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広島原爆の実相を描いた作家・大田洋子の生涯

はじめに

 太平洋戦争末期の1945年8月6日、人類史上はじめてとなる原子爆弾が、広島市に投下されました。中国地方の中心都市であった広島は一瞬のうちに壊滅。生き残った被爆者たちも、大量の放射線を浴びたことによる後遺症に長く苦しめられることになりました。原爆による死者数は、約20万人にのぼるとされています。

 原爆投下の瞬間、たまたま広島に居合わせた二人の作家がいました。そのうちの一人が、のちに「夏の花」などの作品を書き残すことになる原民喜。そしてもう一人が、「屍の街」などの作品で知られる作家・大田洋子です。彼らは原爆被害の惨状を目撃した作家として、原爆という題材に取り組むことになります。

 このうち、原民喜については、現在も評伝が刊行されたり、作品集の刊行が相次ぐなど、再評価が進む一方となっています。他方、大田洋子については、今日ほとんど顧みられていないように思えます。実際には、原民喜と同じかそれ以上に、原爆を題材にした作品を書き残しているのにも関わらず、です。

 そこで本記事では、作家・大田洋子の生涯をご紹介したいと思います。

(※本文中に原爆投下直後の描写が含まれています)

1.生い立ちと被爆体験

 1903年、大田洋子は広島県に生まれました。
 高等女学校卒業後、教員やタイピストとして勤務するかたわら、1929年に「聖母のゐる黄昏」で文壇デビューを果たします。自身の恋愛体験を描いた『流離の岸』によって、作家としての地位を確立。複数の著書を刊行し、自作が映画化されるなど、戦前にはすでに名を知られた存在でした。

 1945年1月、戦況の悪化にともない、それまで住んでいた東京を離れ、広島に疎開。広島市白島九軒町にあった妹の家に、母親と共に寄寓していました。そして、その日を迎えることになります。

 1945年8月6日。
 その日の朝、彼女は家の二階で寝ていました。前日の夜、近隣の都市で大規模な空襲があり、広島も空襲を受ける恐れがあったため、避難に備えて一睡もできず、朝になってから仮眠をとっていたのでした。

 午前8時15分、そのとき彼女は、「緑青色の海の底みたいな光線」(「海底のような光」)が流れる夢を見ます。その直後、雷鳴のような轟音が鳴り響き、気づいたときには部屋の隅でぼんやりとたたずんでいました。一瞬、焼夷弾の爆撃を受けたのかと思いましたが、その割には炎も煙も見えないのです。壊れた窓からは、見渡す限り破壊された家々の残骸が見えました。あたりは恐ろしく静かでした。それもそのはずです、その瞬間、爆心地では何万人という人たちが即死していたのですから。

 一階にいて無事だった母と妹、そして妹の幼い赤ん坊と共に、近くの河原に避難します。そこで彼女は、恐ろしい光景を目撃することになります。

 広い河原の砂洲を、避難者たちが埋め尽くしていました。彼らの上衣はぼろぼろに破れており、皮膚の表皮が垂れ下がり、顔も腕も赤くただれていました。彼らは皆一様に水をほしがるのですが、やがて押し黙ったまま次々と倒れていきます。そうして河原には、死体の山が築かれていきました。

 後になって判明したことですが、爆発の瞬間、太陽の6000倍ともいわれる熱線が地表に降り注いだと言います。市内のあちこちで火災が発生し、やがて大粒の黒い雨が降り始めました。生き残った人々は、無言でその様を眺めているばかりでした。

 その日の夜、彼女のそばで15、6歳の少年が、ほとんど裸の姿で横になっていました。聞けば、崇徳中学の生徒で、勤労奉仕中に熱線を浴び、気づいたら衣服がぼろぼろになっていたと言います。夏の盛りであるのに、寒い、寒いと言いながら震えていた少年は、朝になると冷たくなっていました。

