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思い出せない3.11をたどる。


明日は3月11日。
あれから10年が経つ。


10年前、2011年3月11日、
午後2時46分。

時間も多分、この先、
何歳になってもずっと忘れない。



私はあれから毎年、この時間には
出来うる限り黙祷を捧げてきた。


近年は、この時間を知らせるチャイムも鳴らなくなった気もするし、
私も勤務中だったりすると、難しくて気づいたら過ぎていた時もあったけれど、

仕事中でも、時間を見計らって
なるべく2:46より前に
時計を見て、時間を合わせて
一人で黙祷していた。

時間がずれてしまった時でも、
祈れる時に黙祷を捧げるように
している。


誰に対して、何に対して祈るというより


その瞬間、イマの時間から遠ざかり
あの日あの時に想いをはせる
その心の空間をつくる時間を
つくるために祈る。


クリスチャンではないけれど、
中高と6年間ミッション校に通った私には、「祈る」こととはさほど、
縁遠く生きていない。


2011年3月11日午後2:46。


私はあの時高校2年生だった。


あの日は、午前中が
期末試験の答案返却日で
15時からクラブ活動の高3の先輩の
送別会で、部長をしていた私は
後輩や同期とともに準備をして、
準備を終えたから、
別室で待機してもらっている先輩を
そろそろ呼んでくるね、と
扉に手をかけようとした
時だったように記憶している。



どんな揺れ方だったのか、
思い出せないけれど、
高2の私にも尋常ではないことは
即座にわかったし、教員がその場に
居ない中で、中1から同期まで、
その場にいる部員が怪我せぬように
しなければ、


そんな気持ちは、無力な17歳も
持ち合わせていた。


「机の下に入って、机の脚おさえて」


叫んだように思う。


非日常の異常さにキャッキャ言っている中学生の後輩に、いつになく強めの口調で叱ったような気もする。



私たちの居た202教室の
すぐ外のチャペルから、練習をしていた別の部活の人達とその顧問の先生が、避難で202教室に入ってきた。


教員がひとり来たことによる安堵を
覚えたと思う。


大きなガクッ!とした揺れから
ずっと揺れ続けていた。


今思い出してみて、
逆によくこれだけ覚えているなぁ、
と感心した。そのくらい、
普段から、あの日のことを、
思い出すことは無い生活になっていた。


東京に住むわたしは、
地震が少しきても震度3、大きくて
震度5〜6くらいではあるし、
家が免震構造だからか、
家にいると揺れても、
多分倒れないだろうなんていう
過信がある。

実際、あの日も、我が家にいた
母と兄と弟は、うわぁ、
結構揺れてるなあ、程度で
自分たちの命の危険はそんなに
考えなかったと思う。



あの日、あのあと、
顧問の先生がきて、

鞄の中に入れておくこと、
電源を切っておくことを約束として
学校に持ち込むことを許可されていた携帯(しかも、当時ほとんどの人は
まだガラケー)でニュースや情報をみた。

iモードというものに接続して、
見ている友人後輩。


小さな画面に映るニュース。

何があったのか
ほとんど分からないから、
とにかくすごい地震であること、
異常であること、だけしか
分からなかった。



生徒たちは各自、自分のクラスに戻るよう言われたのだと思う。
確かそう。私も自分のクラスについて、ほかの部活の友人たちと落ち合い、


怖いよね、どういうこと、
とみんな困惑と少しの恐怖と
非日常の異常に浮き足立つような
そんな感じだったと思う。


あとは、先生たちから、
とにかく親御さんに連絡をしなさい。
繋がるまで何度でも電話を掛けなさいと、ガラケーで
私は家の電話に、母の電話に、
とにかく何度も何度もかけた。


全く繋がらないまま何時間も経ち、
携帯の電池残量ばかりが減っていく。



そこにきて、ようやく、私は

もし、家族に何かあったのなら、
どうしよう、


と不安になった、確かそうだった。


 あの日の地震が、
 “ちょっとした揺れ”でないことは
わかっていたけれど、自分の命や
家族の安否を心配するという思考には至らなかったほど、私の日常には
“自分が災害に見舞われる”という言葉が
なかった。


