【紫陽花と太陽・中】第三話 縁田さん
「あ」
「おぅ」
朝、家を出たところで剛と会った。
僕と剛の家は徒歩二分の、それこそお互いの玄関に立つとお互いの部屋の明かりがついているかどうか分かるくらい、近い家に住んでいる。
僕は学ランを着て、少し暑かったので黒い上着の前とワイシャツの第一ボタンも開けて、リュックサックを背負って家から出てきたところだった。
「久しぶりだな」
剛が目を丸くして言った。確かに、久しぶりだった。高校が別になってしまったので登校などで顔を合わせることは皆無になった。疎遠になったものだと思う。
「久しぶりだけど、実は剛の家に行こうと思ってたんだよね」
「俺の家に?」
「そう」
剛は上下黒のジャージ姿で、長ズボンの裾を膝下くらいまでまくりあげ、スニーカーを履いていた。これからジョギングでもしそうな出で立ちだ。
「いやいやいや、お前さ。学校はどうした?」
僕はわざとらしく目を逸らす。
「あずささんは今日は休校日だって言ってたよ」
「それは俺とあずさの高校の話だろ」
「剛が予定あるなら、学校行くけど」
「ねぇよ。走ろうかって思ってたくらいだよ」
僕はじっと剛を見つめた。剛は高校に入っても剣道部に所属したと、あずささんから聞いていた。たまの休みくらい家でごろごろしてもいいと思うのに、体力づくりも趣味なのか、休日もわざわざ走るくらいだから剛にとっては大事なことなのだ。
誘おうかと思って出てきたが、やはりやめておこうと思って踵を返して去ろうとしたら、剛に先回りされてしまった。
「どこにいく?」
え? と剛に振り向いた。
「金がねぇなら、公園か? 目立つのが嫌ならとりあえず駅まで歩きながら話すか?」
「……」
じゃあ、と呟き、僕は口を開いた。
「喫茶店」
お店の住所のメモを見せながら、僕は歩き出した。三歩、四歩歩いたところで剛にメモを取られた。
「バカ、この住所じゃそっちは反対方向だ」
そうなのか。どうやら僕は運動オンチに加えて方向オンチでもあるのだった……。
カロンと軽やかな音とともに店内に足を踏み入れた。
喫茶店というところに入るのは初めてだ。
コーヒーカップと豆のイラストと共に「喫茶 紫陽花」の文字が描かれた看板が目印の何だか懐かしく感じるこのお店は、一人旅の時に出会った縁田さんがやっているという喫茶店だ。懐かしいなんて僕はそんな歳じゃないのに、えんじ色のところどころ古びたレンガや年季が入った扉や窓などを見ると、不思議と安心する気持ちになる。
「へい、いらっしゃい!」
奥のカウンターの方から、でかい声が聞こえた。そう、この野太くて大きな声は、間違いなく縁田さんだ。
「でけぇ声だな」
後ろで剛がボソリと呟いた。
「あれっ、遼介くんじゃん!」
縁田さんが僕の顔を見るなり気さくに話しかけてきた。
「本当に来てくれるなんて、すごい嬉しいねぇ」
縁田さんはくしゃっと目を細めて笑った。トン、トンと僕たちの目の前に水グラスを置いた。
「先日はお世話になりました」
「もう泣いてないのかい?」
「……ええ、まぁ。そんなに泣きませんよ、普段」
「嘘つけ」
僕と縁田さんの会話に、剛が隣でツッコミを入れたので、僕はカウンターテーブルの足元で剛を軽く蹴っ飛ばした。
「痛」
縁田さんがそんな僕たちのやり取りを見て、ちょっと微笑んだ。
何を飲む? と僕は剛に聞き、二人で置いてあったメニュー表を眺めた。メニューはとてもシンプルで、珈琲、カフェオレ、紅茶、ミルクセーキ、メロンクリームソーダ、だけだった。
「腹が減ってるなら、簡単な飯もあるよ」
縁田さんがメニュー立てにはさまっていた別の表を見せてくれた。こちらも、ナポリタン、カルボナーラ、ペペロンチーノ、たまごサンド、ハムサンド、ミックスサンド……どれも聞いたことのある名前のメニューでとてもシンプルだった。