 妹と一緒に、市内にある焼け残った病院に向かった時のこと。道の両脇には、大量の死体が転がっていました。死体は皆一様に病院の方へ頭を向けていました。彼らは病院を目指しながらも、たどり着くことなく途中で息絶えた人たちだったのです。
 そんな死体たちを、彼女は泣きながら心に書き留めます。すると、かたわらにいた妹に、次のようなことを言われます。

「お姉さんはよくごらんになれるわね。私は立ちどまって死骸を見たりはできませんわ。」
 妹は私をとがめる様子であった。私は答えた。
「人間の眼と作家の眼とふたつの眼で見ているの。」
「書けますか、こんなこと。」
「いつかは書かなくてはならないね。これを見た作家の責任だもの。」

(「屍の街」)

 この頃から、生き延びた作家としての覚悟を決めていたのでしょう。この時に見た被爆地の惨状は、のちの作品に描かれることになります。

 瓦礫と死臭にまみれた市内で3日間を過ごした後、彼女たち一家は近郊の農村に避難します。
 そして8月15日に終戦を迎え、その5日後、すなわち8月20日頃から、周囲で奇妙な出来事が起き始めます。

 嘔吐、下痢、発熱、血便、出血、そして白血球の急激な減少など――。あの日、市内にいながら軽傷で済み、生き延びたはずの人々に突然、このような症状が表れ始めたのです。彼らは、髪の毛がごっそり抜けたり、皮膚に斑点が表れるなどして、間もなく死んでいきました。原爆の恐ろしさは、戦争が終わってもなお、戦争のために死んでいくことにあるのです。

 そして、大田洋子もまた、軽傷で済んだ被爆者の一人でした。自分もいつか倒れるかもしれない――。そう思った彼女は、自らの被爆体験を書き急ぎます。着の身着のままで村に逃げてきた彼女には、一枚の紙や一本の鉛筆すらありませんでした。そこで彼女は、「寄寓先の家や、村の知人に障子からはがした、茶色に煤けた障子紙や、ちり紙や、二三本の鉛筆などをもらい」(「『屍の街』序」)、作品を書き続けました。
 そうして書き上げたのが、長篇ルポルタージュ『屍の街』でした。


2.戦後の創作活動

『屍の街』を発表するなど、本格的に創作活動を再開した大田洋子。けれども、その道のりは決して順風満帆なものとは言えませんでした。

 1951年、長篇小説『人間襤褸』を完成させます。しかし執筆にあたっては、自らの被爆体験と向き合わなければならず、その記憶が彼女を苦しめることになります。同年、東大病院精神科に入院し、不安神経症の治療を受けます。おそらく、現代でいうところのPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症していたのではないかと考えられます。

 東大病院での治療を経て、1953年には被爆地・広島の現状を取り上げた『夕凪の街と人と』を発表します。他にも、「半人間」「残醜点々」等の短篇によって、原爆に翻弄される人々を描きました。

 しかし、そのような作品を発表しても、文壇からの反応は冷たいものでした。一部の批評家からは、「原爆はすでに終わったことだ」「原爆を売り物にしている」といった批判が寄せられたのです。

 このような心無い批判の背景には、占領下におけるプレスコードの存在が関係していたように思えます。終戦直後の日本では、占領軍によるプレスコードが敷かれ、原爆に関する報道が厳しく制限されていました。実際、1948年に刊行された『屍の街』もまた、検閲のために一部箇所の削除を余儀なくされています。完全版が刊行されたのは、1950年になってからのことです。このように、戦後間もない頃の日本では、原爆被害の実態がそこまで周知されてはいませんでした。しかし実際には、白血病によって12歳の若さでこの世を去った、「原爆の子の像」のモデル・佐々木禎子のように、戦後になっても後遺症に苦しむ被爆者が後を絶たなかったのです。

