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愛とは

定期的に参加しているお話会がある。今回はそこに参加しているなかで考えたことの記録を少し。


愛は利己的か利他的か

こんな問いかけからスタート。

私は瞬間的に、「基本は自己愛を含むのが人間なので、利己的なものであると思う」と答えた。「相手が喜んでいるからやっている」と言いつつも、人は自分のために動くものだと思うんだよな。

人助けや寄付も、「ありがとうと言われたい」とか「嬉しそうな顔を見たい」とか「そうしなければ自分が気持ち悪い」とか、全て自分が起点。相手が喜んでいるかどうかは自分の動きに付随して現れるものであって、行動そのものは自分起点。

というか、そうでないと相手の負担になってしまうんじゃないか。

自分がこうしたいからしているのであって、自分の行動は自分で責任がとれるように。そういう意味でもすべての行動で「エゴ」が起点になっていると考える。

そこから、愛と相手の反応についてをみんなで話し合っているうちに、「そもそも愛とは」と疑問になり、辞書を引いてみた。

愛の定義

校正を仕事の一つにしていることもあって、物事を考えるときによく辞書を引く。

愛=価値あるものを大切にしたいと思う、人間本来の温かい心

明鏡国語辞典

なるほど。感情の一つか。そうか。

だから「愛」単体を考えるときに、利他的だの利己的だのという問い自体が愚問で、自分の中に芽生えればそれはもう「愛」なんだ。単純な話である。


そうなると「利他的か利己的か」とは、「大切にしたいと思」って、実際にどう大切にするかの部分が、利他的な要素と利己的な要素のどちらが強くなるか、という話なのかもしれない。

そこに我の強さが出てくれば、「大切にする」のではなく「手に入れる」に変わってしまうこともあるだろう。

花を愛する人

「愛」について考えるときにいつも思い出す言葉がある。

あなたが花を好きならば、その花を摘んで家に飾るだろう。あなたが花を愛しているならば、毎日その花のもとへ行き、水をやるだろう。

実は出典がよくわかっていないらしいこの言葉。訳でもあるらしいから、いろんな言い方がされている。

私は「愛」というものがよくわかっていないし、どう捉えたらいいかもよくわからない。ただの理想かもしれないけれど、この言葉がいつも頭の片隅にある。愛ってこういうものなのかなぁ、とぼんやり思う。

自分が、大切だ、愛おしいと感じればそれはもう愛である。そこから何か行動をするときに、利己的か利他的か、相手をまっすぐに見ているかが問われるのかな、というのがこの回のなかで私が出したひとつの答え。

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