見出し画像

21時過ぎ、桜の国で

帰宅の電車が人身事故で止まった。
しばらく三鷹駅で時間調整をするらしく、車内はぎゅうぎゅうに混んでいる。
一刻も早く帰りたいけど、21時過ぎの電車の中で未来永劫訪れることのない今日がこんなふうに終わって後悔しないだろうか、と考えている。


 ♢

今日は仕事も珍しくきれいに片付いた。
駅を降りたら、およそ100%の確率で駅前のスーパーに寄って買い物をして、なにか軽く食べながら大好きなアイドルの旅番組をサブスクで見て、お風呂に入ってすぐ眠る。
毎日だいたいその繰り返しなんだけど、たまに決定的に「なにか足りない」感情に襲われる。
なにかはなんだろう。
わたしの周りにあるだいたいのものが代替品であるというのに。

今日はこんなことがあったんだよ、お昼に食べた650円のとんかつ弁当がわりと美味しかった、スケジュール厳しかった原稿なんとか納品できたよ、初めて覚えた言葉があったよ、男とか女とかの悪気ない一言にカチンときてでも茶化して終わってしまった、気にしないフリは、意外と自分を傷つけるね、今日はどうだった?そちらはどんなことがあった?どんな気持ちになった?笑った?怒った?傷ついたりしなかった?
今晩は何食べたの?明日は雨降らないよね、そろそろ上着もいらないね。週末はなにをしようか。

誰に向けたわけでもない言葉が自分の内側で少しずつ発酵して、ときどき自家中毒みたいに深刻な気持ちになる。
わたしだけだろうか。
どんなにキラキラして見える人でも実はちょっとイケてない日常を過ごしていてほしい。


  ♢
    ♢
 ♢

やっとの思いで駅に降りて、最後の悪あがきを思いつき、ルートを変えて大学通りを歩く。
国立駅前には、最後の桜を楽しもうと飲み物を片手にベンチに座っている人たちがちらほら。
わたしも缶ビールを買って、大学の門の少し先の鬱蒼とした暗闇を抜けて静かなベンチを目指す。
大学通沿いには桜以外にもヤマブキとかチューリップとかがこれでもかと花が植わっていて、過剰な感じがちょっとだけおもしろい。
夢の国の閉園間際みたいな雰囲気だ。

舞台上みたいに街灯に照らされたベンチに座って、マスクを外して深呼吸する。
焦点があってるのか、あってないのかよくわからない感じで、はじけたポップコーンみたいな桜を見上げる。
桜って凝視してもよく見た気がしないのはなんでだろう。ずっと不思議に思っている。
あのさ、今度きみが傷つけられたら、わたしが一番にそいつに怒ってやる。大丈夫だよ。

今日は、2021年の桜を見納めた二度と訪れない特別な1日だから、全部よかった。
来年また別の場所で、まるで初めてみたいに桜を見る。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?