「自分」をからっぽにすることで、「自分」が表現されるという矛盾。
「道常無為、而無不為」
-道は常に為(な)す無くして、而(しか)も為さざるは無し。-
老子 第三十七章
最近、縄文巡りをしています。
その中で八ヶ岳美術館での津田直写真展「湖の目と山の皿」に行ってきました。縄文遺物が美術館に収蔵されていましたが、美術館ということで博物館に比べて少ないのかなと思いきや、中々の数で見応えありました。
(息子は、この模様は魚みたいだと言っていて、確かに海に住むものに見えなくもない)
そして写真家、津田さんのトークショーがとても熱かった。
津田さんはフィールドワークとして、全国津々浦々の縄文遺跡を周っていて、始めてから10年になるそうです。その様子は雑誌にも投稿されており、美術館でパネル展示もされていました。
トークショーでは写真家として撮影する時の仕事の流儀のお話がありました。
何かを撮影するとき、その被写体が見ているであろう風景を、被写体の位置に立ってまず自分が見たり感じてみるそうです。
木を撮影する時には、その木が見ているであろう風景を、その木の視線で見渡し、そうすると撮影するべき場所が見えてくるそうです。そして、そこから被写体である木を撮影する。
そして撮影する時には、「カメラを消すこと」を目指すんだとか。
当然、始めは何を言っているのか分からなかったのですが、どうやら「自分」というものを消してしまうらしい。
被写体が見ている世界を、消えている撮影者が撮影している。
それは、夢中になるということなのかな?
でもなぜか腑に落ちてくる。
ルイ・アームストロングのトランペットって、知らない曲を聴いた時でも、あー彼の「音」だなってわかる。同じようにビル・エヴァンスのピアノも。
同じ楽器なのに演奏者によって、その音色に「彼」らしさを感じることが出来るから。
彼らも同じように、演奏中は自分が消えているのかなぁって、ふと感じた。
「自分」はすごいモノを作りたい!とか、自己主張があるうちは本当の「自分」らしいものって出て来ないのかもしれない。
ニュートラルな状態になってこそ、「自分」らしさが滲みでてくるのだろう。
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