代人につきつけられた命題なんだなという気がする。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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