僕と剛は珈琲とサンドイッチを頼んだ。朝食は食べたけどまだお腹は空いている。中学生の終わり頃からお腹がいつも空いてしまうので、食べても食べてもまだ入る。
「そろそろ教えてほしいものだな」
「ここに来た理由?」
「それも。あと、いつの間に喫茶店のマスターと仲良しになったんだ?」
さて、どこから話そうか。前に剛と会ったのはいつだっけ? 会えばこうしてすぐに昔みたいに気軽に話せるけど、会わない時間が増えすぎると何をどこから話したらいいか一瞬迷う。
僕は珈琲とサンドイッチが到着するまで、一人旅のこと、その前に父の葬儀の辺りから話し始めた……。
「へぇ、京都に行ったのか」
「そう。一人で。初めてだったよ、一人でどこかにお出かけするのは」
「いっつも椿がいたからな。たまには一人きりの時間を過ごすのもいいかもな」
「ずっと考え事をしていたよ」
「へぇ」
一度口を開けば言葉はどんどん出てくる。道に迷わないでホテルに着けたこと(剛の中では僕はすぐ迷子になると思っている)、ずっと悶々と考え事をしてたこと、散歩をして縁田さんと出会ったこと、珈琲をごちそうになったこと……。
気が付くと珈琲もサンドイッチもテーブルの前に置かれていた。
「あぁ、ごめん。僕ばっかりしゃべってた。いつの間にか珈琲も」
「お前、学校であんま友達と話してないな?」
ズバリ、剛は的確に真実を突いてくる。実は友達がまだいないと言うと、呆れられた。
「うそだろ? もう入学して一ヶ月経つんだぜ」
「そうだけど……。皆、部活やってるしさ……」
僕たちが通った中学校は、部活はよほどの事情がない限りは必ず入部するものと決められていた。僕やあずささんは特異な部類で、親がいない、家庭で早く帰宅する必要があると保護者からの要請があった、などの理由が当てはまり、たまたま二人とも帰宅部だったのだ。
四月から通い始めた高校は部活動の参加は任意で僕は気が楽だった。クラスの中でも探せば帰宅部はいたのかもしれないが、帰宅部はたいてい学校が終わればすぐ帰ってしまう。
そして僕は、まだクラスメイトの顔と名前すら、一致していない状況だった……。
「まぁいい、食おうぜ」
「うん」
目の前のサンドイッチが美味しいうちにと、僕たちはそれぞれミックスサンドとたまごサンド(こっちは剛が頼んだ)をパクっと頬張った。……しっとりしたパンとシャキッとしたレタスやトマトが噛むたびに口の中に広がって、とても美味しい。
「すっごく美味しいです」
「うまいな」
僕たちが絶賛すると、縁田さんがニカッと歯を見せて笑い、うまそうに食ってくれると嬉しいんだよなぁと大きな声でお礼を言った。
「今日は、奥さんはいないんですか?」
僕は店内をサッと見て、縁田さんの奥さんがいないので、尋ねてみた。京都で会って話した時は、たしか一緒にお店を営業していると聞いていたからだ。
「おぅ。今はお客さんがちょうどいなくて暇だったから、奥で休んでるよ」
「そうなんですか」
「今日は遼介くん、ちょうど営業している昼間に来てくれて良かったよ。来週から昼は休みにしようかって考えていたところだったからさ」
「え、お昼はやらないんですか?」
「うん」
店内をよく見ると、壁の水彩画の下に、手書きでお知らせの紙が貼られていた。
確かに、来週から夜だけの営業に変更します、と書かれていた。
「妻がさ、体調悪くなってきててそろそろ店に立つのは厳しくてねぇ。ま、昼をお休みにすればいつでも病院に行けるように調整効くし、ちょうど良いんだよ」
「いつも二人で営業されていたんですか?」
僕が聞くと、縁田さんはムフフと笑って、そうだよ、仲良いでしょ、と言った。
「遼介、バイト募集中の張り紙もあるぜ」
剛が、また別の壁に貼ってある手書きの紙を指して言った。縁田さんがそれを見て説明する。
「あぁ、募集はしているけどね。この間も一人雇ってみたんだけど、一日で辞めちまった」
「え」
「は?」
一日で辞める? せっかくお仕事もらえたのに?
