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「人の命は平等」という思い込み

コロナで多くの訃報が報道され、生と死について考える時間が増えた人も多いと思う。

僕はもともと職業柄、人の命について考えることが多い。
その上で皆さんに聞きたい。

皆さんは人の命のあり方について、
「平等派」と「不平等派」のどちらだろうか。

今回僕が伝えたいのは、そのどちらが正しいかという話、ではない。

伝えたいのは、

「平等派」と答えた人のほとんどは、実は無意識のうちに「不平等派」に属している。

ということだ。

「何を言っているのか。この世の全ての人の命は平等で同様に尊重されるべきに決まっている。これが思い込みなわけがないだろう。」

そんな声が聞こえてきそうだ。

たしかに僕も「人の命が平等」と言い切れたら、どんなに素晴らしいだろうと思うことがある。
だけど僕は「不平等派」だ。

これから話す内容を聞いた後でも、
「やはり人の命は平等だ」と思えたのなら、あなたは間違いなく「平等派」と言っていいと思う。

だからまずはこれから話すことに少しだけ耳を傾けてほしい。


実際にデータを取ったわけではないが、
「人の命が平等だ」と考える人の割合は、日本のような平和な国であるほど多いと推測される。

正確にいうと「平等だと思い込んでいる人」の割合だ。

それはなぜか。

そもそも僕ら日本人が生きていて、
人の命が平等かどうかについて考える機会がまずないからだ。

あったとしても、それは「道徳」や「倫理」の授業など、生と死をリアルに感じる瞬間とはかけ離れた場所であることがほとんどだ。

その結果、命の「実際」ではなく「こうあるべき」という思いが先行し、自分は「平等派」であると勘違いする。

では人の命の平等性についてよりリアリティを持って考える機会とは、どんなときだろうか。

それは人の命を天秤にかける必要があるときだ。

そんな危機迫った命のやりとりなど、この日本のような平和な国ではほぼ皆無だ。
だから「命が平等だ」と思い込んでしまう人がいるのも無理はない。

そこで具体例を提示し、
無理やりあなたを命のやりとりに巻き込んでみようと思う。
自分がその状況になったつもりで考えてほしい。

仮にあなたが医者だとする。

目の前に今すぐ手術しなければ、助けられない命が2つある。

1人は87歳の老人で、もう1人は2歳の子供。
その場に医者はあなたしかおらず、1人の手術をしている間、もう1人の命が絶えてしまうのは目に見えている。
あなたはどちらの手術をするだろうか。

もしあなたが「平等派」であるのなら、あなたはそれをコインか何かのランダムな方法で決める、ということになる。

あなたは本当にそうするだろうか。
コインの結果、老人を助けることになり子供を見殺しにするとしても、あなたは一切迷いを生じないだろうか。

これを読んだ「平等派」の人はこんなことを思うかもしれない。

「この例だと2人の年齢が全然違うではないか。命の残り時間が長い方を助けることは、命が平等であることと矛盾はしないはずだ。」

なるほど、命を「時間」と捉えたとき、より長いと予想される方を無差別的に助ける。
それは、ある意味「平等」と言えるかもしれない。

では次にもう少し差し迫った具体例を挙げようと思う。

仮にあなたが心臓の疾患を抱えている患者だったとしよう。
最近は息切れが絶えず、苦しくて夜も眠れない。
あなたには心不全による死が迫ってきている。しかし治療法は他人からの心臓移植しかなくあなたはドナーをひたすらに待っていた。

そんなとき、ついに心臓移植のドナーが見つかった。

しかし喜ぶのもつかの間、移植待ちの患者がもう1人いることが判明した。
お互い、今回の心臓移植を逃せばもう助からない状態であった。

そこで2人が顔合わせをする機会が持たれることになった。
あなたはもう1人の患者と対面する。

その患者は、あなたより5つ年下だった。

ところが、その患者は重度の知的障害、運動障害を患っていた。
言葉を話せないどころか意志の疎通も全くできない。
1日中寝たきりで、食事も排泄も全て他人に依存している状態だった。

「平等派」のあなたはもちろん、その意志の疎通もできない寝たきりの患者に心臓移植を譲るだろう。

何せ自分より5つも歳下だ。

いや、そうでなくとも「コイントス」には応じるだろう。
命が平等である以上、公平性を保つランダムな方法で決めなくてはならない。

そしてあなたはコインを投げる。
表なら自分が、裏なら相手が移植を受ける。

結果は「裏」。

心臓移植はもう1人の患者にされることとなった。

そのときのあなたの気持ちを想像してほしい。

「平等派」だろうと「不平等派」だろうと、自分の命が大事なことに変わりはない。

だから公平な決定であっても、
あなたは涙を流し、
「自分が死ななければならないことに対する悲しみ、恐怖、憤り」
といった感情で満たされるはずだ。
それは当然の反応と言える。

でも胸に占める感情や気持ちは本当にそれだけだろうか。

「そもそもなんで寝たきりで意志の疎通もできないようなやつのために、自分が死ななきゃならないんだ!!」

「なんでこんなやつと平等に命を比べられなきゃいけないんだ!!」

そんな風には思わないだろうか。

僕は、自称「平等派」の中にもそう思ってしまう人が少なからずいるのではないかと思う。

いかがだろうか。

今の話を聞いても全く考えが変わらなければ、自分が「平等派」だと胸を張って言っていいだろう。

誤解を招かないように改めて言おう。

僕は「命が平等である」ことが間違ってると言いたいわけじゃない。

その是非は、それぞれが自分で考え、答えを見つけられればいいと思っている。

しかし答えを出す上で、机上の空論ではなく、あくまで現実に即した見方をしてほしかった。

ちなみに
現代医療は人の命を「不平等」に扱う。

先ほどの例で言えば、
医者は子供の方を救うし、重度の障害者に心臓移植がなされることはない。

いや厳密にはそうとは限らない。
社会的な圧力があれば別の結果もありうる。

しかし、いずれにしても
「命」が「命そのもの」ではなく、
「別の尺度」によって秤にかけられているという現実には議論の余地がない。

どんなに医療が発達しても、先ほどの例のように、全ての命を救うことはできない。

全ての命を救うことができないとき、
現代医療は、「ランダムに」ではなく種の繁栄を見据え「合理的に」命を選択する。

人の命を救う医療者が、実は最も命を「不平等」に扱っているというのは何とも皮肉な話だ。

以上で僕の話はおしまいだ。

この記事が皆さんの「人の命」を考える上で、ほんのわずかでも手助けになれば幸いだ。

最後まで読んでくれて本当にどうもありがとう。






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