阪神淡路の時は1〜2歳だったけれど
大阪に住んでいたのに、たまたま
その日は母と私と兄は
東京にきていたらしいし、
私は幼少期のその時の記憶がまるでない。


 その後の2016年の熊本地震だって、
東京にいた私は、あの、
新耐震基準で建てられた家さえも
ことごとく倒壊してゆく様子に
異常さを感じつつも、やはり、
どこかで自分ごとにはならなかった。



さて、何度も何度も電話をかけても
一向に電話は繋がらず、
家族がどうしているのか全くわからない。


いつもは、楯突く親のことも
しょっちゅう喧嘩をする弟のことも
心配した。



結局、夕方くらいまで連絡がつかず、
私は学校に泊まるのだろうと、
先生たちの用意する布団や非常食を
受け取った。


学校の近くに住む友人がいろんなものを持って私たちのところに来たことも覚えている。何を持ってきてくれたかは覚えてないけれど。

 大勢の友人たちが近くにいたこと、
地震が起きた時学校にいたことは、
大きな安心だった。

 電車の中で地震にあった、
帰宅途中だという、友人たちから届く
メール(当時まだLINE、なかったから)に、ひどく心配をして、
でも、連絡が来るということに安心もした。


そのすぐあとだったろうか。

たまたま家がわりと近かった同級生のお母様が学校に、その娘さんをお迎えにきて、

「お家、近かったわよね、送るわ」

と車で家まで送ってくれるという。


学校は神奈川。家は23区内。
家がたまたま近かったからと
送ってくれるそのご厚意に甘えて

その頃にやっと親と連絡がついて

「○*ちゃんのお母様がいて、
家まで送ってくれるっていうから
送ってもらって帰るね」と
母に伝えた。


その時点では確かまだそんなに遅くない、夜ご飯より前の時間くらい?
だったと思う。

私は非常食と布団などを先生に返して、一緒に泊まることになるだろうと思っていた友人たちに、
「帰れるみたい」と伝えた。


 身支度をして、お母様と同級生の子と一緒に、他の友人や先生に見送られて学校をあとにした。


そこからが大変だった。

同級生のお母様の運転する車に
乗せてもらって、後ろに
その娘さんと私。

神奈川から東京に戻る道は、
ほとんど混んでいて
全然動かない。


まだ3月の中旬にもならず、
夕方夜は冷える。


車内で、私にブランケットを貸してくださった、確かそうだった。
(今までこんな詳細なことは
思い出したことなかったのに、
思い出そうとしたら次々出てくる。)


全然動かない道路を、お母様一人で
運転してくださった。


お母様だってどっと疲れているなか、
動かない道路を運転することに
集中しつつ、いつ起きるかわからない
地震を考えつつ、娘とその同級生を
車で運んでいる、その神経の使いようを大人になった今想像すると、
本当に感謝以外の何もでない。



それで学校を出たのは、
確か7時だか8時だか9時なのに
(そういう記憶もないくらい異常だったのだ。)

家に着いたのは夜中0時過ぎか
それとも1時前か
とにかくもう真夜中だった。


(それも覚えていない)

家に帰ってきた時に、
もう寝る時刻だ、寝ている時刻だ
と思っていた気がする。
(記事のために当時使っていた手帳を
見返したが何も記載がなかった)



ただ、あの日、帰ってきた時、
免震のマンションで揺れたは揺れたけど家の中は何も変わっていなくて、
兄と弟は何時からか分からないけど確かゲームをしていた。


家族に連絡がつかず、初めて
「何かあったのかも」
「生きてるかな、大丈夫なのかな」
と不安になっていた私は、
ひどく拍子抜けした。
(追記:さきほど、母が、あの日、津波映像をみていたと話していた。あのとき、映像をあまりに見過ぎて、当時大学生の兄と中学生の弟は、チャンネルを切ってゲームをしたのかもしれない。)


