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新しい出会いによる自己の相対化が自己理解を深めるのです。

先日、教育関連の事業をされている方たちと対談する機会を得た。

その中では、近年話題の「探究学習」に始まり、「子どもを信じるとはどういうことか?」「過去のリフレーミングについて」など、そこからどんどんと話題が膨らんでいって、大変盛り上がった対談になった。

その模様はまたどこかで触れようと思うが、今回の対談で自分が得たことは、自分自身という人間に対するもう一段階深い理解だ。やはり、新しい人と話をすると、自分自身が相対化されて自分の特性に気づきやすくなる、というのは本当だ。

対談した方の1人が私の様子や言動を見て、その特性をいろいろな表現で言語化してくださった。

1つは、「ラベリングが得意である」ということだ。

ラベリングとは、ある物事が持っている特性や特徴を見抜いてタグをつけていくようなイメージだ。

自分の中に入ってきた情報を適切にラベリングして、それを振り分けたり整理したりするのが得意なんだと思う、と言ってくれた。

それを始めに聞いたとき、私の個人的な感覚では、そうしたラベリングというのは、物事のことを細かく分析することができないと達成できないのではないか、と思っていて、そうした「解像度を上げる」ことに苦手意識がある自分の感覚との整合性が取れなかった。

しかし、ラベリングとは必ずしもそうした分析を必要とはしないらしい。

今の自分としては、ある物事を必要十分な状態で細かく分けていくのが分析であり、ある物事の少なくとも一側面を切り取っていくのがラベリングである、と理解している。

この能力を発揮している自分自身の過去の経験を振り返ってみると、確かに思い当たるものがある。

ある集団を、各自の能力や特性を考慮しながらいくつかのチームにバランスよく分けたり、役割分担を決めるのは好きだし、なんだかうまくできるように勝手に感じている。

例えば、バレーボールサークルのメンバー総勢50人程度で行った合宿でのチームメンバーを振り分けたときだ。

サークルの副会長を務めていた私は、参加した全メンバーの実力(当サークルには経験者も初心者もいた)、各自が入れるポジション、男女バランス、学年バランス、プレイヤー的相性、人間的相性、そういった情報を全て加味して、最も全体としてバランスの取れたチーム編成とするにはどうすればよいかを考えた。

最初はセッターやミドルブロッカーなど、重要なポジションを均等に割り振るため、ある程度理詰めで決まっていくが、その後の比較的自由度の高いウィングスパイカーやリベロなどについては、男女・学年バランスや各自の相性などを元に、ああでもないこうでもないと考えるのが楽しくてしようがなかった。

ここでやっていたことはもしかしたら、自分のラベリング能力を活かして、各自の個性や役回りを見極め、適切な場所に適切な人を配置し、全体としてのパフォーマンスを上げたり、目的を達成することだったのではないか、と思った。

もう1つは、「クロージングが得意である」ということだ。

クロージングとは、あるプロジェクトの抽象的なアイディアが出されたときに、それを何がしかの形で具現化すること、言わば、「広げられた風呂敷を畳むこと」である。

「〇〇へ行こう!」と宣言する船長に対して、「でしたら、これとこれを準備して、こういう航路で進んで行きましょう!」と応える航海士のイメージである。

「みんなで農業をやりたい!」と言ったやつがいたら、「じゃあ畑を用意して耕して区画整理する必要があるね。よし、それはやっといたから、あとは皆で自由にやっていいよ」と言える人である。

こういう特性を持った人のことを「畳み人」と称した本を読んだことがある。

実は、世の中的にはアイディアマンはたくさんいるが、皆それを具現化できなくて困っているらしい。

もしそこで自分が力を発揮できるのだとしたら、それはありがたいことだ。

ただし、自分にとって本当に自信が持てるエビデンスがまだ少ないとも思う。今のところは、准教授がポロっと言ったこととか、所属しているサロンのオーナーがポロっと言ったこととか、そういうのを勝手に拾ってこまごまとまとめているだけなので、まだまだだと思うが、そういう頭の使い方は結構好きなところではある。

この「ラベリング」と「クロージング」をうまく組み合わせて、自分にしかできない何かを生み出すことができるなら、それは幸せなことだ。

こうして、また新しい出会いによって自己理解を深めることができた。

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