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7/26火:浮気性な男にはやりたいことのバランスを。

私という人間の性質をネガティブに言い表す言葉の1つに、「浮気性である」という言葉がある。

それは、文字通りの意味で女性関係において浮気性である、という意味では必ずしもなく(そういう意味でもあるかもしれないが…)、何か1つの物事に深く取り組むよりも、いろいろな物事に広く浅く取り組む方が性に合っているような気がするのである。

大学院の博士課程で専門分野を深く学ぶ身である中でこんなことを言うのもなんだが、自分としては1つの分野を深く掘り下げるのはどちらかというと苦手で、広く浅く、その代わり普通の人よりはちょっと深く、いろいろな知識や素養を持っていたいと思う人間なのである。

そして、それが実際に可能で、かつここまでひとまずやってこれたのは、イヤな言い方をすれば、何に取り組んだとしてもそれなりに合格点を出せてしまうような人間だったからである。

これが一体なぜなのか、自分としてもよくわからない。

だから、自分は確かに恵まれた人生を生きてきたと思っているが、その反面、自分にとって何が得意なのか、よくわからないで生きてきた。また、もし自分にとって得意なことが何なのかを探し当てることができれば、それを活かしてもっと楽に生きていけるのではないか、という淡い希望を持ちながら生きてきた側面も大いにある。

しかし、先日例の准教授がこんなことを言っていた。

「自分が得意なことをひたすら伸ばしてその延長線上で戦っているとき、もしも自分以上の能力を持つ人間が出現したら、気持ちが折られてしまう可能性がある。だったら、得意なことをやるよりも、好きでやっていられることをやった方がいい。」

これには、なるほど、と思わず納得した。

そうなのであれば、得意なことを無理に探し当てなくてもいい。得意なことを使わなくてもいい。ただただシンプルに、好きなことをやればいいのだ、ということになる。

どの道を選んだとしても、本当に突き詰めていけばある意味では研究として成立することになるだろうし、どの道を選んだとしても等しく大変なはずだ。

だったら、どの道がより好きか、どの道に進んだ方が自分にとってより幸せに生きていけそうか、という観点で道を選んでも良いだろう。

しかし、ここでまた新たな壁が生じる。それは冒頭に述べた性質によるものだが、自分が一体何が好きなのか、よくわからないのである。

ちょっと興味があるものとか、ちょっとやってみたいと思うこととか、そうしたものはたくさんあるのだが、仕事にまでしたくなるような、これだ!と確信に至るような、情熱を注げるようなものは特にないのだ。

そうしたものについて、どういう距離感で付き合っていくべきなのか。これを考えるのが重要そうだ。

確かに、やれば面白いことはたくさんあるだろう。でも、自分の限られた人生の時間とリソースでは、その全てを行うことはできない。

1つの解決策は、同じ興味関心を持つ仲間と集まって、集団で何かをすることだ。

浮気性な私はもしかしたら、ある特定の組織や集団にしっかりと入り込むのではなく、複数の組織や集団とバランスよく付き合っていく、ということがうまくできるのではないか?

それも、ある意味では私という人間の特性を活かした生き方だろう。

ちょっと応援したいな、と思ってくださったそこのあなた。その気持ちを私に届けてくれませんか。応援メッセージを、コメントかサポートにぜひよろしくお願いします。 これからも、より精神的に豊かで幸福感のある社会の一助になれるように挑戦していきます。