 加えて、地方都市である広島と長崎に原爆が投下されたことも、そのような風潮の一因となったように思えます。もし原爆が、国内の他の大都市に投下されていたとしたら、もっと多くの作家がこの問題を取り上げていたことでしょう。けれども、東京からはるかに離れた広島と長崎という地方都市に投下されたために、その場に居合わせた文学者の数がごく少数に限られていたのです。

 1951年には、同じ広島原爆の被爆者であった原民喜が鉄道自殺を遂げます。その2年後、『原爆詩集』で知られる被爆詩人・峠三吉が手術中に急逝。竹西寛子や林京子らが自らの被爆体験を書き始めるのは、さらに後になってからのことです。この当時、被爆体験を身をもって語れる作家は、実質的に大田洋子しかいなかったのです。唯一の被爆作家として作品を書き続けなければならなかった彼女が、「原爆を売り物にしている」という批判を受けて、どれほど傷ついたかは容易に想像がつくでしょう。

 のちに彼女は、次のように記しています。

原民喜氏が生きていてくれて、彼の書き方で書き、峠三吉がもっと健康で充分に詩を書き、「原爆の子」の子等が大きくなって、教師の要請がなくても次々と大きな作品を書いてくれるならば、私はどんなに心が安まることでしょうか。私は私ひとりが書かなくてはならないのを、どんなにつらく思っているか知れません。

(「作家の態度」)

 彼女は孤軍奮闘を続けました。作家としての責任を果たさなければならないという重圧、不安神経症との闘い、原爆後遺症の恐怖、文壇における無理解――。一時は、「戦後七年間、拷問されている思いです。自殺か逃避か、いい作品を書いて生きるか、三つのなかの一つだと、戦後はずっとそう思っていました」(「半人間」)と書くまでに、彼女は追い詰められていきました。


3.転機

 そんななか、転機となる出来事が起こります。
 1954年、ビキニ環礁でアメリカの水爆実験が行われ、放射性降下物である「死の灰」が周辺の海域に降り注ぎました。当時、近くで操業していた焼津の漁船・第五福竜丸が被曝し、船長の久保山愛吉が死亡するという事件が起きます。遠く離れた日本でも放射性物質を含む降雨が観測され、社会問題となりました。東京にも「死の灰」が降るかもしれない――という言説が、にわかに囁かれるようになったのもこの頃です。

 そんな風潮のなか、大田洋子は「ざまを見ろ」(「半放浪」)という強烈な言葉を吐きます。一見不謹慎ともとれるその言葉は、彼女の本心でもありました。戦後10年近く経ってもなお、後遺症に苦しむ被爆者の存在を置き去りにして、経済成長に邁進し、今頃になって慌てふためいている日本社会――。そんな社会に、「否」を突き付けたのです。

 そして、彼女は旅に出ました。伊豆半島を放浪し、やがて下田に落ち着きます。後年には東京に居を構え、亡くなる直前まで住み続けました。

「原子爆弾の小説を一生書きつづける作家が、日本に一人くらいいてもいい」(「作家の態度」)と一度は書いた大田洋子。けれどもそれは、くじけそうになる自身への励ましの言葉だったように思えます。やがて彼女は、原爆を扱った作品を書かなくなっていきました。

 それでも、折に触れては原爆に関するエッセイを発表し続けました。1958年に発表された、「行進」もその一つ。この年、原水爆禁止運動の高まりを受けて、広島―東京間で平和大行進が行われました。この行進について、次のように記しています。

 けれども広島の被爆者の一人である私には、もう一つ別の行進が見えるのである。この行進に加わろうとして加われなかった人も歩いているという、そのことである。何十万の血にぬれた亡霊が歩いている。全身を焼かれた男女が歩いて来る。顔や手足の裂けた子供が歩いて来ている。それを目撃したたくさんの人間が参加している。遺された肉身の群が歩いて来る。それが幻影として歩いている。
 これが今度の行進の実態である。