うちは、とにかくそのくらい平穏な、命の危険のない状態で済んだ。これはマンションの免震と家が東京だったおかげだと思う。



その日は、疲れていて
すぐお風呂に入ってテレビを見たけれどほとんど覚えていない。


ただ、学校にいた時に
これは大変なことが起こったんじゃないか、そう、高校2年生なりに想像した遥か先の、全くの想定外の、
大きな災害だった。




そしてそれを認識したのは、
翌日以降のニュースでみた
あの津波映像だった。


2011年3月、4月、
何度、あの津波の映像を、
襲ってくる津波をビデオで撮りながら

「やばいやばいやばい」と
パニックになって途中で切った撮影者の声を、


海から離れた場所から
津波のその、水が、絵に描いたように
大きな口をあけて街を、車を、家を、店を、人を、飲み込んでゆく映像を
観たか分からない。


そのニュースで流れ続ける様々な映像をみて、私はあの日、あの2:46の地震が、すっかり日本を、人の人生を、平和を、「何も考えないでも生きている日常」が日常でないことを、だんだんと理解していった。


津波の行方不明者は数え切れないほどいて、

3月11日以降、
死者、行方不明者の数が、
毎日発表された。


 私たちは、そのニュースに
だんだん慣れていっていた。


地震により、福島の第一原子力発電所で炉心融解(メルトダウン)が起こり、
放射性物質が放出した、そのレベルは最悪を示すレベル7だと、
ニュースで報じられた。


炉心融解なんて言葉、
鏡音リン・レンの歌でしか聞いたことないし、レベル7なんて言葉も宮部みゆきでしか聞いたことなかった。


一体、何が起こっていて何が大変なのか、高校2年生の私には、解る、ことまでいかなくて、


ただ、毎日、メルトダウンの状況と
被災者のこと、死者と行方不明者の数が報道されてゆく。


東京に暮らす私の日常は、
高三の6月に引退大会があるのに、
春休みの部活が無くなった、
終業式も、先輩方の卒業式への出席もなくなった、
いつまで学校お休みなんだろう、

春期講習は?


自分の日常、という上では、
そんなことを気にしていたと思う。

毎日報じられる死者行方不明者も、
東北の方々の被災状況も、
被災地での体育館暮らしも、
家族が見つからない、または
失った方々の状況も
想像してもしても、
自分事のようには分からなかった。


私は翌々日の3月13日から、
予定通り勉強をすすめて、
(いや、まあ全然予定通り行かなかったけれど)


春休みのクラブ活動は全て中止になってとにかく家にいた。


でも、4月7日になったら
始業式があって、翌日に防災訓練があって、それから先はもう今までと同じ、高3に進級した学校生活だった。


3月から5月頭まではよく津波映像や
ニュースも多かった気がするけれど
5月になった頃から東京のニュース番組では、ずいぶんと"日常的"ニュースも増えていた気もする。


これが、あの日あの時の出来事の
覚えている限り。




大学2年か3年の時、
現代社会学の授業で、3.11、
キズナ社会、なんてことを
勉強するまで、

やたらキズナkizuna叫ぶメディアに
違和感を覚えつつも、私は過去のこととしてあの日を昇華していた。



そして、

あれから10年経った。

あの日のことは、ここまで書いた程度にしか思い出せない。

それも、わざわざ時間をとって、
思い出そうとしてこれだ。


そして、思い出したそれが、
実際にそうだったのかそれ以上だったのかすら今となってはわからない。



あれから10年経ち、私は今
アフタースクールで小学1~3年生と
関わっている。


一昨年も、塾で低学年指導をしていて
4歳から8歳くらいの子達を指導していた。

彼らが生まれたのも、2011~2015年。


誰一人、あの日あの時生きていない。


今関わっている最上級学年小学3年生も
2011年4月以降の生まれ。
この世の中にはまだ誕生していない。


彼ら彼女らは誰一人、
あの日あの時を経験しておらず、

3.11を、歴史的事実として享受する。



私にとっても、
これだけ思い出せなくなったのだから
ずいぶん過去のことになったのだろう。


でも、それでも、あの日あの時、
何があったのか、自分はどんな日だったのかを、忘れる、ことはない。


幸運なことに、私は、あの津波と地震で家族、友人、親族を誰も失わなかった。

家だって、何事もなかったし、
学校も無事だった。


東北に住む親戚や母の友人たちも
皆大変な思いはしたようだけれど
命を失った話は聞かなかった。


 毎日映像を観ながら、
大切な人が見つからない、その感覚を
家が流されて自分の大切にしているものを失う感覚も想像してみた。


 人を失う感覚はやはり、想像が
難しかった。けれど、大切にしているものや、この部屋のものが、流されて何もかも失ったとしたらと考えると
私は、自分の生きてきた人生を失うような、安心を失うような気持ちになることは想像できた。

