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インドのひとたちとわたくし。(107)-コロナ後の世界

 そういえばリタはどうしているかな。ロックダウンでみんな引きこもっているので、すぐ近所なのにリタとも通りで顔を合わせることがない。あの一家は全員ヴェジタリアンなので、ロックダウンでも我が家のように肉やお酒の手配に苦労することがないからうらやましい。
 テキストしてみたらすぐさま返信があり、どうやら元気に籠っているらしい。「うちはいつも夜8時頃、公園に散歩に出ているから、そのときなら会えるよ」とのこと。夫も娘も、愛犬のミアも変わりないようで、よかったよかった。

 ご近所のリタは、自著もあるテキスタイル・デザイナーで、自宅の地下にステキなスタジオを持っている。北部地方の綿花農家や機織職人たちと一緒にオーガニックの美しい手織り布をプロデュースしている。スタジオの壁一面に取り付けられたガラスのクローゼットには、目のくらむような美しい色合いの布地がぎっしりと収められていて圧巻だ。シルクかと見まごうような薄手の光沢のある木綿布や、手の込んだ金糸手織りの透かしが魅力的なサリーなどを中央の作業テーブルに無造作に広げて見せてくれる。
 ときどきひとを案内することがあるが、いつでもリタが快く見せてくれるのはありがたいものの、必ず彼女の『演説』に小一時間つきあわなくてはならない。
 リタのものづくり持論は、「地方の農村の、特に女性が手に職をつけて経済的に自立すること、生産物は工業的な大量生産品ではないもの、伝統工芸を活かしたものであること、原料から生産工程まで、環境を一切汚さない持続可能なものであること」だ。どれもまったくの正論だ、
 実を言うと、少し前までリタの話を「言っていることは正しいがどうやって規模の経済を実現するのか」と、ちょっとだけいじわるな気持ちも抱きつつ聞いていたことは否めない。
 でも今こんなふうに、国際的な物流と経済活動の多くが停止同然になっていると、自前の資源を活かして自然と共生し、持続的に生活することは、とってもまっとうな生き方ではないかと思わされる。

 5月3日までとりあえずロックダウンが全土で延長されたものの、コロナウイルス感染者のグラフは、全土で平坦になったとはまだ言い難い。ともかく今は、感染爆発の起きたホットスポットの特定と封じ込め、それからソーシャル・ディスタンスを徹底することで感染の広がりを少しでも遅くして医療機関の負担を軽くすることを、どの州も最優先で行っている。特にインドの場合、他州から大都市圏へ働きに出た大量の移民が帰省するのを押しとどめたり、そもそも住む家もない貧困層のひとたちにどうやって日々の食糧を届けつつ、感染者特定と隔離を進めるかが大問題で、引きこもることのできる家を持ち、しばらく食いつなげるだけのお金を持っているひとびとへの経済的な補償などはまだ先の話という感じだ。

 いつ明けるかわからないロックダウンのその先がどういう社会になるのか、私たち自身の会社の将来ひとつとってもまったくわからない。いろいろ未払いの件もあるのだが、「非常事態だから」と、心苦しいながらも支払いを待ってもらったりしている先もある。
 そういえばこのところ、会社の代表アドレス宛に来る履歴書がやたらと増えている。毎日10通は下らない。政府は、解雇するな無給にするなとしきりに言っているものの、中小企業が資金繰りに困っているのは明白で、職を失う可能性のあるひとたちも出てきているのだなと肌で感じる。

 インド各州の中で今、コロナへの対応で優等生と言われているのが南インドのケララ州だ。どこよりも早く感染者のトラッキングを徹底し、州単位の感染者数はすでにピークアウトしていると報じられている。もともとこの州は今のインドでは珍しく社会主義的な左派政権が長いこと州を司っている。インドでもっとも識字率が高く、公衆衛生が進んでいることなどから『ケララ・モデル』として知られている。簡単に言うと経済成長よりも社会福祉に重点を置いた人間と社会開発の在り方で、感染者トラッキングと併せて、市民の協力が大きかったことが封じ込めの成功要因とされているのもなるほど頷ける話だ。
 もちろんケララ・モデルが万能というわけではないのだけれど、今回のコロナ災禍でこれからの社会のありようがきっと激変するだろうことを考えると、あらためて感じるものはある。

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 それにしてもこのところデリーの空気がたいへんきれいだ。毎日、空がとても青い。車もあまり走っていないし、飛行機も飛んでいない。工場も軒並み操業停止だからきれいで当たり前だ。汚水で有名なヤムナ河もずいぶん水質がきれいになっているらしい。これはよいことだ。

 故宇沢弘文が唱えた『社会的共通資本』のことを思い出した。「自然環境・社会的インフラストラクチャー(道路・上下水道など)・制度資本(医療・教育・金融・司法など)」からなる『社会的共通資本』は、すべてを官僚や市場に任せるべきでなく、希少な「コモンズ」として政府が責任をもって受託運営すべきというものだ。都市の在り方について言えば、宇沢博士が自ら述べているように、彼はジェーン・ジェイコブズが『帰納的、経験的に』導き出した人間主体の社会環境への道筋を、経済学者としてのみならず網羅的に、『演繹的に』証明・実現しようとしていたのだと個人的には思っている。ふたりとも、経済合理性を追求した、車中心にゾーニング設計された近代都市を「人間不在である」として強く批判している。ル・コルビジェのデザインした整然とした計画都市が「人間不在」の典型であるとしたところは共通だ。
 人種も国籍も関係なく、誰にでも襲い掛かるウイルス災禍のおかげで、新自由主義とは違う社会を思い始めているひとは世界に多いと思う。実際、感染を抑え込むことに成功している国々は、経済成長優先でなく社会福祉に重点を置いている。

 コロナ後の世界がどうなっているのかまだ想像がつかないけれども、デリーの珍しく青い空を見るにつけ、ジェイコブズや宇沢博士が描いたような人間主体の未来へシフトできる可能性があるのかもしれないとも思うが、そのことと、感染を避けるためにひとびとの交流を控えさせるソーシャル・ディスタンスを、どうやって両立させるのかという答えが見つからない感じだ。

 隔離や封じ込めは、宗教や人種による分断や差別につながりやすい。インドでもコロナウイルスを理由にした、少数派であるムスリムやダリットのひとたちへの差別や暴力行為がすでに起こっている。でもさらに懸念されるのは、何ごともなくロックダウンできているひとたちが、こうした問題が自分とは無関係だと放置してしまうことだとジャーナリストのひとりが指摘している。

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 いろいろなひとたちが世の中にいて、そうして自由に交流できるからこそ互いの理解や新しい文化が生まれる。なのにコロナウイルスはそれを許さない。いっぽうで、経済優先の世の中がすべてではないことを私たちに教えてもくれる。こんなことがなければデリーの空も青くはならない。「世の中はこんなものだ」と思っていたところに、とんでもない角度から大きな宿題がやってきたような気がしている。

 インドのひとの中には、「今さらソーシャリズムなんてごめんだ」と言うひとたちもいるので、この先のインドがどっちに舵を切るのかはまだわからない。

Rta Kapur Chishti インタビュー記事(Border & Fall )

ケララ州の取り組み( MIT Technology Review, 13th Apr, 2020 )

コロナ後の世界( Indian Express, 22nd Apr, 2020 )

( Photos : In Delhi, 2020 )


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