仕事を辞める話①──理屈と膏薬はどこにでも付く

(この記事は以前Twitterでぶちまけたことを大幅に加筆・修正したものです)

自由への切符を手に入れた。「退職届」と書いて「自由への切符」とルビを振る。そう、仕事を辞める。公立高校の教員でいるのも再来月で終わり。よく3年間も頑張った。

どうして辞めるんだ?──当然、管理職はそう言う。しかし、そう聞かれると言葉に窮する。そもそも人間の行動に理由なんてあるのか?「○○をしたい」という感情が先にあって、後出しで理由を付けるのが人間の常なのではないか。自分や周囲の人間が納得できるような理由を、あたかもそちらが先にあったかのように。理屈と膏薬はどこにでも付くのである。

後出しの理由でいいのなら、端的に言うと時間外労働が多すぎるから(だとおもう)。家で仕事をしている時間を含めると、月に100時間くらい時間外労働をしていることになる。私に限らず、多くの教員がそのような生活をしているとおもう。しかし、残業代は基本給の4パーセントしか支給されない。針の筵とはまさにこのことである。このことは「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」という法律によって定められていて、余計に始末が悪い。誰かをぶん殴れば状況が変わるというわけではないのだ。これではまるで、20代という貴重な時間の安い切り売りである。他にも交通費を年に50000円程度だが自腹を切っていることなど、職場への不平は枚挙に暇がない。

「法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない」──おや、誰の寝言かとおもったが、教育基本法第9条だ。崇高な使命を深く自覚して処遇を改善してくれ。
 
それでもたったの3年間だが仕事を続けて来られたのは、生徒の存在が大きい。生徒に与え、生徒から与えられて、メビウスの輪みたいに循環しながらこれまで働いてくることができた。「やりがい」である。しかし、冷たいとおもわれるかもしれないが、仕事は労働力と給与のギブアンドテイクだけで完結するべきである、というのが私の考え方だ。やりがいというのは、それとは別に個人が感じることである。やりがいを報酬の一部と考えるから、不本意な搾取構造に巻き込まれる。

もちろん、仕事には多少の苦しいことは付き物だ。だからこそ給与が与えられる。しかし、教員の残業をハナから当てにした量の仕事が学校現場には山積している。教員はサブスクリプションでもなければ、スーパーの詰め放題でもない。人権を持った人間である。

私が退職することを知っているのはまだ一部の人間だけである。しかし、このことが広く職員室に知られるようになったら、無責任だと私を責める人がおそらく出てくるとおもう。いやいや、私の背中に無茶な量の仕事を積み上げておいて、無責任なのはどっちなんだろうか。この若者を食い潰したのは一体、誰なんだろうか。

当然、校長をはじめ、私を慰留してくれた人もいる(ありがたいことでも、迷惑なことでもある)。しかし、「仕事を続けたほうがいい」ということは仕事を続けている人の口から語られる。逆もまた然り。この大転職時代、積極的な転職を勧めるメッセージが至るところに溢れている。「転職をしたほうがいい」ということは転職をして成功した人の口から語られる。生存者バイアスというものだ(多分)。残念だが、死人に口はない。

よー、そこの若いの
俺の言うことをきいてくれ
「俺を含め、誰の言うことも聞くなよ。」

竹原ピストルの「よー、そこの若いの」だ。この歌詞を初めて聞いたとき、単純に「とんがれ!反骨精神を持て!」という曲だとおもった。しかし、今は「自分の行動とその結果に責任を持つのは自分だ」というメッセージに聞こえる。

ところで、前回の記事において、便を内に秘めたること(=便秘)を告白した。しかし、あの後すぐに下痢気味になってしまった。まるで雪解け水を運ぶ春の清流のようであった。早く春にならないかなあ。おわり。

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