見出し画像

インドのひとたちとわたくし。(155)ーメイド殺人事件

 午前中、何気に外を見たら、家の前の通りに警察車両が続々と集まっていて、たいそう驚いた。制服姿の警官もウヨウヨしている。野次馬はほとんどいないが、警察と大書した車が5台以上、警官は軽く10人を超える。新たに到着する車両も何台かある。中には偉いひとがいるらしく、さっと敬礼して出迎えたりしている。

 何ごとかと思って大家の息子アマンにテキストを送ると、代わりに父親のカプール氏が、「近所で犯罪事件があったらしい」と返事を寄越した。『犯罪事件?』、こんな住宅地で事件とは、いったい何なのだ?

 しばらくして『事件』の発生現場はリタの家だと判明した。確かに家の門扉が開いていて、警官たちが出入りしている。カプール氏は続報で、「家事メイドが二人、自殺を図ったようだ」と知らせてくれた。しかしニュースはそれきりである。
 隣家のシャァムにもメッセージをしたところ、彼は外の出来事に気づいていなかった模様で、慌てて表に出て警官たちに話を聞きに行く姿が見えた。こちらは正確な話を持ってきてくれるだろう。

 一日経ってようやく明らかになった事件は、『自殺』ではなくて『殺人』だった。なんと物騒な。

画像1

 前の晩の明け方、覆面をした五人の男が邸内に入り室内にいたメイド二人を殺害したのだった。コミュニティのゲートにいる門番は、彼らが住人であろうと判断して声をかけなかったそうだ。そんなことあるのか。昼間の門番はいちいち車や通行人の顔を確認しているというのに。
 コミュニティ内のCCTV に、ラフな服装の五人の男性が、ぼんやりとした映像を残していた。室内のカメラからはハードディスクを抜き去ったらしい。大きなものは盗らなかったようだった。

 建築家であるリタの夫が設計したユニークなデザインハウスのあの家は、通りに面したぶ厚い鉄門の扉の向こうがすぐに、前庭と地続きになった一階の客間になっていて、要するに建物に玄関扉がない。配達などでいちど、足を踏み入れたら、ああ、この家は扉がないのだと何か企みを思いつくかもしれない。大型犬が二頭いるが、どちらもひどく人なつこくて、あれではとうてい番犬にはなるまい。

 亡くなったメイド二人は、この6月から勤めだした地方出身の中年の女性で、私が以前から知っているひとたちではなかった。リタ本人にも安否を尋ねるテキストを送ったが、こちらは返信がない。それどころではないだろう。
 代わりに娘のメハックからメッセージが来た。「誰もこんなことが起きるなんて思ってもみなかった」。そりゃあそうだ。犯行は午前4時、事件が発覚したのは夜が明けてからとはいえ、怖かったよねえ。

 家族ではないので、この家で彼女たちの葬儀をするわけではない。警官たちが引き上げたあと、外観上はどの家も普段通りに戻った。翌日、メディアらしきひとが数名、カメラを持って家の前に立っているのを見たが、野次馬の姿もなく、それは、なにかというとわらわらと集まってくるインド人らしからぬことのように思えた。慎み深い住人たちはみな、自宅に引きこもるか、何ごともなかったような顔つきで普段通りの生活に戻っていった。リタの家にはドラマで見るような警察の黄色い立ち入り禁止テープもなく、何より彼ら家族は二階から上に、それまでと同じように暮らしている。

 メイドたちの死が、住人そのひとほどの重みを持っていない空気感はイヤでも感じる。犠牲者が住人だったら、騒ぎはこんなものでは済まないような気がするのだ。
 目の前の公園には子守をするメイドの姿を何人も見る。みんな出身地も違う。ということは日常の母語も違うだろう。公園で、互いにより集まっているのを見たことはない。貧困にあえぐ田舎から出て、デリーのような大都会で働くには、専門のブローカーに頼るものらしい。よい家庭に巡り合っていれば幸運だが、そうでない家庭に雇われると、給与の不払いや家庭内暴力などに晒されることもある。ジャーナリストであるトリッティ・ラヒリが、詳細な聞き取りに基づいた著書『メイド・イン・インディアー家庭の中の不平等と機会の物語』で述べている。

