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シュタイナーの人間理解からバイオダイナミック農業へ             〜有機農業とは自然なのか、反自然なのか〜

シュタイナーの人間理解からバイオダイナミック農業へ

自分は高校から21歳くらいまで、悶々としていた時期がありました。
置かれている状況に不満があるのだけれど、じゃあ何がしたいのかと言われると正直よくわからない。とりあえず、音楽にそんなやるせない思いをぶつけていたように思えます。
そんなトンネルを進んでいたような時代、シュタイナーの人間観察で見ていくとその悶々としていた理由がわかりました。

定番になっている11月の竹下哲生のバイオダイナミック農業講座が終わったと思いきや、11月2回目の竹下先生の講座を開催しました。
人間理解ということで、人間の成長とともに発達する、
肉体、エーテル、アストラル、自我についての講義が中心でした。

自我はなんとなく見慣れている言葉ですが、エーテル、アストラルが出てくると正直えっ・・・、と引いしまう自分がいます。目には見えない分野なので、怪しいし実感できないし難しそう、という勝手な思い込みも。

しかし日本人にとって、このエーテル、アストラルは身近なものだと感じました。むしろ日本人こそ、この要素に強く感じていると思います。
それは、普段何気なく使っている言葉を改めて考えてみて、納得に至りました。

「言葉に気持ちが入っていない」
を込めて作りました。」
なんてフレーズは日常でよく使いますね。この状況を想像してみてください。
この気持ち・心というのは、果たしてなんだしょうか?目に見える訳ではないけれど、実感できるものがあると思います。

夫婦喧嘩をした次の朝の「おはよう」なんて、「おはよう」という4文字以上の「何か」が込められています。

この気持ち・心というのがアストラルに相当するようです。
エレメントは「風」です。(なるほど、だから鳥なのかな?)

僕は小さい頃、自転車に補助輪を付けて乗っていました。小学校に入る前に、補助輪を外して乗ってみようと試しましたが、一人で走ることが難しく、父に押さえてもらいながらもたどたどしく進んでは止まり、進んでは止まり、時には転倒し・・・、そんなことを繰り返すうちに、誰かに支えてもらわなくても一人でなんとかこげるようになりました。そして小学生の頃には、友だちとレースをする程、一人でスイスイ乗れる様になりました。
長い間自転車には乗っていませんが、乗ろうと思えば今でも誰かに支えてもらう必要はなく、簡単に乗ることができますし、考え事をしながら、音楽を聴きながらでも乗ることができます。

この場合「自転車の運転がについた」と言うことができるでしょう。

この場合のとはなんでしょうか?

である様にも思えますが、もっと違う何かのような・・・。
それはに相当するそうです。
「元気」「気になる」「気を揉む」とかよく使う言葉ですね。

何かを身につけようとすると、始めはひとつひとつ考えながらやっているせいか、とても疲れるのですが、繰り返し繰り返し続けることでいつの間にか考えなくても出来るようになります。
体が勝手に動いている、と表現してもいいぐらいで別のことを考えながらでも一連の動作をすることができる状態です。
「習慣」ともいえますね。

このような気・習慣と言えるものがエーテルに相当するそうです。
エレメントは「水」です。

武道では「心・技・体」という表現があります。
それがそのまま「アストラル・エーテル・肉体」となります。

アストラル=心、エーテル=気・身と言われると少し近づけるような気がします。

基本的に植物はエーテル体までしか持っていないということですが、農業講座では、なぜかアストラルや自我まで出てくる始末です。どういうことだ?
この話は竹下農業講座では、さらっと過ぎてしまったトピックスですが、今回はそのことについてどっぷり講義があり自分にとってバイオダイナミック農業講座番外編と言ってもいいぐらいでした。

人間の成長とともに発達していく、肉体、エーテル、アストラル、自我

  0歳-----7歳 -----14歳 -----21歳
         肉体---エーテル体---アストラル体---自我

こんな感じで、だいたい7年ごとに順を追って発達していくようです。
 
0歳〜7歳までは肉体が発達していきます。うちの息子たちには、おもいっきり体を使った遊びをさせるようにしています。歩くことが重要なので、保育園にも出来る限り歩いて行っています。
知識からは遠ざけるようにしていて、小学校に入るまで文字も教えていません。

早期教育は、体の成長にエネルギーを使うことを邪魔してしまいます。

14歳から21歳は、自我が芽生えていない状態で、アストラルという心が発達してくる期間。思春期に不安定なのは、心が発達している最中だから。しかし自我がまだ芽生えていません。
なので、冒頭の僕のように悶々とした時期になるんでしょうね。

有機農業とは自然か、反自然か。

先日、バイオダイナミック農業指導員であるジャンの講義の中で、
「植物は動物を求めている」と言っていました。

ここで疑問が沸いてきます。
では動物が畑に、いない場合はどうなるんだろう?

その場合は、動物達から畑にやってくるそうです。
うちの畑ではモグラや鹿がやってきて、放っとけない程の被害があるのですが、それとも関係がないとは言えない気がします。

シュタイナー農業講座には、木と鳥たちとの関係について書かれています。
鳥が来ることで、木が吸収したアストラルを調整し良い影響を与えているようです。
なので農園の中にも、鳥たちが活動できる環境が必要だということで、バイオダイナミックでは鳥たちがやってくるように、林を残すようにと助言しています。

そのように鳥たちを大切にするコーヒーもあります。
鳥を指標に、コーヒー園の生態系を維持して行くというのがコンセプトだと思いますが、人間の考えてる以上に、森にとって鳥たちはかけがえのない存在のようです。

では野菜はどうなんだろう?

それには虫たちが関わっているようです。
僕が目指している、虫や微生物、菌類がたくさん住んでいる多様性に溢れた畑とも合致します。

虫たちは人知れず野菜たちと交流し、良い影響を与えているようです。
そんな虫たちを害虫として全て駆除してしまうと、バランスをとるためにさらに虫たちがやってくるようになり、それらをまた駆除して・・・
と、そんな悪循環に陥っているというのが現代農業じゃないでしょうか。

シュタイナーは同じ畑で何回も作物を育てることで、「空気の力が弱くなる」と言っています。空気とはアストラルと関係があり、アストラルはN(チッソ)と強く関わっています。
虫たちは植物がチッソとうまく関われる、調整役を担っていて、この弱くなってしまった空気にも良い影響を与えられるのではと期待しています。
つまり、連作障害を虫によって無視できるかも。なんて。

さて、妻が気に入っているフレーズなのですが、
「堆肥の中には自我が宿っている」
そうです。

プレパラートと呼ばれるオーガニックな調整材を畑に散布することで、大地が「感受性も持つ」と表現されています。
そのように農業者が畑と関わることで、畑というものは自然集合体から離れて、自然の中で一つの生命体ともいえる状態になっていくように想像出来ます。

そこには、農業者の明確な意志と働きに強く影響を受けると感じます。
(そういう意味でも、僕は農業を反自然的な活動だと捉えています。)

そんな農園で育てられた作物は、人間にとってとても素晴しいものになるとシュタイナーは言っているので、ぜひそれを体験してみたいという興味が、バイオダイナミックに取り組む僕のモチベーションになっています。

さて自我とはなんだろうか?
これが現代人のテーマではなかろうか。


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