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廃人デーが必要な人間です。

先日、月村おはぎちゃんのコミックエッセイを読ませてもらった。

私はまだまだなんちゃってエッセイで、体験談しか綴れていないのだけど

おはぎちゃんの作品は構成も内容もすごく練られているのが伝わってきて、読みやすいし「うんうん!」と思うところがたくさんあった。

(あといつも以上におはぎちゃんが変顔している気がして、それもクスッとなった☺️)



私はコミックエッセイが大好きだ。

コミックエッセイのメインは「共感」なのかもしれないけれど、私は

「誰かの日常を垣間見ることができる」

「どなたかの頭の中を知ることができる」

「新しい発見がたくさんある」

などの点が好きな理由だと思う。


だって、日常会話でなかなか聞けないこと

でも気になることを楽しい漫画で読めるなんて…なんと貴重なんだ〜!

昔からエッセイが好きだったけど、「自分はコミックエッセイが好きなんだ」と最近になって気づくことができたのだから、できるうちはどっぷりエッセイに浸かりたい。


で、おはぎちゃんのエッセイを読んで強く感じたのは

「コミックエッセイって『全部まるっと共感』じゃなくても、『ここわかるな〜』『そうそう、自分の場合は…』と自分に落とし込みながら読むことができるんだなあ」

ということ。


他の方の頭の中を知ることで、普段スルーしている自分の本当の気持ちについても考えるようになり、結果「自分」というものがちょっとわかる。わかったような気になる。

だからスッキリする。


エッセイ全部がそうではないと思う。ただただ考えずに楽しく読むエッセイもあるし、がっつり他の世界観、知識を知ることができるエッセイだってある。


でも今回おはぎちゃんの「1人の時間が必要」「自分の殻に閉じこもって充電する」というコマがすごく印象的で、自分について考えるきっかけとなった。



私は1人の時間がすごく必要なタイプではないかもしれない。

今までの人生を振り返ってきても「1人の時間欲しいな〜」と思うことは少なかった気がする。

外では頑張る、どっちかといえば気を張っているタイプだけど

家に帰れば電源オフ、誰がいても自由に過ごすような人間なので、多分特段1人の時間がなくても1人の時と変わらないストレス度で過ごせるのかもしれない。

もちろんいつもそうではなくって

誰にも干渉されない1人の時間も大好き。1人映画もするしカフェも大好き。

でも1人の時間以上に自分に必要なのは「廃人デー」だ。

とおはぎちゃんのエッセイを読んで実感した。



数行前にも書いたように、私はオンとオフの差が激しい。

かなり前のドラマ「ホタルノヒカリ」の「干物女」のような感じ。

あんなに可愛い生き物ではないが。

あのドラマをリアルタイムで見ていた時も、家族に「あなたこの干物女だね。そっくり」と言われていた。


成長して干物っぷりはいくらかマシにはなったと思うが、根底は変わっていない。「干物女、ちょいナマめ」(完全に干からびてはいないはず…汗)


仕事はもう全力で頑張る。120%の力で駆け抜ける。

その分帰ってきたら即別人。玄関で電池が切れバタンキューしたこともあるし、お風呂で寝落ちも多々。アラームかけずに寝ちゃう。

でも仕事がある日はアラームが鳴らなくても朝ちゃんと起きてお風呂入って出かけられるし

職場に行ったら自然とオンになる。


2日ある休日のうち、1日はアクティブな予定を入れることが多かった。

山登りも好きだったし、旅行も大好き。美味しそうなお店をリサーチしてひたすらイタリアンばっかり爆食い。楽しい。大満足。


でももう1日は廃人と化す。

起きるのもお昼ごろ。なんなら夕方まで寝てたことも。

ご飯も適当でいいし、テレビをつけててもながら見。

も〜〜〜ずっとゴロゴロ。


この廃人デーが私には必要だった。



大学生になった頃、予定を入れすぎるとどこかで歪みがきていつも以上に籠りたくなってしまう、という自分の習性に気づいた。


それまでは競泳にのめり込みすぎてて、競泳以外の友人との遊びがそこまで多くなかったんだと思う。大学で初めて感じた。


サークルの飲み会、同じ学部の子とのランチ、どれも楽しい。嘘じゃない。

でも、1日にたくさんの予定が入ったり、人と会いすぎたり、廃人デーがずっと取れずにいると、急に「あ、もう今日無理だ」と全てを投げ出したくなってしまう。

現に「もう今日無理だ」となって予定をドタキャンしてしまったこともあるし、授業をサボってトイレにずっといたこともある。

そんな自分がすごく嫌だった。



その時は「自分にたくさんの予定を消化するキャパがないだけ」

「慣れればそれが普通になる」と思い、大学生のうちは頑張った。


もちろん無理のない範囲、お金の許す範囲でだけど

できるだけお誘いは断らず、いろんな輪の中に飛び込み、ちょっとしんどい朝があっても自分を奮い立たせてでも行くようにした。(実際行ったら楽しいことが多い)


