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ポピュラー音楽のステージング研究の現在地 #1

はじめに

ポピュラー音楽のライブ演奏におけるステージング(楽器演奏、ステージ演出、身体性etc.)研究の手がかりになりそうな文献や論考・言説をまとめてみました(もしかしたらあまりならないかも)。

自分が関心を持っている分野は以下です。
①テクノやエレクトロニカのような電子音楽における「楽器演奏者の現前性」。
例えばVtuberのライブにおける人間によるバックバンドの現前性は、いかに担保されているのか。
今日、電子音楽の自動演奏に関わるメディアはよりミニマル化が進んでいる状況にあり、そのことは、楽曲を演奏しライブを成立させるにあたって必ずしも「演奏者」の身体は必要ではないことを意味します。しかし「演奏者」が必要とされなくても、確かにKraftwerkはステージ上の自らをミニマル化することによって、Vocaloid・初音ミクやVtuber・樋口楓のバックバンドはわざわざステージの端に寄ることでその「演奏」を行う場所を確保しようとしています。ではある意味でステージのメインから外された彼らの現前性を確保するには、何が問題とされるのでしょうか。

②2000年代以降のKraftwerk、Corneliusのパフォーマンスのような「演奏する身体、身体性と楽器音の倒錯」「ライブ音源と映像の総合」。その状況において演奏者・映像・観客はどのような相互関係を結んでいるのでしょうか。

よって電子音楽系のアーティストやパフォーマンスに関する言説が多くなってます。
もしロックやクラシックなど、他の音楽ジャンルにおける言説や論でこういうのがあるぞ!という方はコメントなどいただけると助かります……

鈴木正美「音楽的身体とパフォーマンス」

(『「スラブ・ユーラシア学の構築」研究報告集』第19巻、p.122-137、2007年)

【まとめ】
鈴木はロラン・バルトによる音楽身体論において、音楽が身体を指向対象としている状況を「音楽=身体」と表す。そしてバルトの「エロティック」な関係としての音楽と身体に関して、ミケル・デュフレンヌの音楽聴取論を参照し解釈。後半ではメディアとしての身体拡張の例として、能管の指付けの特殊性やローリー・アンダーソンのパフォーマンス、「音楽=身体」を「演奏者と聴衆が共有、同調、共振」する例として、ウラジーミル・マルトゥイノフ、ポップ・メハニハなどを紹介している。

デュフレンヌは音楽が演奏されるにあたって、聴衆は音楽をただ受容するだけではなく「反響」 し、演奏者と「同一の肉」となる(=エロティックな関係)ことで、同時に音楽を演奏しているとしています。
そして「音楽を受容する身体は、受容するだけでなく、演奏者と共に演奏している音楽=身体なのである」という結論は、演奏者の現前性の問題と関連します。例えば、iPhoneによる聴取によって演奏者が存在しなくても、音楽=身体は生まれるのでしょうか。
そしてKraftwerkのように演奏される音と動きの倒錯が起こった場合、そもそも メンバーは「音を出す同一の肉」としての存在足り得るのでしょうか。


山田陽一「音楽する身体の快楽」

(山田陽一編『音楽する身体――〈わたし〉へと広がる響き』昭和堂、2008年)

【まとめ】
鈴木の論考に関連してこちらも。山田はクリストファー・スモールの「ミュージッキング(音楽すること)」に関して、シャワーを浴びながら鼻歌を歌う、音を皮膚や内臓で感じる、音楽を覚えたり思い出したり……といった「個人的で内面的な行為」や、音楽する人間の「身体」の問題が欠けているとし、スモールの視点+音の身体的経験というテーマで論を進めていく。

