見出し画像

5/1 【自分を凄いと思い始めた瞬間、ダメになる。】


今日で丹後生活も残り1ヶ月となった。

愛知に帰ると決めた年明けから早いもので4ヶ月経ってしまい、残された時間もわずかになってきた。

そんな中で、帰る前に一度会いましょうと言ってくださる方がこんな僕にもいて、本当に有難い限り。予定をできる限り調整して、会いたい人に会いに行く。そんなことを仕事の合間を縫ってやる、ある意味幸福な時間が訪れ始めている。

類は友を呼ぶ、僕はこれを信じている。案の定、最後に声を掛けてくれる人は自分も好きというか、このおよそ2年の中で構築された人間関係が元にはなっていると思うが、少なからず仲が良い人や尊敬している方ばかりで、年齢など関係なく接してもらった方ばかりだ。ほとんどが年上の憧れのような先輩ばかりで、学ばせてもらう機会が圧倒的に多かった。


僕は、人に会うのが好きだ。間違いない。ただ、やはりその中には合わない人もいる。合う合わない、これは誰にでもあると思うのだけれど、ここの線引きはしっかりする。以前までここの線引きが上手くできず、ひっきりなしに人に会っては疲れ果てて動けなくなることが多々あったので、同じ過ちを繰り返さないためにも自分の中でラインがある。

それでなんだけど。自分が憧れるような人と時間を共にしていると、なぜか、自分すらも大きくなったような気がすることがあった。ただ、時間を共にしているだけ。同じ空間に、いただけ。なのに、あたかも同じ土台にいるかのような振る舞いをしてしまっていたことがあって、めちゃくちゃ反省した。強烈にダサく、相手にも申し訳ない気持ちになった。

凄い、凄くないなんて、誰が決めるんだ。そもそもそんな基準がどこにあるのか?自分でつけ上がっているだけでは?人それぞれ憧れの指標も違って、人それぞれ凄い人の対象も違う。そんな中で、ただコミュニケーション能力が少し秀でてただけの凡人が、相手を利用しているような気がして嫌になった。虫唾が走り、何もしてない思い上がった自分を俯瞰してみて、吐き気がした。

ヴィトンのバッグを持ってる私はイケてる、全身supremeの俺かっけー。これと同じ。自分自身はどうなんだ?何をしたんだ?何が出来ているんだ?着飾ったもの、アイテム、一緒にいる人、環境がすごいだけなのでは?自でなく他を持って自己評価している姿は、惨めで、情けなくて、カッコ悪い。


だいたい、自分が凄いとか正しいと思っている人とは合わない。また他人から凄いと言われてつけ上がってるようじゃそこで止まってしまう。常に疑問を抱き、相手に対してリスペクト。自分はいつだって、勉学者。正しいも正しくないも時間で変わっていくから。これは自分への戒めでもあって、今後の糧にもなっていく。


弱い動物、人間。
浮かれないように、地に足を着けて。
浮いた足は、すぐに掬われるぞ。

この記事が参加している募集

この経験に学べ

サポートしてもらえたら、いつか還元できるように頑張ります。