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父親は、永遠ではない

先週の木曜日から今週の日曜日まで、実家に4日間滞在した訳であるが、結構な割合で、2階で過ごすことが多かった。

父親は、80も後半の年齢である。

母親よりも父親の方が近しい関係なのであるが。

父親は、人生の中でのお手本であった。

コツコツと物事に取り組むのも、父親譲りである。

4年前、父親がエコノミークラス症候群で、夜中に緊急搬送されて、生死を彷徨った時から、末期癌で母親が亡くなるまでは、たったの4ヶ月であった。

その間、平日は、週3日のパートをこなし、週半分は、実家暮らし、週半分は、自宅で過ごし、週1日は、ヘルパーさんと、自宅の運営を行なっていた。

1階の日本間に、両親の介護ベットが2台入った時は、本当に、絶望感しかなかった。

クルクルと目まぐるしい毎日で、7kgぐらい体重が減った。

小さい頃から、両親の面倒を見ると育てられたから、いざ、鎌倉だったのである。

母親が他界をし、父親が再び入院して、足しげく病院に通っていた時に、心臓発作を初めて起こしたのである。

父親が退院をし、実家に戻ってきた時に、このままの生活はできない。

子供の頃から、刷り込まれてきた責任感が邪魔をして、父親の言葉が私を苦しめる。父親は高い要求をしていたわけでは無いのに。

自分が出来ないことへの後ろめたさから、父親の私に対する優しさが痛かったのである。

母親の新盆を境に、実家に足を運ぶのは、1ヶ月に1回だけと決めた。

父親は、本心では、一人暮らしを恐々過ごしているらしい。

一人暮らしをさせている私も恐々であるが、見ないようにしている自分を自覚している。

もう先は短いんだからと、父親にマメに接しなければいけない気もするのであるが、再び、重圧で潰れるのも嫌なのである。

介護は、やってもやっても後悔が先立つような気がする。

だから、逆に父親との距離を守っている。

いざという時に、動けるように体力を温存しているんだという建前のもと、

滞在、3日目、母親の遺品整理をしていたら、母親の部屋で、ゴムがたくさん出てきた。

「ゴムいる?」と父親に問うと、「ちょうど欲しかったんだ。」とのたまう。

遺品整理の合間、合間で1階に降りていくと、介護ベットに座って、父親が自分で、股引きのゴムの入れ替えをしていた。

「ごめんなさいね。気が利かなくて。」と言うと、笑ってた。

父親は、自分で、米やお茶を注文して、自分で、ご飯を炊き、自分で皿洗いをする。

母親の遺品整理をして出た大量の領収書類が45lのゴミ袋いっぱいになった。

それを4日目の日曜日に、父親は、コツコツと、先日、購入したシュレッダーで刻んでいく。

父親、本当に立派である。

まだ、立派な父親に甘えていていいかな?

父親は、一人暮らしをこなしているが、私は、自分が今できる事を精一杯する事と決めた。

私が犠牲になって、父親に尽くしても父親は喜ばないような気がする。

父親が、一人暮らしができなくなるまで、私は、私の道を行く。


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