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たられば協奏曲

あああああああ、思い出せない。

「こうだったら」と過去を振り返る言葉が思い出せなかった。

「カモシカ」みたいな用語だったような。検索しても分からなくて、息子福山や娘に聞けど、わからなくって、

で、子供たちに質問をしていたらひらめいた。

その言葉は、「たられば」であった。

ということで、本日のタイトルは、「たられば協奏曲」となりました。

よくあるんですよ。こんな出来事。

小さい頃からの癖で、大幅な情報量の中から、興味を持った事柄を頭の中の小さな引き出しに次々入れてって、いざという時に、生半可な記憶だから、頓珍漢なことを言って、笑われるパターン。

ネットが登場して、確認してから、発言できるので、だいぶネット様には、フォローをしていただいています。

さて、本日のテーマは、進学です。

実は、アジフライ、中学の同級生に、「社会の先生になる。」などと公言をしておりました。

しかしながら、高校に上がった際に、母親に言われたのは、大学進学は、国立しか認めないという発言でした。

国立というと、横国?東大?そんな情報しかない高校生でした。今思うと、選択肢は、もっと沢山あったのですが。

だから、大学進学は無いだろうと、予備校にも通わず、高校生活を謳歌した訳なんですけど。

3年の文理選択で、理系を選択したし、もうその頃には、「社会の先生になる。」という希望も消えてなくなっていました。

進路を相談する大人がいなかったんですね。

叔母には、青山に行けば?などと言われていたのですが、大学に行って何を学ぶんだろうか、さっぱり意味不明な状態でした。

進路を決める段階で、母親からは、「2年だけ時間をあげる」と言われるのみ。

短大の推薦もあったんですけど、結局、服飾の専門学校に進学しました。

服飾の専門学校を卒業しているおかげで、闘病生活の中でのリハビリでは、多いに役に立った訳なんですけど。

中学や高校の授業を受けていて為になったのは、教師たちの余談でした。人生の糧になりました。大学教授の余談も聞きたかったな。

ボキャブラリーの貧困さも鑑みると、大学に進学すれば良かったと後悔したものです。

今人生を振り返りますと、芸術などのふんわりしたつかみどころのない感覚のものではなく、理系のような答えがはっきりしているようなものの考え方の方が安心して、心が安定すると感じています。

でも、WEB制作には、理系と美術系の知識の両方が役に立ちましたし、まあ、人生無駄な事はないんだとは感じましたけど。

人生いつ終わるかわかりませんけど、運が良ければあと30年。

勉強を継続して、何か足跡が残せればいいなと考えています。


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