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単調さとは耐えるものではなく…

ランナーというのは、「走る」というひたすら単調な動きを繰り返す人たち。

その単調さに「耐える」というのは恐らく多くのランナーがやっていることかもしれない。

走ることで、これまで二万キロあまり旅を続けてきた私流に言わせれば、「耐える」と辛くなるから、楽しみながら「受け入れる」のがいいんだと思う。

山を登る人(=クライマー)も、自転車を駆る人(=サイクリスト)も、長い距離を長い時間移動するなら、同じことを延々とやり続けなくてはならない…まあ当然のことではあるのだけれど。

2011年のアメリカ横断ではロッキー山脈越えでは峠を目指して登り続けたし、2013年のオーストラリア横断では、1200キロ砂漠の平原が続くナラボー平原を走破。

アメリカカリフォルニア州モハヴェ砂漠やユタ州モニュメントバレー、カンザス州の平原では単調さに暑さと乾きが加わった。

気温40度を超える日も1日や2日ではない。経験した最高気温は48度近く。40度を超えたら45度も50度も恐らくさほど変わらないのだろう。

そうなるともう単調さも感じられなくなるもの。

砂漠や平原では街にたどり着くまではひたすら同じ風景を見ながら走り続けなければならない。

究極の単調さを楽しみたければ、砂漠や平原を走ることをおすすめする。

一日走っても一週間走っても変わらぬ風景…まるでスポーツクラブのトレッドミルの上にいるかのような気分…まだ周りに人がいれば気休めにもなるが周りには人もいない。

単調さだけではない。砂漠では限られた水と食料を運搬しながら走るので、飢えや乾きとも共存することにもなりうる。

過去に、ウルトラマラソンのトレーニングとして、梅雨時期の雨の日に、住んでいたマンションの部屋でその場駆け足6時間走というのをやったことがある。こうなるともう座禅に近い感覚。走り終わった後、走り酔いみたいな気分で平衡感覚がおかしくなりフラフラになっていた。

繰り返すけれど、「耐える」という気持ちになった時点で、それが辛いものだということを頭が認識するから、辛いと思わずにまずは楽しいものとして「受け入れる」ということ。

このメンタルの切り換えでいろんな風に世界観が変わる。

頭から決めつけてかかることが実は大きなメリットを生み出すし、デメリットも当然生み出すもの。

否定的ではなく、肯定的に考える。簡単なようで難しい。でも、普段の気持ちのあり方・意識の持ち方でそれは何とでもなる。

ふだん、職場での人間関係も…

「あの人は○○だから…」

という風にレッテルを貼っていると、固定イメージを払拭することが難しくなる。

いい風に捉えられているのならまだしも、悪いイメージとして捉えられなければいいのだけれど。

歳とともに偏屈で偏狭で頭の硬い人間になりがちだけれど、柔軟なものの見方・考え方を持っていたい。

透明な風のように、何ものにも染まらない(=影響を受けない)人でありたいものだ。

単調さとは、結局のところ、全体像でしか見ていない場合に感じられるものだと思う。

毎日単調な日々…と退屈している人は、1日を24時間の塊で見ているだろうし、7日もある1週間をもひとつのスパンで捉えてしまっている人かもしれない。

よく見れば、よく考えれば、微妙な変化がきっとあるはずなのに、見過ごしていたり見逃していたりするのだろう。

そして、「耐える」ことをせずに楽しんで「受け入れる」ようになれば、こういった微妙な変化や物事の移り変わりに気づくようになる。

いいことやいい人を引き寄せるというのはこういう時に現れるもの。

繰り返そう。

単調さとは「耐える」ものではなく、快く、心地よく「受け入れる」もの。


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