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小さな時計

木漏れ日を眺めていると、どこかに時計があるという時間も忘れてしまった。まるでミヒャエル・エンデの「モモ」を子どもの頃に読んだと錯覚してしまう。子どもの頃の僕は、好奇心が人一倍強く、時間が過ぎるのがゆっくりと感じられた。意識とは、実に不思議なものである。最近になって、子どもの頃に体験した「意識=時間」の構成、優しくいえば時間泥棒のことになると現在1日に経験したことの意味がとても弱く思えるようになった。感覚がもたらす、情緒や体験が少しずつ失われていくものだと感じてさえいた。思想はともかく、近代文学の寵児であった三島由紀夫氏の「時空に関する芸術」に興味があり、神楽坂の本屋で何冊も買って読んだ。大乗仏教で、夢と輪廻転生を描いた遺作「豊饒の海」(春の雪、奔馬、暁の寺、天人五衰)は文章の構成やライフワークとしての人間性が素晴らしく、20才の頃に一気に読んだ。文章が好きな人に共通して言えることは、それが聳え立つ塔のような知識の壁となり、精神的な安定剤にも繋がることが多い。最近、見かけた呟きでは、漱石ほどカントを研究していたという意見も多数見られる。そんな論考を礎として、ほんわりした詩を書いてみたい。

とある芸術家の中に、写真家がいた。その女性は、水墨画でシャポン玉の中に内的宇宙があり、マクロ宇宙の中にシャポン玉を吹いて生産している夢世界があるという。王女は、心の中に影走る幻影を見ていた。それは、実在的なものではなく、ナイアガラの滝が城のテラスから見られるような花火を庶民的な目で見ていた。ミクロコスモスとマクロコスモスの描写の中で、その「王女」が美を語る時に何を見ていただろうか。

私は、衛兵であった。衛兵とはテラスから見る愛に溢れているものだと常識的な感覚を見る。そして、その牙城を必死で守り抜く。白馬という憧憬が、向こうの方から、近寄ってくる時、雨上がりの波の音が、ジタバタと飛沫をあげて向かってくる。その収束は、王女の夢であって、また想像力の対象でもあった。白馬の騎士は、厳粛に王女に近寄る。

Silentium!(厳粛に)

王女の世界は、たちまちの裡に崩壊していき、子どもが好きなシャポン玉の中に反映される。それはメルヘンチックなものであったり、複雑なシャポン玉の群れに淡い恋を魅せつけられた物語に発散していく。天から、降り注ぐ雨の中で、シャポン玉は力強く生き続けて、物語が遠近感を成して構成される。王女が白馬と出会った恋は、無に帰り、限りなくその距離は遠くに感ぜられる。そういう風景というのは、称賛されるものであって、王女には知らさせていない。

写真には、水墨画をデッサンしている女性の姿が見える。しかし、私が芸術家から見せてもらったものでもない。それは、原理的に白樺が揺れるように、夜を守ってくれた衛兵への感謝かも知れない。

月夜が、私に問う。
馬車の歪みから来る二人、夜に愛し合う微風、懺悔の振り子、さよならの無い記憶、想いを捨てた夏、小刻みに刻む秒針、力が織りなす夢、エルミート、メルヘンなオモチャ、恋の降る雪、驟雨がもたらす愛、労働という斥力、自由を思いやる気持ち、心の傷口。

僕が描いた子どものシャポン玉の内外で行われる作用は、きっと夢に近いものだろう。それでも、あの長い子どもであったという色彩豊かな想像力と絵を描く意識の流れが時間という関係性に寄って、人に大切なことを教える。それは、傷づいた女性が花や草木に生まれ変わるロマンというよりも、衛兵がテラスで愛を呟いていた幻想の中で、幻想として階級から直視した現実に他ならず、永遠というものが「小さな時計」に収まると良いなという漱石の書くほんわりした範疇の小説が与えてくれた写像を、少しだけセンチメンタルに飾ったものである。

月夜に、テラスで王女はシャポン玉を吹いてみた。そこに現れたのは、現実ではなく、夢の世界で体験した強い寂しさはあれども、季節が移り変わる時に、恋をした「明るさの度合い」だったのかもしれない。 

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