山田はまず、いわゆるドライヴ感や音の響きが空間を満たす、といった音楽する/音の経験に関する現象学的・経験的記述をもとに、音楽的にのみ存在する自己、つまり音楽する行為によって音楽と一体化する自己の発見が、音楽的経験全体にとっての中心だとする。
そして音に関する身体経験は、聴覚だけでなく身体の諸感覚(皮膚、内臓etc.)が多感覚的に喚起されることで成立することを指摘する。さらにメルロ・ポンティの身体現象学をもとにしたトーマス・チョルダスらのアプローチを参照し、「「もの」や「対象」としての身体ではなく、存在論的に根源的といえる身体」「音楽が侵入してくる「場」としての身体」を明らかにする。
終盤では、音(音楽)が侵入・音と響き合い共鳴する身体を「音響的身体」と概念づける。そしてデュフレンヌの「憑依の舞踊」をベースに、音に憑依される快楽的な身体経験による音響的身体の成立プロセスに関して描写していく。

まとめると少し抽象的な概念が多いようにも見えますが、中身は現象学や民俗学のアプローチに即した具体的な事例が多く参照されているので、読むと意外とスッと頭に入ってくると思います。また「音響的身体」に関連する諸理論が文章中で上手くまとめられているので、その様相や背景を知るにはうってつけの論考です。


平沢進「ディストピアを脱却するためのデトックス」

(集英社クオータリー『kotoba』2021年秋号)

【まとめ】
この本を通してのテーマは「人間拡張」。イントロダクションではマーシャル・マクルーハンの『メディア論――人間の拡張の様相』が参照されている。
平沢は90年代以降、打ち込みの音楽が主流になっている、つまりポピュラー音楽の演奏において人間が「楽器を演奏する」比率が相対的に低下しつつある状況において、ライブやショー、またその場における人間の必要性に疑問を抱いていた。その中で平沢進自身がステージに上がるためには、電子楽器の演奏と身体性を積極的に結びつけ、「楽器の演奏者」としてステージにいる必要があった。その為に「体が動くテクノロジー」によるパフォーマンスを平沢は行うのである。

インタビューにおけるステージングに関しての発言はほんの少しですが、それでも「楽器演奏者の現前性」を考える手掛かりになるでしょう。増田聡らの問題提起との共通性、また90年代のP-MODEL・平沢ソロにおけるオリジナル楽器のチューブラヘルツ、グラヴィトン、YAMAHA・MIBURIの使用などの同時代性は注目点です。

90年代以降の打ち込み音楽の時代に活動した同時代性を持ちながら、平沢とはある意味正反対のアプローチによるパフォーマンスを行ったアーティストとして、Soft Balletやminus(-)で活動した森岡賢は触れられるべきでしょう。打ち込みにより演奏の身体性が失われつつある状況で、「楽器の演奏者」としてステージに上がるために平沢は演奏テクノロジーと自らの身体性を直結することを試みましたが、逆に森岡は打ち込みによる自動演奏を最大限利用し、鍵盤楽器はほとんど当てぶり(=演奏する演技をしている)で、自らはステージ上で演奏に合わせてダンスするというパフォーマンスを行っていました。
これはある意味で鈴木や山田の「音楽=身体」や「音楽する身体の快楽」を楽器の演奏を通してではなく、直に観客と共有しているという見方もできるかもしれません。
また自ら「ライブ嫌い」を公言し、再結成期のSoft Balletのステージ上に至ってはフードを目深に被り、テレビの取材でも一言も言葉を発さないキャラクターを演じた藤井麻輝のそれと比べると面白いかも。


増田聡「電子楽器の身体性――テクノ・ミュージックと身体の布置」

(山田陽一編『音楽する身体――〈わたし〉へと広がる響き』昭和堂、2008年)

【まとめ】
ピアノ、エレキギター、マイクのような「音楽テクノロジー」の出現と定着は、音楽文化に影響を及ぼし、現在ではクラシックやロックにとって自然な存在になっていった。しかしクリス・カトラーによれば電子楽器はそのような存在ではないという。
カトラーは、「以前(ギターetc.)は演奏法を習得するには、相互行為的なスキルを肉体的に体得」する必要があったが、電子楽器の場合はそのような「伝統的プロセスを転倒させ」、電子楽器は身体との関わりを拒絶し、「演奏者の表現をできあいのプログラムへと置き換えてしまう」と批判する。
そのカトラーの論をもとに、増田はピアノ・ギターといった「伝統的な楽器」と「電子楽器」の違いに関して、前者は「音と身体のミメーシス的関係」 をもつとするが、後者はあくまで「人間の身体が行う演奏の「シミュレーション」 を行っており、そこに演奏者や聴衆の身体性は関与しないと論じている。
後半は椹木野衣のテクノ論をベースに、テクノにおける身体的な「ズレ」の問題について論じている。