(「行進――死者の魂への共感――」)

 1963年、取材のために訪れていた温泉で、彼女は心臓麻痺によって急逝します。多くの広島市民と同じく、原爆に翻弄された半生を送りましたが、原爆被害という困難な問題に立ち向かおうとした、立派な生涯であったと思います。

 本記事によって、一人でも多くの方が大田洋子の作品を手に取ることを願っています。


読書案内

 残念ながら、今日、大田洋子の著書はそのほとんどが絶版となっています。現在でも新刊書店等で入手可能な著書としては、次のものがあります。

『セレクション戦争と文学1 ヒロシマ・ナガサキ』(集英社文庫)
 2011年に集英社より刊行された、『コレクション 戦争×文学 19 ヒロシマ・ナガサキ』を改題・文庫化したもの。広島および長崎原爆を題材にした文学作品のアンソロジーです。「屍の街」全編が収録されています。

『新版 屍の街 他11編:大田洋子原爆作品集』(小島遊書房)
 2020年に刊行された、『屍の街:大田洋子 原爆作品集』の新版として刊行されたもの。「屍の街」および「ほたる」「半人間」「残醜点々」等の短篇を収録しています。

『屍の街・半人間』(講談社文芸文庫)※電子書籍版
「屍の街」および「半人間」を収録。残念ながら紙の本は品切れとなっているようですが、電子書籍版が今でも配信されています。

 他の著書としては、前述の『屍の街:大田洋子原爆作品集』の続刊である、『人間襤褸/夕凪の街と人と:大田洋子原爆作品集』(小島遊書房)は今でも入手可能かもしれません。『人間襤褸』『夕凪の街と人と』および諸エッセイを収録しています。

 アンソロジー本では、『百年文庫 85 紅』(ポプラ社)に「残醜点々」が、『大人になるまでに読みたい15歳のエッセイ3』(ゆまに書房)に「十五年たったというけれど」が収録されています。

 現在絶版となっている著書についても触れておきます。
『大田洋子集』全4巻(三一書房/日本図書センター)は、大田洋子の選集です。1982年に三一書房より刊行され、2001年には、復刻版が日本図書センターより刊行されました。本集の構成は、第1巻に「屍の街」とその他の短篇、第2巻に「人間襤褸」と諸エッセイ、第3巻に「夕凪の街と人と」と3つの短篇、第4巻に「流離の岸」などの戦前の作品を収めています。大田洋子の代表作を集成したものとしては、この『大田洋子集』が唯一のものとなります。

 また、1983年に刊行された『日本の原爆文学 2 大田洋子』(ほるぷ出版)には、「屍の街」全編と『大田洋子集』に収められなかった短篇やエッセイ、そして作家や批評家たちによる大田洋子論を収録しています。その他、『日本の原爆文学 15 評論/エッセイ』(同)にもエッセイが収録されています。
 なお、大田洋子の評伝としては、『草饐 評伝大田洋子』(江刺昭子著、大月書店、1981年)があります。

 ちなみに、前述の『大田洋子集』はあくまでも代表作のみを収めた「選集」であり、『大田洋子全集』ではありません。大田洋子には、雑誌や新聞に発表されたまま、今日まで書籍化されていない作品が多数残されていることを付け加えておきます。


〈参考文献〉
大田洋子「屍の街」、『大田洋子集』第1巻、三一書房、1982年。
――――「半人間」、同上。
――――「海底のような光――原子爆弾の空襲に遭って――」、『大田洋子集』第2巻、三一書房、1982年。
――――「一九四五年の夏」、同上。
――――「『屍の街』序」、同上。
――――「作家の態度」、同上。
――――「行進――死者の魂への共感――」、同上。
――――「半放浪」、『大田洋子集』第3巻、三一書房、1982年。
――――「原子爆弾抄」、『作家の自伝38 大田洋子』、日本図書センター、1995年。


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