その結果、多分少しは慣れた。

前よりかはフットワークが軽くなったし、いろんな場への耐性はできた。大勢の人の中にいると相変わらず喋らない方かもしれないけれど、それでもいいと思えてる。

それでもやっぱり廃人デーの必要さは変わらなかった。

無理をするとどこかでプツッと電池が切れる。強制終了される。

そうなるのが嫌だし周りに迷惑もかけちゃうかもしれないから、限界が来る前に廃人デーを取るようにしていた。

アクティブデーは思いっきり楽しむ。でも予定は1日1つ(笑)

(『1日フルのお出かけ』と『1日2〜3件別の予定』では疲労度が全然違う!)



でも、そういえば最近廃人デーはとってない。

子どもが小さいうちはなかなか廃人になれない。

子どもが生まれる前から「お昼過ぎまでグータラ寝るのはもうなかなかできない」ことはもちろん分かっていたし、今、文句を言いたいわけではない。

実際今、ストレス度合いは極めて低い。仕事をしていた時より廃人デーを求める日も少ない。

でも、基本毎日外に出ている。

(自宅保育だから頑張らなきゃと多分どこかで思っている。自分のことはゆる〜く適当にできても、子育てを適当にすることができない。この辺は端折るが自宅保育の悩みはいつか書きたいなあ。)


公園で息子と遊ぶのも楽しい。散歩も楽しい。行けば楽しい。(冬は寒すぎるが)

でも毎日外に出ていると「今日は外に出たくないな〜」という日があって。

私が外に出たくないという気持ちだけで、息子の「外で遊ぶ機会」を奪ってしまっていいのか?という葛藤が時たまくる。

実際外で遊んだ方が息子も寝つきがいいし、切り替えもできて私も楽だから結果毎日外に出る。

でも引きこもりたくなる日もやっぱりあるのよ…。

それで実際「自分がめんどくさいから」という理由で外に行かないと、なんというか…罪悪感が襲ってくる。こんなんじゃダメだ、息子の貴重な1日を…と。

その1日何もしてないわけじゃないし、その1日で何かが変わるなんてことはないのにね。



だから、たまに息子が体調を崩して「今日はお家でゆっくりしようか〜」という日が来ると、すごく楽な気持ちで家に篭れる。

息子の体調は心配だし、もちろんできることはする。ハッピーとまでは思ってないけど、でも、罪悪感なく家に引きこもることができる日が貴重で。


息子のこと以外は廃人デー。も〜〜〜〜できる限り手を抜く。くつろぐ。丁髷。

そうするとね、廃人デーの必要さを身にしみて感じるんですわ…

「明日も頑張ろう」って思えるし、実際翌日は朝から好調、より息子とたくさん遊べる。プラスな空気。廃人デー万歳!




廃人デーについて長く語ってしまったけれど

やっぱり母親でも1人の人間で、その人の特徴とか生き方、ストレス消化の仕方みたいなものがあって

それを無理に押し込むとどこかでパンクしちゃうから、母親もどんどん「本音」を出していっていいんだな、とおはぎちゃんのエッセイを読んで再確認することができた。


「弱音が吐きにくい文化」「体調が悪いだけでなく、心が沈んでいる時に休めない文化」みたいなものが日本にはある。

けど、子どもだって親だって、先生だって完璧じゃなくていい。弱音を吐いたっていい。弱い自分を知ることで生まれる強さがあるはず。


だから私も、たまにくる「もう無理だ〜今日はちょんまげでいたい〜頑張れない〜」って日は無理せず廃人になろうと思う。息子にその旨を伝えて、家でできることをすればいい。

さすがにお昼過ぎまで寝ることはしばらくはできないだろうけど、そこは寝落ちしてるし大丈夫。なんとかなる。


息子、自分の体調が悪いわけでもなく、晴天の日に引きこもりになっても「無駄な1日を過ごしちゃったな」じゃなくて「貴重な廃人デーだったぜ。明日からまた頑張れるぜ〜!」と考えるようにしたい。


廃人デーについて考えるきっかけをくれた月村おはぎちゃん、どうもありがとう☺️


月村おはぎちゃんのブログ↓


最後までお読みいただきありがとうございました!

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