通常の楽器と異なる、電子音楽の特殊な身体性についてまとめられています。こちらも具体例が例示されているので、事前知識が少なくても読みやすいと思います。卒論では大変お世話になった論考の一つです。


デヴィッド・スタッブス「クラフトワークとモダン・ミュージックの電子化」

(デヴィッド・スタッブス『フューチャー・デイズ――クラウトロックとモダン・ドイツの構築』Pヴァイン、2016年)

最初の方にクラフトワークがニューヨーク近代美術館/MOMAでライブをしたとき(2012年)の話が載っています。このときKraftwerkは自らのパフォーマンスを「ワグナーが夢想した音楽と映像と劇とが全て統合された、彼ら自身の〈Gesamtkunstwerk〉(トータル・アート)」であると宣言しており、2011年~2016年までテート・モダンの館長であったクリス・ダーコンもKraftwerkが2013年に行ったライブに関して同様の発言をしています。

確かに、2000年代以降の音楽と映像が総合された彼らのステージはインスタレーション化しているといえ、またドイツ語圏において、ワグナーが提唱したgesamtkunstwerk(総合芸術) の語が芸術の批評によく使用されるとしても、これにはKraftwerkの意図的な拡大解釈が認められるでしょう。そこで卒論ではワグナー的な総合芸術の観点からKraftwerkのパフォーマンスに関して検討し、特に音響芸術と詩文芸術が感覚的外面性を獲得するための舞踏芸術的要素に関して、彼らのパフォーマンスにおいては、それは背景で演奏と同期される映像作品に大きく依存していると結論付けています。
また彼らのパフォーマンスに関して「オペラのオーケストラピットにいるオーケストラのような存在」とし、意図的に身体性を欠如させることで彼らは音源としての存在に徹することが可能になり、それが映像作品と音楽との親和性を高め、観客はそれらの総合に集中することができる効果が生まれているのではと論じました(これは改めて検討が必要だと考えています)。


ユービック「テクノ歌謡」研究チーム『テクノ歌謡 DISC GUIDE

若干本筋からずれますが、テクノ(テクノ歌謡)と声の問題が扱われています。
近田春夫は歌モノとテクノの関係に関して、「声がテクノかどうか」が一番重要な点とし、Perfume/中田ヤスタカのオートチューンを評価。つんく♂はテクノ歌謡の歌い方について「張らないで淡々と歌うように」指導しており、「下手な方が面白い」とまで言っています。

テクノにおいて声は基本的に加工されるもの。そして下手な方が面白いというのも、確かにKraftwerkは歌上手くないし、YMOもそんなに声を張って歌う感じではないし、2000年代入ってからのCorneliusなんかまさにそんな感じ……上手くまとめられないけど、テクノは声自体のメッセージ性は重要視されない音楽ジャンルですよね(もちろんテクノ「歌謡」は普通に歌詞があります)。歌詞も基本的には切り詰められていく存在。単語の羅列になっていく……

この辺りは椹木野衣『ポスト・テクノ(ロジー)・ミュージック』『テクノデリック――鏡でいっぱいの世界』のテクノ論……つまりテクノロジー自体をあからさまに可視化し、かつそれによる自然さや身体性の再現が我々の自然な感覚とズレを起こしている状況による「テクノ」の美学、また越智朝芳の「ヴォコーダー論」を素直に当てはめていいのかは検討が必要です。

そしてパフォーマンスという点でいえば、PerfumeがもしKraftwerkみたいに棒立ちで歌を歌うグループだったらどんな感じだったのかな……?もしくは電気グルーヴみたいに1人がDJ/鍵盤で、もう2人が前でボーカルとか妄想します。やはり、電子音の中でたとえ口パクでもダンスで「動きを見せる」からこそ人気が出たのかな……?とか思います。


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