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この研究やる意味あんのかなって思う時 20200901

私は研究者になりたいわけでもないし、なんか自分で事業起こしたいわけでもないんだって思うんだけど、

私の研究分野がある種歪んだままケーススタディが進んでいってしまっているような部分がある。ある概念が、その定義をとしてはっきりしてないまま、ケーススタディでどんどん拾って行って、その概念・言葉とくっついたケーススタディの事例がどんどん増える。「それもその種類に入るの???」っていうのもあるし、よく考えたら、「それって同類なんだっけ?」となる。でもそんな風に「あれ?」って思っている間に、どんんどんどんどん、増えていく。

そして、大体私の研究分野の研究者は実務者が多いので、それでコンサルティングで町に入り、ある種の実績を作り、そしてまたその言葉・概念の事例がどんどこ増える。

私のやっていることは、燃え広がっている炎をバケツで1人で消していこうとしているような、虚無感がある。だってみんなはそれを燃やしたいし、それでも得ることによって満足している人もいるし、すでにそれでうまく行っている人もいる、町もある(ように見える)。だから火の出所がどこかかなんて究極どうでも良くって、勝手に燃え広がってしまう。

それって多分私の分野のあるあるなのかもしれないけれど。都市計画・まちづくりって、純粋な研究・論文て言うよりは、実務肌の人が多いような。

私は、それで燃え広がる炎の波に乗って、自分も炎を燃やしたいと思えなくて、だって火の出所がなんかおかしい、って思ってしまったら、それに乗りたくないよね。

火の元を正そう、と思う人なんて居ないし、そんなことしている合間にどんどん実務で実績作れば、その方が社会の役に立つんじゃない?なんていう人もいる。

だけど私は、それもできない。

かといって、1人でこの火の根本を辿って、突き止めて、消すか、別の狼煙を上げることも、途方もないような気持ちになって、疲れて、何から手をつけようか、ぐったりする。

実際1人で研究している。だからしんどい。同じ舞台で一緒にやってくれる人がいない、相談に乗ってくれる人がいない寂しさ。

自分の研究成果にならなくてもいいから、一緒にやってくれて、その人のサポートをするために資料集めできたら、って思えたらいいのかな。

もう1人、自分の研究人格が欲しい。

途方もない課題を眺めるだけで絶望する。だから、どこの部分だけ切り取ろうか、それが大事だけど、切り取るとっかかりが、課題がデカすぎると見つけにくいよね。でもとっかかりを見つけるためには全体を概観する必要はあるんだ。だから、絶望…と思いながらも一個ずつ論文読んで、事例を調べて、整理して、を繰り返さないといけない。

そうして行ったら、きっと、ここを切り取れるぞ!ってわかるんだけど、それがわかるまでが辛い。辛い。わかるまで、調べて考えられる気力を維持できるように。

そのために学会発表があったり、ゼミがあったりしているわけで。

闇雲に頑張ろう、とは思わないが、

概観、整理、概観、整理、概観、整理を繰り返して、切り分けを試みる。

これは訓練であると思う。

歴史考察・文献調査系の研究やっている博士の学生の皆さま本当にすごい!

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