「自由」「子ども主体」を越えて〜社会構成主義と特異性理論〜
しばしば子どもたちとの関わりの場で「自由」や「子ども主体」という言葉が謳われることがあります。もちろん大切な概念ではありますが、個人的にはあまりピンと来ておらずモヤモヤすることも多いのが正直なところ。そこで今回のブログでは「自由」「子ども主体」を越えていくための一つの視点について考えていきたいと思います✏️
「自由」「子ども主体」の危うさ
これまで小学校・学童保育・保育園などの様々な現場を経験する中で幾度となく聞いた言葉が「自由」「子ども主体」です。「放課後なんだから自由に遊ばせたい」「子ども主体の活動ができたら」…。その思い自体はとても大切で踏み外してはいけないと思います。しかしその実、子どもたちが放置放任状態になっていたり、無目的的にエネルギーを発散し空間が荒れ放題になってしまったりするような状況に陥っていることもしばしば。
このように収拾がつかなくなると、ほぼ確実に登場するのが「自由には責任が伴う」「一定のルールが必要」という意見です。無法地帯のようになってしまった状況を収めるべくより強固な「ルール」を一方的に作り、それを「権利・自由が欲しければ義務を果たせ」という「道徳性」?オトナの権利?でもって支配しようとし始めるのです。
この放置放任的な「自由」「子ども主体」と、一方的な「ルール」による支配の繰り返しの双方に共通するのは「結局のところその場にいる大人(保育者・教育者など)が、子どもたち(と)の『いま、ここ』に生まれている〝動き〟への視点と、その先の〝動き〟に対する仮説を持つことができていない」という点ではないでしょうか。それは物理的な距離感(一緒に遊んでいるか、少し離れたところからアイコンタクトを通して関わっているか、など)云々よりも、意識的な部分の問題なのだろうと思います。
「社会構成主義」「至適な応答性」とは?
このことを考える上で、ケネス・J・ガーゲンの「社会構成主義」と、Howard.A.Bacalの「至適な応答性」という概念が役に立ちます。
社会構成主義については、以前私が書いたこちらの記事をご覧いただけたら嬉しいです。
双方の違いに目を向けてしまうのではなく、「対立し合う人々が、まだどちらの側にも実現されていない『現実』の未来図に加わる瞬間ー対話における想像的な瞬間ー」を真ん中に据えるー。これを保育や教育現場で考えると、子ども「と」大人というように分断された存在として見做すのではなく、双方の真ん中に「まだどちらの側にも実現されていない『現実』の未来図」を置くことにより、対立的な関係性を越えた協働・共創造的な活動が生まれゆくという可能性が見えてきます。
次に「至適な応答性」について考えていきましょう。以前ブログでも紹介しましたが、サイコセラピーについて研究しているバコールは「特異性理論(Specific theory)」を提唱し、その中で「至適な応答性(optimal responsiveness)」という概念について次のように述べています。
optimalとは「完璧な」=固定化された絶対的なものを関係性の外側に作ることでも、「何でもまかり通る anything goes」でもない。そうではなく、常に「何が特定の患者の治療的経験において至適となり得るか」という未知のコンセプトを真ん中に、「一瞬一瞬の注意深い熟慮」を通して、そのコンセプト実現に向けて自らが提供し得るものについて意識を向けることが重要なのです。「特定の患者」という表現からは、何らかの症状群の現れとしての(保育・教育の場合は「○歳児」「□年生」などで括られるような)のっぺりとした人間像ではなく、固有の名前を持つ唯一無二の「その人」を意識する重要性が伝わります。
「まだどちらの側にも実現されていない『現実』の未来図」「至適な応答性」の萌芽
先日、保育現場で同僚の先生と語り合う中で社会構成主義的・「至適な応答性」的だなぁと感じた場面がありました。それは週案を考えている場面でのこと。「子どもたちの実態に応じた遊びや活動をより面白くダイナミックに膨らませるには?」というコンセプトで語り合い、その中で「うちのクラスの子どもたち、飲食店をテーマにしたおままごとをよくやっているよね!」という話があがりました。
これをきっかけに、お互いに大盛り上がり。年度末にある生活発表会にまで視野を広げて話が膨らみました。
この会話でのポイントは、子どもたちやクラスの実態から出発し、未だ実現されていない「子どもたちの実態に応じた遊びや活動をより面白くダイナミックに膨らませるには?」=何が特定の子どもたちの保育的経験において至適となり得るかというコンセプトを真ん中に据えたことです。このやり取りを通してお互いから「まだどちらの側にも実現されていない『現実』の未来図」の生成に向けた具体的かつ至適なアイディアが生まれたことで、同僚の先生との間で新たな協働的・共創造的な関係性が築かれました。具体的な実践はこれから行うのですが、きっと実践のプロセスにおいても私たちの中ではこの「未来図」が意識され、都度「至適な応答性」を持ち続けるというマインドを震わせながら子どもたちとの実践を紡ぎ続けていくことでしょう。
まとめ〜マニュアル・メソッド・ハウトゥーが根強い時代だからこそ〜
いかがでしたでしょうか。難しく堅苦しい議論になってしまいましたが、「自由」「子ども主体」を越えた社会構成主義的・特異性理論的な視点の重要性について提起してみました。このような視点に基づいて、敢えて保育や教育現場の実践中における「自由」「子ども主体」について私なりに定義するならば、
・自由…あくまで「まだどちらの側にも実現されていない『現実』の未来図」あるいは「至適な応答性」を生み出す「いま、ここ」の文脈に影響を受けながら、それらにマッチする範囲の中で繰り出し得るアプローチの選択肢の幅の広さ。そこを踏み外すと、「最高の」「完璧な」=固定的・教条的なアプローチか、もしくは「何でもまかり通る」行動に陥る。
・子ども主体…こうした「まだどちらの側にも実現されていない『現実』の未来図」あるいは「至適な応答性」を生み出す「いま、ここ」の文脈に影響を受けながら、選択し、何らかのアプローチを投企する姿。しかし同時に大人の側も未知のものを真ん中に据えることで、子どもたちと同様に「未来図」「至適な応答性」を創る一つの要素となる。よって、いずれか一方ではなく共主体的な関係性として捉えることができる。未知の前では子どもも大人も対等。子どもの主体性と大人の主体性は矛盾・対立しない。
ということになるでしょうか。
保育・教育現場では多忙化やニーズの多様化に伴ってますますマニュアル・メソッド・ハウトゥー化が根強くなり、現場でも具体的で効率的な方法論に頼りたいという切実なニーズがあるように感じます。また、その反発なのか冒頭に述べたような、子どもと大人との対立を脱していないような「自由」「子ども主体」論を様々な場面で耳にするようになりました。このような時代だからこそ、社会構成主義や特異性理論的な、共創造的な関わり合いや文化が求められるように私は思うのです。極めて概念的ではあるけれど、こうした理念や哲学をいかにして実践に落とし込んでいくか、今後も模索していきたいです。
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