 二人のメイドのことをどれだけのひとが悼んでいるのかはわからない。彼女らの夫はグルガオンに住んでいて、テレビのインタビューに何とも淡々と答えているのがかえって印象に残るのだった。検死の後、遺体は故郷の西ベンガルに送られて、手厚く葬られるのだろうか。都市で働く家事メイドの中にはそのまま行方不明者となってしまうひとたちもいる。

 反対側の隣家、パンジャブ一家の長老が亡くなったときはこうではなかった。家族は表の通りに白い大きな天幕を張り、そこに近所のひとたちが平服でたくさん集まって来ていた。故人は高齢であったからもうすでに知人や友人は少なかったとは思うけれど、それでも1日半ほどは天幕を張って、いつ来るとも知れぬ弔問客を迎える用意はされていた。

 今回は、二人の女性が凄惨な暴力の犠牲となって亡くなったのに、その痕跡らしきものがコミュニティの表面上は、それこそ拍子抜けするくらいにまったく見えないのだった。
 雇用主であったリタがどれほどの弔いをするのか、そんなこと興味本位でなんかとても聞けないが、そもそも家庭内メイドのようなこのひとたちは、社会保障や保険、労働組合とは無縁のところで働いている。雇用主との個人的なつながりの強さ以外には、社会的に身を守ってくれるものがなにもない。そうしてニュースも、二、三日すればひとの口にのぼらなくなる。

 一日おいて、犯人五人が逮捕されたというニュースが流れた。ぼやっとした映像だったが、CCTV 映像に映っていたバイク車両の登録番号を割り出して特定したそうだ。汚職で悪名高いデリー警察も、やるときゃやるんである。
 五人組の中に、以前この家で働いていたひとの甥がいて、金があるということを知っており、1,000万(日本円で約1,500万円)近いルピーを持ち出していた。こちらの1,000万は日本円のそれとは価値がまったく違う。メイドひとりの月給がだいたい1万ルピーくらいの感覚の国である。ずいぶんな大金を家に置いておいたものであるな。
 
 昨日の夕方遅くには、たぶん現場検証だと思うが、手錠を施された五人が警察車で連れて来られているのも見た。
 地区の協議会が、防犯強化を呼び掛けていて、なるほど昼間のセキュリティもこまめに町内を巡回しているようだったが、我が家のテラスも手すりが低く、表門の柵から簡単に乗り越えられたりするので、怖いと言えば怖い。外国人を襲ったら面倒なことになるというくらいの知恵はあるだろうが、それでも用心に越したことはない。

画像2

 折しも、PM は今日の演説でもう一年以上抗議活動が続いていた『農業法』三法を撤回すると表明した。パンジャブを始めとする農業州から首都デリーに押し寄せていた抗議の農民たちの数は数十万人にも上る。高速道路の首都入り口に大規模なキャンプをはり、食料配布のみならず、寺院や学校まで仮建設して徹底抗戦してきた彼らの勝利である。ひとびとのパワーが政治を動かすということを目の当たりにしているようなものだ。
 現政権としては大票田である農民たちを味方につけることができなかった点では大きな失点であるが、逆に柔軟で聞く耳を持った為政者のイメージづくりにこれから躍起になることだろう。1年以上の長期にわたる抗議活動の期間、警察との衝突やコロナ感染などで不幸にも亡くなった参加者も少なからずいる。勝利は、名もなき犠牲者の上に立って勝ち取るものなのだと知る。

 民衆の力が為政者を動かす醍醐味を実感する一方で、ご近所の淡々とした反応から、出稼ぎ労働者ひとりひとりの命は、なんというかあまりにも軽い気がしてならない。
 コメディアンのヴィ―ル・ダースが物議を醸したように、そう、ここは『ふたつの国』なのだきっと。

‐ 書評『メイド・イン・インディアー家庭の中の不平等と機会の物語』( The Mint, 30th Jun. 2017 )

- インドの首相が農業法を廃止( The Guardian, 19th Nov. 32021 )

‐ ヴィール・ダースとリベラル派が望んでいるインド( The Print, 18th Nov. 2021 )

( Photos : In Delhi, 2021 )

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?