 もし、地震が起こったら、
大切なクマのぬいぐるみと、携帯と
県大会の賞状と、それから…

 外に持ち出すとしたら何かを
あの時考えた。

そういえば、3.11のあと、
高校2年生の夏季短期研修で留学した
メルボルンのホストファミリーが、
すぐ、大丈夫か、と連絡をくれて
様々なもの、お菓子や食料や
色々なものを送ってくれた。

(ああ、それなのにオーストラリアの
大火事の時、私はシスターに連絡をした以外何もしなかった。なんと薄情なやつなんだ。)


あれから10年経った。
私は高3になり、
引退大会は初めて予選負けして
仲のいい友人9人と文化祭に参加して
センター試験を受けて、自己最低点をたたきだし、一般入試を迎えて
今の出身大学に進学をした。

大学4年間を文学部英米文学科で過ごし教職課程を履修した。


ファミレス店員、パン屋さん、
大学のオープンキャンパススタッフ、聴覚障害学生支援ボランティアノートテイカー、塾講、家庭教師、1年次フレッシャーズゼミアシスタント、と


大学の4年間にアルバイトをした。


大学1年の9月下旬から11月上旬までのたった1ヶ月半で、祖父母ともに亡くした。


部活やサークルには、入らなかったけど、大学3年になる時にTable For Twoに参画した。


大学2年の塾講の時に社畜しすぎて
勉強不足もあって単位を落として4年間での教職課程履修が叶わなくなった。


大学院進学したいと思って父との約束を果たすため内定を貰うための就活をした。


内定ももらったし、卒論は無駄に106ページも書いたし、大学院進学も果たした。


大学院の2年間の間に、
二度も過労で意識を失って入院した。


あの、高校2年生の時には
彼氏なんて経験したこと無かったし、
女子校に通っていた私には
恋愛や男友達も稀有だったのに、


彼氏ができて別れて、
を3度も経験したし
男友達も、信頼している友人は?と聞かれたらパッと出てくるのはみんな男性の友人というくらい増えた。


卒論も書いたし修論も書いたし、
英語科教員の専修免許もとったし、
学部の時は内定を、院生のときは
東京都教員の合格を果たした。


 そしてその間、あの日ほどの
外的な、災害による、命の危険を
感じずに生きてきた。


10年前、27歳の私は、
こんなだと予想していなかった。


だって、教育の道にいくなんて思っていなかったし、英語学科、英米文学科、英文学科、国際コミュニケーション学科の違いもよく考えていなかったし。
ましてや、大学院という存在も考えたことなかった。


27歳になっても
職なし、彼氏無し、無職歴満3年、
アルバイト実家暮らし、
なんて思っていなかった。


何もかも、予想していなかった。


3.11が起こる前、そんなことが起こるとは考えたこともなかったのと
同じように。


津波の映像は、津波のあの日の映像や
自分のことは、この時期にしか
つぶさに思い出さなくなったし、
もう、つぶさに思い出せなくなってきた。

けれど、

生きたかったのに
生きられなかった人、

大切な人を失った人、


どこかの地点で亡くなった人の
その命がどこに浮いているのか、

といったことについては
しょっちゅう考えてきた。



昨年の同じ時期、
コロナコロナと言われたとき、
真っ先に考えたのは、


感染症が広がっているとして、
これ、2011年の3月だったら
避難はどうしていたのだろう、


だった。


17歳だった少女は死ぬことなく、
持病はあるけどわりと健康的に
27歳になった。



10年間、あっという間、ではなかった。本当に様々なことがあったから。


でも、あれから10年、などと言われると


あの日あの時から10年
という月日が流れたのか、
10年とはもっと長いものじゃないのか、こんなにあっという間に
きてしまうのか、10年経って
何が変わったのか、なんて
考えてしまう。


