見出し画像

自分がバチバチと発光した旅


広告代理店に勤めている時、疲労とストレスで体を崩し、1週間ほど入院した事がある。3日間の絶食だったが、それほど空腹も感じず、2日ぶりに入ったお風呂の鏡に映った自分のやつれ具合に「これはヤバい」と漠然と思ったことを覚えている。

当時付き合っていた恋人は全く本を読まない人だったけれど、暇を持て余していた私のために何冊か本を見繕って持ってきてくれた。きっと本屋の店頭に並んでいた物を適当にピックアップしたのだろう、ジャンルはバラバラで小説や自伝、エッセイと豊富なラインナップだった。

その中の1冊が「心がほどける小さな旅」。

著者の益田ミリが思いつくままに旅をするエッセイ。鹿児島の大声コンテストや競馬で有名な桜花賞など心惹かれるイベントや、夏の夜の江ノ島水族館に泊まるとか、椿山荘の朝ごはんを食べに行くなど、気軽に、しかし確実に気分を上げてくれる小さな旅のエッセイである。

そして病院のベットの上で私は出会ってしまう。

郡上八幡の徹夜踊りに。

岐阜県の山奥にある郡上八幡では7月から8月の半ばまで約30日間連続で盆踊りが行われている。お盆の4日間だけは20時から朝の5時までひたすら踊りまくると言う「本当にやってる・・・?」みたいなお祭りなのだが実際に行われているし、多い時は5 〜7万人が徹夜で踊る。

読んですぐに「行きたい。これに行かなければ!!」と強い思いがむくむくと湧いてきた。当時勤めていた会社にいては絶対に無理だったので(お盆に休はないと事前に言われていた)入院したこともあり退職を決意し、退院後すぐに辞めた。上司から心折られるような罵詈雑言を浴びながら、「郡上踊りに行く。今年絶対に行く!!!」とエッセイを思い出して闘志を燃やし、なんとか辞めた。

無職になってしまい、人生で一番お金がない時期だったので新宿から名古屋まで高速バス、そこからJRで岐阜、さらに岐阜駅から郡上八幡までバスに乗り、合計7時間以上かけて郡上踊りへと向かった。バスで郡上八幡に向かうに連れて山がどんどん深くなり、民家がないので、まだ20時前だというのに暗闇は濃度を増していた。乗客は4人ほどしかおらず、さらには私が目指していた駅には郡上踊り開催のため停まらないとアナウンスされ非常に心細かった。窓の外は辿り着けるのか不安になるくらい深い夜になっていた。運転手さんに聞き、真っ暗なバス停に降りた。祭りが行われているようには到底思えない、時刻表が立っているだけのバス停。Googleマップを開いても青い矢印は何もない場所をうろうろして頼りない。心細さはMAX。しかし勘がいいという自負があるのでそこからはなんとなく明るいほうを目指して歩いてみた。10分ほど歩くと「郡上踊り駐車場」という看板があり、安心した。そこからなんとかゲストハウスに着くと、オーナーが本当に優しく迎えてくれて、そこでようやく楽しさや期待が心細さを凌駕した。

浴衣を動画で練習した付け焼き刃の拙さで着ていたら、ゲストハウスに泊まっていたお姉さんが見兼ねて、手早くきれいに着せてくれた。私はこの年から3年連続1人で郡上踊りに参加することになるのだけれど、毎回誰か知らない人が浴衣を着せてくれる。いい加減ちゃんと着付けできるようになれよともちろん私も思っている。

会場に向かうと、それだけで会社を辞めてよかったと思えた。大きな十字路の真ん中にお囃子があり、その回りを2列になってひたすらぐるぐると踊り回る。思い浮かべていた倍以上会場は広く、人は多く、活気に満ち満ちていた。何もわからないまま列に加わって、前の人の見様見真似で踊った。盆踊りの種類は10種類あり、ランダムに流れるようになってる。大体1曲が10分〜15分くらいで、1曲1回で十分覚えられる。何より前後左右の地元の人が「足はこう」「手はパー!」などすれ違いざまにも指導してくれるのでどんどん覚える。心が疲れ果てていたので「ありがとうございます」と言いながら何度も半泣きになった。優しい。人って優しい。郡上踊り最高。


輪に入ったら5時まで出られない。

という地獄のルールはなく、出入りは自由、休憩もどこでも自由。屋台も夜通しあいているので2時間ほど踊って、ラムネを買って休憩した。水のまちと呼ばれている郡上八幡には吉田川をはじめ、いたるとこに水が流れている。「やなか水のこみち」では足を付けられるので、浴衣の裾をめくり、小川に足を付けながらラムネを飲んだ。手を強く叩きすぎてヒリヒリ痛かった。でも全く気にならないほどにとても興奮していた。新宿で郡上八幡まで辿り着けるか心配していたのがもう遠い昔のようだった。

しばらく郡上八幡のまちを歩いてみた。屋台が至るところにあり、地元ではこの4日間だけは子供も起きていいようだった。皆が陽気で、楽しそうで、チャラチャラしたお兄さんも腰の曲がったおばあさんもギャルも中学生も皆が踊ることに夢中だった。一番盛り上がるのが「春駒」という曲で「七両三分の春駒 春駒」の歌詞を皆で大声を出しながら踊る。歯の部分が高めに作られている踊り下駄のカッカッという音が小気味よく、一体感が増す。知らない人にすれ違いざまに応援されたりする。

お囃子も生歌なので、ごく稀に歌詞を間違えたりする。その時は「ドンマイ!」や「頑張れー!」など愛のあるヤジが飛び交う。休み休み踊りながら4時を回った時、先ほどまでとは違う妙な一体感が生まれている。


絶対に踊り切る。あと1時間休まず、ここにいるみんなと必ず踊りきってみせる!!!(どうした)


掌は叩きすぎて赤く、痒かった。私が下手くそなので歯の高い下駄に蹴られることもたまにあり、膝やスネに青痣ができていた。何より、きつい。アドレナリンどばどばなので眠くはなかったが、きつい。空が白んできて、そこらじゅうの提灯や裸電球が色を失いはじめたとき、「これ〜で〜おしまい〜」という歌詞が聞こえて、お囃子が終わって、所々で「お疲れさまでしたー!」と声が上がった。前後左右の全く知らない人とハイタッチをして、軽くハグをした。終わった瞬間に手足に痛みを感じ始めた。疲れたと心の底から思った。仕事で疲れたとか、心をすり減らして疲れたとかではなくて、ただただ身体が疲れ切っていた。そして達成感が身体中に染み渡っていた。


入院してしまったこと。会社を辞めてしまったこと。家族に心配をかけてしまったこと。お金がないこと。東京に戻ってからの生活があること。先のことが何もわからないこと。

染み渡った達成感は踊りきったことはもちろん、ここまで辿りつけたことだった。不安は何1つ解消されたわけではなかったけれど、あの病院の真っ白なベットから、赤い浴衣を着て、今岐阜の山奥で徹夜踊りを終えたのだ。

私は泣いてしまった。来年も来よう。何があっても、どこにいても。きっと全部を乗り越えて。

そして前述したとおり、そこから3年連続で参加することになる。

あの時私に「心がほどける小さな旅」を贈ってくれたひとにとても感謝している。


今は残念ながら盆踊りに参加することはできないけれど、あの旅は今でもたまに私をバチバチと発光させてくれる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?