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映画レビュー「偶然と想像」(濱口竜介監督)-遠心力と吸引力のバランス-

こんばんは。
今日もレビューしていきます。

今回の作品は、こちら。「偶然と想像」。
先日、「ドライブマイカー」が、日本映画史上初、アカデミー賞作品賞にノミネートされた、濱口竜介監督の作品です。

早速、感想を以下に述べていきます。
(ネタバレありです)

個人的に、この映画の魅力は、3点あると思っています。

  1. 「遠心力と吸引力のバランス」

  2. 「ミニマルな構成と視点の発展性」

  3. 「映画、表現の可能性」

こいつ、何言ってんだ!?って思われるかもしれませんが、「どういうことか」順に記していきます。

  1. 「遠心力と吸引力のバランス」

 わたしは、好きな映画の条件の一つに兼ねてからあげていることが、こちら、
「遠心力と吸引力のバランスが調度いいこと」です。
「ん?地球の話?掃除機の話?」となるかもしれませんが、映画のことを言っています。
映画とは、自分では経験できないことを擬体験させてくれる世界と思いますが、
その中では、ある種、「え!こんなことあるの?」というように、遠いところまで自分の座位を吹っ飛ばしてくれるストーリーに魅了されます。
一方で、「確かに、あるある。」や「うわ、この先どうなるの?きになる」といった、共感して、いつの間にか、作品に引き込まれていくのも、大事です。
 この、自身の思想、経験の範囲外のところまで、脳天ぶっ飛ばしてくれる遠心力と、共感・共有・好奇心をそそられ、あたかもその作品の中にいるかのようにのめりこませてくれる吸引力が、とてもいいバランスで成立していることが、私が映画に求める条件の一つです。
 とくに、この条件を見事に成立させてくれるのが、「クリストファー・ノーラン監督」だと思っています。(おこがましいですが、、、)
 この監督の作品は、いつ見ても、何をみても、大好きです。
「何か、わからんけど、、何か知らんけど、、すごいものを見た」っていう感想が上がるのが、この監督の作品だと思うし、観客にそう思わせる力をもつ映画こそ、素晴らしい映画表現だと思います。

 話をもどして、この「偶然と想像」という作品も、見事にこれを成立させています。第一話の「魔法(よりもっと不確か)」では、タクシーの中での、ごく普通の会話(吸引力)から始まり、中盤の主人公・メイコの言動に驚き、振り回され(遠心力)、いつの間にか、かずあきに同情する一方で、かずあきもかずあきやなって、軽蔑の視線も持ち始める。そして、最後にはメイコに同情し(吸引力)、ラストを迎える、といっためぐりめく怒涛の展開をします。
 第二話「扉は開けたままで」は、一般の人からすれば、セフレという関係性がまず、遠心力で、途中の小説の朗読、内容もとても遠心力です。しかし、終盤、教授とナオの会話、心の交流は、とても観客の心を引きつけると思います。
 第三話「もう一度」は、途中の、赤の他人だった、という展開が、一旦、観客と作品との間に距離を産みます。(遠心力)(えっ、そうだったの?ってなります。)そこから、どんどん話が展開していき、引き込まれていきます。
 全ての話が、遠心力と吸引力がちょうどいいバランスで成立し、観客を魅了していきます。さらに、この作品の特筆すべきところは、この二つの力を、「普遍性」の世界の中で成立させているところです。つまり、「我々の生きている世界のどこかで起こっているかもしれない偶然だな」と想像させてくれるところです。(まさにタイトル通りです。)この普遍性が、世界でも受け入れられている理由なんだなと、私は感じます。

2. 「ミニマルな構成と視点の発展性」
 この3つの話は、どれも主要な登場人物が、2−3人で、シーンもほぼ2、3場面で、ほとんど会話だけで進行します。ほとんど会話だけなのに、めっちゃくちゃ想像が膨らんでいきます。このミニマルな視点の中で、会話だけでここまで想像を膨らましてくれるのは、「セリフのリズムがとても心地いい」からだと思います。
 本当に言葉が美しく、聞いてて何の遮りもなく、胸に入ってきます。おそらく、ラジオ(映像なし)で見ても、情景がとても鮮明に浮かび上がるだろうなと思いました。シューマンのクラシックのように、心地よさが、この映画の根底にはあります。

3. 「映画、表現の可能性」

濱口監督の作品は、「ドライブマイカー」もそうですが、作品の中に「演じる」人が多様に出てきます。「ドライブマイカー」では、演劇が主な題材でした。
 本作品でも、第一話では、「本当は元カノなのに、知らないフリをする」メイコ。第二話では、「先生の小説を朗読する」ナオ。第三話では、「高校の同級生のフリをする」なつこと、あや。
 各話で出てくる登場人物が、何者かになりきり、行動する。そこに、想像が生まれる。本作は、観客が展開を想像するだけでなく、作中の登場人物自身も、各々の世界を想像する、この二重構成になっているのが興味深いです。第一話の最後のメイコの想像、からのクローズアップは、お見事でした。
 「演じる」ということを映画の中に取り入れることで、濱口監督は、「他者を理解し、受容することの難しさ、と尊さ」を表現しているように感じます。「他者を知る、もっといえば、愛する人、信頼する人を理解することは、こんなにも難しいんだ」、「しかし、自分を認めてくれるのもまたその相手である。」「だからこそ、理解することを止めてはいけない。」
時に、人は、何者かのフリをする、嘘をつく、それで、かけがえのない人を傷つける、遠ざける、そして、翻って自分自身を傷つける。だけれども、その一連の行為を通して、人は人を理解し、受け入れていくのだ。というメッセージを、濱口監督の作品からは、感じます。(ドライブマイカーもひしひしと感じました。)
 それと同時に、常に「演じる」という行為を、多様なアプローチで表現している監督の作家性に、改めて、映画の、表現の可能性を感じました。

見終わった後に、こんなに興奮し、身震いした作品は久々です。

ちなみに、この短編集は、計7つからできているそうです。
あと、4話が、どんな話なのか、想像しながら、見れる日を楽しみに待ちたいと思います。
それでは。


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