僕と剛が目を丸くして絶句していたので、縁田さんはこう言った。
「飲食店ではわりと多いよ。すぐ辞める人。まぁ一日はひでぇなって思ったけどさ」
縁田さんを見ても、全然大したことじゃないように笑っているけれど、奥さんの具合が悪いことやバイトの人が辞めてしまっても、どうしてそんなに飄々としていられるのか信じられなかった。
「珈琲、冷めちまうよ?」
僕は慌てて珈琲を口につけた。飲む前にふわっと漂った香りは、京都で飲んだものとはまた別の香りだ。色は同じ黒なのに香りが全然違う。飲んでみると舌の上の感覚が確かに前と違う。
「うちの珈琲豆は京都で飲んだやつとは別だよ。俺の友達が焙煎やってるから、そこから仕入れてる」
「……これも、すごく美味しいです」
「遼介くんは、いつも珈琲は飲むのかい?」
「い、いえ。家ではお茶を飲むことが多いです」
「お茶かぁ。お茶はよく知らないからなぁ。友達にお茶屋とか茶畑やっている奴もいないから、オススメも教えてあげられないなぁ」
「この間、京都のあのお店で珈琲の粉をお土産で買ったので、それは飲みました。家族もとても美味しいって喜んでくれました」
「そうかそうか、そりゃあ良かった。あの店は、俺と妻が初めて旅行に行った時に立ち寄ったお店なんだよ。というか、店主が俺の友達なんだけどさ。もう何十年になるかなぁ……。ずっとうまい珈琲をお客さんに出して、珈琲だけで店を続けていってるすごい奴なんだよ」
縁田さんは店の奥の方を見ながら、目を細めて続けた。
「妻は、もう体力的にも旅行にはいけなさそうだから、最後の旅行だなぁってこの前行ってきたんだよ。観光地でも何でもない場所だけどさ、懐かしい懐かしいって、めちゃくちゃしゃべって歩いていて……。写真を撮りたかったけど誰も、人っ子一人いないような辺鄙なところだから困ってた。自撮りなんて、やったことねぇし。……そしたら! 遼介くんがちょうどいて、しかも何枚も写真を撮ってくれたから、もう最高に助かっちまったよ!」
ほらこれ、と縁田さんは一瞬奥の暖簾のかかった部屋に入り、すぐに戻って写真を見せてくれた。
僕が撮影した写真が……目を閉じてしまった失敗作も含めて全部、印刷されていた。
「…………」
僕はまた泣きそうになる。どうしてこう、誰かが死ぬ道を歩き始めた出来事に触れてしまうのだろうか。年を取れば、病気だって老衰だって、誰だっていつかは死が待っている。それは知っている。遅いか早いかの違いだけだ。
縁田さんが見せてくれた写真をかき集めて大事そうに封筒にしまった。
「ま、そんな俺のことは遼介くんとは関係のないことだから、そんな顔しなくていいのさ。でも俺は、ものすごーく助かって嬉しかったから、今日の代金は無料だよ」
「えっ」
「あぁ、お友達の分ももちろん無料だから、安心して」
僕は驚いて縁田さんを見た。縁田さんはガハハと笑って、剛に向かって親指をぐっと上に突き出した。
「夜は十七時から営業するからね。来たくなったらまたおいで。あ、次は無料じゃないからね、言っとくけど!」
それから、仕込みがあるからと縁田さんはまたキッチンに戻って野菜を刻み始めた。
僕と剛は残りのサンドイッチを食べ、珈琲をきっちり飲み干し、店を出た。
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