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『ラッキーストライク』【ショートショート(2000文字)】

『季節性の風邪ですね。お薬出しておきますね〜。』

まあ普通に考えれば、風邪だろう。

それは順当な判断だったと、今になってもそう思う。

いつも通りに、患者へ声をかけて、診察の終わりをやんわりと告げる。

『はい。どうもお世話様でした。』

初診で受け付けたその患者は、山下幸子という、60歳過ぎのおばあちゃんで、熱っぽい顔に屈託のない笑顔を向けて、私に律儀に言った。

なんだかほっこりとした気持ちになった。

おばあちゃんはゆっくりと立ち上がり、意外にも荷物カゴの中に入れていた、ラッキーストライクを回収してから、診察室を出て行った。

問題が起きたのはそれから3日後だった。

受付の事務さんから、

『この間こちらにいらした、山下幸子さんの問診票に書かれた電話番号から、お電話がかかってきました。』

と診察途中の私に声をかけてきた。

忘れ物があったのだろうか、診察室にいた私は荷物カゴに目を遣るが、カゴは綺麗さっぱり空っぽであった。

なんだろうか?

受付事務から電話を受け取る。

『もしもし、お電話変わりました。田中クリニック院長の田中と申します。』

『あ、もしもし。お世話になっております。私、山下幸子の娘の山下明子と申しますが、』

電話先の声色に焦りが感じられる。

『先ほど、お母さんの、この電話の持ち主の私の母親の山下幸子が突然倒れて、救急車で運ばれたのですが、』
 
頬のあたりを、冷たい汗が落ちるのがわかった。

『何か、母に!母に何か変わった様子がありませんでしたか!』

かなり動揺した様子だったので、かえって落ち着くことができた。

全力疾走した直後のように熱くなった体を、一時的に冷静な状態の脳で冷ますように、私は返事をする。

『山下幸子さんのカルテを確認して、後ほど改めて、搬送先の病院に情報を提供させてもらいます。とにかく今は落ち着いて下さい。』

『そ、そうですよね。わ、分かりました。』

電話を切って、震える指で電子カルテを開く。

山下幸子と書かれたカルテをクリックする。

すぐに気がついた。

私は医学部で習う、初歩中の初歩レベルの禁忌の組み合わせで、薬を処方していたのだ。

山下幸子さんがもともと飲んでいた薬と、3日前の診察の際に出した薬が、最悪の組み合わせだった。

そこで診察室のカゴの中の映像が猛烈にフラッシュバックし、荷物カゴに入っていたタバコの箱が脳裏をよぎった。

おそらく、かなりのヘビースモーカーであることも、致命的になったのだろう。

やってしまった。

目の前が真っ白になる。

天地がひっくり返ったような感覚と共に、冷たくなっていく指先と、オーバーヒートした頭が、全く、1ミリも、動かなくなってしまった。

まさか、自分に限ってこんなミスがあるなんて。

信じられなかった。

様子を察した、電話を渡してくれた事務さんが、私に声をかけた。

『先生、とにかく今は搬送先の病院にことの顛末を話すことが先決です。やってしまったことは戻らないので、これ以上に悪くならないように、最善を尽くして下さい。』

もっともだと思った。

私は山下幸子さんの娘、山下明子さんから聞いていた、搬送先の病院へ電話をかけて、事の顛末を説明しようと受話器を取りかけた。

その時。

電話が高らかに鳴った。

その病院からの電話だった。

間違いなく、山下幸子さんの件だろう。

私は死刑台に上がるつもりで、その電話おずおずととった。

『もしもし、田中クリニックの院長、田中でございます。』

震える声を抑えながら、その時を待った。

『あ、もしもし〜!東京都立中央大学附属病院で内科医の鈴木と申しますが〜。』

呑気に陽気な声だった。

『はい。山下幸子さんの件ですね。こちらからお電話しようとしていたところです。山下さんですが、、、』

私が言いかけたとき。

『あ!そうなんです〜!なんかね〜。この方、終末期のがん患者さんなんですけどね〜。今さっき救急で運ばれてきて、いよいよもうダメかあ〜と思ってたんですけど、検査値が軒並み改善してるんですよ〜。』

『はあ。』

『いや、それでねえ〜。山下さんが、目覚ました時に、最近何か変わったことありませんでしたか〜?って聞いたら、そちらの病院にかかった〜っていうんですよお〜。』

『それでカルテを調べてみたら、そちらから薬出されてるじゃないですか〜?これなんですけど、飲み合わせ的に完全にアウトだと思うんですよお〜。しかもこの人タバコ大好きなので、普通ではありえないと思うんですよお〜。』

やはり、それくらいの大きなミスをしてしまったのだと改めて認識した。

『それでね〜。結論から言うと、今回の検査の値が格段に良くなったのは、この飲み合わせによる影響しか考えられないと思うんですよ〜。』

おや?これはもしかして。と思う。

電話口でのセリフが続く、

『それでねえ〜、もしよかったらお願いなんですけども、今度、この症例をもとに論文を書きたいので、先生に協力してもらいたいんですよお〜。』

一気に状況が反転するのを感じた。

『なるほど。事情はわかりました。私で良ければぜひ協力させて頂きます。』

私がそう答えると、電話口での声がさらにもう1段階、明るくなる。

『あ、ほんとですかあ〜!いやあ〜、助かります〜。忙しいのに申し訳ないです〜。ではまた、詳しい日程のすり合わせのメールを送らせてもらいますねえ〜。』

九死に一生を得るとは、今日このときのためにあったのだなあと悟った。

限界まで一度膨らんだことのある、しぼんだ風船のように、項垂れながら肩を撫で下ろす。

すると、電話口から別れの挨拶が聞こえた。

『では、お忙しいところすみませんでしたあ〜。これで失礼します〜。』

『こちらこそです。ご報告ありがとうございました。』

電話を切ろうとしたとき、軽いジョークを飛ばすテンションで尋ねてきた。

『あ〜、一応確認ですが、一般的には禁忌と分かっていて、あえてこの処方を出されたのですよねえ〜?』

私ははっきりと答えた。

『ええ、もちろんです。』


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