あの時代、まだ当たり前に手元になかったスマホを毎日手にしている。


あの時、まだ存在を知らなかったLINEを今は当たり前に毎日、必要不可欠に使っていて、メールや電話を使う方が珍しくなった。


けれど、10年経っても、
日本の震災の避難は体育館で雑魚寝だろうし、


10年経ってやっと
あの日避難した体育館で起こった
性犯罪の数々を、口に出せる人が出てきたりもした。


トラウマというのは、
口に出せるようになるまでがとても大きい。

口に出来ないから、余計に苦しいのだろう、



時間が経つにつれ、どんなことも、
「思い出したい、"あの頃"」は
あの頃のままには思い出せなくなる。

そして、「あの日言えなかったこと」がやっと言葉にできるようにもなる。
それらは、もう、あの時から距離をおいて、距離をおいたから言葉に出せるようになる。

 けれども、そこには、
距離にした分だけ、言葉にならないことが多い。


 あの日から数年は
3月11日の午後2時46分を
知らせる鐘がなっていたように
思うけれど、いつの間にか、
東京では聞かなくなった気がする。

それでも、私は、
なるべく3月11日午後2時46分に
心の中で祈ることを、
心を凪にして、ただあの日に
想いをはせて手を合わせることを
これからもきっとするだろう。



10年経って27歳になり、
あの頃、17歳だった私の
真っ直ぐさや一生懸命さ、
ひたむきな努力や想いが今の私には
時々眩しすぎて苦しい。


あの頃は、想像すらできなかった
27歳という、漠然とオトナの女性であることを思ったその年齢になったけれど、


27歳の私は、
地震の時、自分と同期と後輩の
命を守らねばと、直感的に行動した、
17歳の自分よりひどく弱くなった。


23歳の時、過労で倒れたとき、
初めて本当に、
望まない死を自分事にできた。





2020年3月時点での
東日本大震災の死者数
1万5899人

行方不明者2529人


身元の分からないご遺体は
岩手、宮城、福島の三県合わせ57人。

死者の56.5%が65歳以上、
死因の90.4%が溺死らしい。


私たちは、あの日、みんな、
"日常"を失った。


1万5899人が亡くなった1つの災害、


ではなく、1人の命が失われた1万5899件以上の災害、死

とはよくいうけれど、
それは当事者にならないとわからない。


けれど、あの日を生きていた私たち
一人一人にあの日の物語があって、

2011年3月11日を生きていない
小学3年生以下の児童たちにも
これからも伝えていかなければならない。


最近は、戦争ものの番組を観る機会が減ってしまった。しかし、戦争だって
もう当事者として伝えられる人はほとんどいない。


 テレビ番組でみる、過去の歴史と
体験した話として聞くことの差は大きいのだと、3.11のあの日以降の、
メディアをみていて思う。



やたら、kizunaキズナ叫ぶメディア、


復興を掲げながら、
被災した人々の心は復興に追いつけない人もきっといた。

何かにつけて、
日本人はすごい、
ニッポンはすごい
と言い出したのも3.11後からな
気がする。もっと前から言っていたかもしれないけれど。


そんなに、日本人は日本人は、って
いう必要はどこにあるのだろうと
おもったし、


 日本人のナルシシズムというか
メディアのつくりだす大衆への
ナルシシズムを感じながら
この10年を生きてきた。


 たしかに素晴らしい面があることは否定しないけれど、災害が起こるたびに、何かあるたびにそう言ってきたメディア。その日本人たちは、やはり、自助努力と国民と企業の我慢で、このコロナを乗り越えなければならないと頑張っている。




正直、ここまで書いてきて、
何を書きたかったのか、と考えても
分からない。分からないけれど、
私は、あの日あの時を、
思い出す時間が必要だと、

ただ過去の一点におさめない、
取り戻す時間を必要だと、
そう感じた。だから書いた。


あの日を生きていた人の数だけ
“あの日の出来事の話”があって、
物語がある。


 それを、その、小さな物語たちが
メディアや政府や、それ以外の大きなものの、「大きな物語」に乗っからないようにするためには、やはり、
それぞれの人の物語、が必要だな、と思った。


わたしは今年も、心を凪にして、
ただあの日あの時に想いをはせるために祈るだろう。


その時間を忘れないでいるために。



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#小さな物語

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