「黙ること」って、自分の人生負のスパイラルへ誘う作業である
誰かに自分の尊厳を傷つけられるようなことを言われたとき、
あなたはどう対処しているだろうか。
そんな相手に冷静に言い返せているだろうか。
私は子供のころ、活発だけれどどちらかというと大人しかった。そして人に理不尽なことを言われたり、されたとき、「言い返す」ことが出来なかった。
・言い返したら相手が傷つくのではないか
・言い返したら仕返しされるのではないか
怖くて言い返せずにいた。
親には「黙っておけばいい」「気にするな」と言われて育った。
そんなこともあってか、他人と喧嘩をするという経験が無いまま大人になった。
職場でどうにもこうにもそりが合わない人がいて、我慢の限界を感じ怖い相手に言い返してみた。
1回目は感情的に爆発してしまった。笑 (大人になってからもこんな感情大爆発あるんやな 笑)
自分の事を喋るのに精いっぱい、責めてくるのではないかと恐怖で感情も言葉も出すぎてしまっていた。相手の事も悪く言っていた。
ーー気が付いたことーー
「自分自身が恐怖にのまれていたこと」
「YOUメッセージではなくIメッセージで話すこと」
「相手の話にも耳を傾けているという姿勢をとること」
「感情的ではなく、冷静に話すこと」
「周りの人は感情的になった人の肩は持ちにくいということ」
気がつけた事が何より大きな収穫になった。
それからもその人と関わるたび私の感情を逆なでているように感じるし、私の感情が波打つ。自分が今後、冷静にいられるようになるのか、伝えられるようになるのかと半信半疑だった。
現在、冷静に伝えられるようになった。日々、訓練だった。
相手が何を言いたいのか、その人が選んだ言葉・話し方・焦点を当てているところに惑わされず、”相手は結局のところ何が言いたいのか”を冷静に探すことだった。
そこに集中する。冷静でいようとするのではなく、集中することで冷静にいられた。
そして相手が ”どんなことで満足しやすい人物なのか” ということも初めて考えた。(この前まで地底人だったので対人関係よくわからんとです)
その人は「話を聞いてほしい人」だった。
私にとってはとてつもなく回りくどい話し方と思えてしまうが、その人は話したい人なのだった。
話し出したら話を止めず全て話し切ってもらうようにした。理不尽な内容でも。
そしてこの時、(上に書いたように)その人の話の内容を鵜呑みにしないで、冷静に要点をとらえつつ、「聞いていますよ」という姿勢を見せつつ、流す。そしてその後、前置きをしたうえで意見を言えばよかった。冷静に。
ーーカウンセラーに聞いた話ーー
理不尽なことや道理にかなっていないことを人に言われたとき、黙っていることによって、相手に理不尽に扱われたことを自分の脳は認めたと認知するそうだ。
黙っていることは、「相手からの扱いを受け入れ私はそのような人間です」、と認めていくという作業だということだ。
言い返さず黙っているということで、自分はこの人に理不尽にぞんざいに扱われてもいい人間なんだ、と認識するようになるということだ。
そして影響があるのは自分個人にだけではない。
理不尽なことを言われている、言い返さないでいるところを周りの人が見ていて、その人たちの認知もそちらに寄せるようになっていくらしいのだ。
要するに、「あの人は理不尽な言い方をされてもいい人と。」
恐ろしい。認知のゆがみというらしい。脳は言動と内面を一致させようとしてくる。
言動行動が現れているものが脳にとっては正しいことなのだ。
誰の脳でも、だ。
ーー子供のころ苦しかったことに対して今ならこう思える
・言い返したら相手が傷つくのではないか
→自分の事を傷つけようと、悪意を持って関わってくる人に対し毅然とした態度姿勢で言葉を返すことは当たりまえ。
・言い返したら仕返しされるのではないか
→渡されたもの相手に返しただけ。(私が返す側だった 笑)
海外ドラマを観ていてよく思うことは、何を言われても、気持ちよく言い返していることだ。エレベーターの中で全裸になっても、お〇っこをすることになって批判されてもだ。笑 (創られたものだからってのもあるけどさ、ユーモアもあって聞いてて気持ちいい 笑)
ユーモアがあるって余裕がある。それでいいんだ。
言い返すことが普通になったのだ。
私は今、私らしく生きられるようになってきている。
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