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当たり前田のクラッカー

前回のポストで業態変更や店舗内の改装を行ったことを書きましたが、それからどうなっていったのか。

一緒に厨房で働いてくれていたTさんですが、入社数ヶ月で退職しました。思いを共有する事が、僕の「伝え下手」のせいで上手く出来ませんでした。

「どんどん前に進みたい!」って、自分のココロすら上手く整理出来ないくせに、気持ちが先走るばかりで、Tさんには沢山の「理不尽」を押し付けてしまいました。

僕の言葉には「信用」も「説得力」も伴っていなかった結果だと思います。

あるきっかけが起こる

Tさんが退職し、僕・奥さん・おかん・アルバイトの女の子二人だけになりました。

カウンターと厨房が分かれていた為、料理を作るには最低二人必要だったので、カウンターは父が、会社終わりに来てくれて焼き物を焼いてくれていました。

朝から夕方まで会社勤務をし、そこから22時過ぎまで、週6日間お店で働く事は、60歳を過ぎていた父には過酷な状況だったと思います。

そんな状況でお店を開いても、両親にはアルバイト代すら出せなかったのです。

業態変更をして、週に何度も通ってくれる方や、休みに日には必ず顔を出してくれる方、そんなお客さんが何組も出来始めていたのですが、両親や奥さんの体力は限界に近づいていました。

そんな中「東日本大震災」が起きました。

僕は近くのスーパーに居たのですが、ものスゴイ揺れを感じ、揺れるエスカレーターを駆け上がりお店に戻りました。お店自体に被害は無く、当日の夜は家に帰れないお客さんでお店はごった返していました。

しかし、その次の日からお店からお客さんが消えました。

TVから流れる悲惨な現場、節電が呼びかけられ、当然お酒飲みにお店に行く様な状況では無かったからです。

その頃から、「もうお店辞めよう」って話しが何度も何度も飛び交う様になりました。

それでも僕は「嫌だ!!」「なんでお客さんも増えて来たのに」「諦めたくない」

僕は声を荒げていました。

決断する時

諦めたくない理由の一つとして、僕のお店は生まれ育った地元駅にあったのですが、地元の公立中学校を卒業してから、個人的には全く疎遠になってしまっていた地元の友達が、僕のお店の存在を知って沢山お店に足を運んでくれる様になっていました。

入籍と共に、この飲食事業を始めていたので、奥さんとは結婚式はおろか、記念写真すら撮った事がありませんでした。

そんな事情を知っていた、地元の友達が奥さんにサプライズをしようと、お店でお祝いをしてくれました。

ケーキを用意してくれたり、美容部員の友達が奥さんにメイクをしてくれたり、お店のTシャツに前掛け姿でしたが、お祝いをしてくれたのです。

ずっと疎遠だったにも関わらず、僕に対してここまでしてくれた事が嬉しくて、また子供の頃の様に笑って会える友達が来てくれる事が嬉しくて、どうにかしてこのお店を続けたいと、お店の経営状況や家族に対して強いている負担も考えず、一人躍起になっていました。

震災後、しばらく経ってお客さんは元に戻っていましたが、「辞めよう」「嫌だ」の繰り返しの中で、僕はどんどん荒んでいきました。

家族の輪にも亀裂が入って行き、「奥さん」「両親」と衝突する日々が続いたのです。

そんな日々の積み重ねで、奥さんは実家へ帰って行きました。

しばらくは、僕と両親で営業を続けて行きましたが

「もう無理だ」

疲れ果てた両親から言われた一言でとうとう「閉店」を決断します。

お店の運営状況を考えたらもう抗う事すら出来ない状況だとは理解していました。

朝6時過ぎの電車に乗って、築地で仕入れをし(お店からは買い出し時間を含めると往復で2時間以上かかっていました)、一人で仕込みをして、営業をして、〆作業と次の日の買出しリストを作り、家に帰る。

当たり前の作業ですが、何一つ上手くいかない中で、その生活に僕自信も疲弊し切っていたのもあります。

閉店日を決め、お客さんへ伝えていきました。

最終日に続々と予約を頂き、最後は終日満席に。

最後の日は結局朝まで営業し、お店で地元の友達と昼過ぎまで雑魚寝。

最後のお見送りをし、誰も居なくなった店内で一人、後片付けをしていると涙が止まりませんでした。

あの時の感情は上手く表現出来ません。

ただ言えることは

「辞めたら全てを失う」こと
「続けることの大切さ・続けることの難しさ」です。

個人で行う継続(勉強などのスキルアップ全般)ではなく、看板(アパレルではブランド)を掲げた事業を辞めてしまうと、積み上げた財産は一瞬にして失う。

従業員さんは勿論のこと、そこに関わる業者さん・支えてくれたお客さん・働いていた思い出の詰まった場所。まるで、存在しなかったかの様に消えてしまうのです。

芽を出し、花を咲かす

「継続」することで言えば、blogなんて書ける訳ないと思っていましたが、この「note」も続けることで、こんな拙い文章でも、記事をアップすると毎回「スキ」を押して下さる方がいらっしゃいます。

ポストを始めて丁度一ヶ月が経ちますが、始めた頃は1週間で20回だった閲覧回数も、2日で100回を超える程、見て頂ける様になりました。大した数字ではないかもしれませんが、こんな僕の文章に時間を割いて見て貰えることに感動するのです。

事業も同じで、地道に一日一日継続して行くこと。そこに近道は無く、続けるからこそ、いつか何かが芽を出す。

でも、そんな希望を抱いて日々過ごしていても、当たり前の明日が来る保証はどこにもありません。

毎朝の会社での「おはよう」の挨拶。

「家」よりも「会社」に居る方が長い人生において、当たり前の様な光景ですら、守って行くことは容易ではありません。

事業性にも問題があったと思いますが、飲食時代は「東日本大震災」、父の会社は「コロナウイルス感染拡大」と、社会的な問題が起きた時、「日々の積み重ね」が試される事象が必ずやって来る。

「今出来ることを全うし、どこに埋まっているか分からない種に水を与え続けること」

沢山の「挑戦」と「失敗」を経て「経験」を積み「納得」するまで辞めないこと。

「夢」を叶えることは、誰しも出来る訳ではありませんが、夢のために「やり抜く」ことは出来るのかもしれません。

「もうやりきったね・・・」そう思う時が来るのか、その道中に「花を咲かせる」ことが出来るかは分かりませんが、飲食時代の「経験」と「過ち」を今の事業に生かしていけたらと思います。

飲食時代編最後になりましたが、閉店後、僕はまた父のアパレルの会社に戻りました。
奥さんとは、「離婚」という形を取り別々の道へ。

アパレル「企画」「生産管理」という二つの部署のポストは前にしましたが、次回はアパレルメーカーが抱える「在庫」についてポストします。

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