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読書メモ②

※2024年2月更新

更新した本の中で特におすすめなのが、
・近内悠太著 『世界は贈与でできている』
・影山智明著 『ゆっくり、いそげ』
です。
これからも随時更新していきます。

~~~

2023年12月より始めた読書メモです。以前はEvernoteでまとめていましたが、①目次機能があること、②毎日noteを見ているため見返しやすい、ことを理由にnoteに切り替えました。
めっちゃ私的なメモ(というよりほぼ抜粋)なので、ずっと下書きのままにしていたのですが、「あ、こんな本もあるんだ」という発見にももしかしたらなるのかなと思い、投稿した次第です。随時、更新していきます。


あ行

有光興記著 『自分を思いやる練習』

私たちは、「この人のことが好きだ」と思うと、その状態を継続したいと強く願います。これは、愛情というより欲求です。そして、いったん手に入れると、得たものを手放したくなくなりますが、これを執着と言います。

p115

か行

影山智明著 『ゆっくり、いそげ』

こういう価値のやり取り、いわば「お互いさま」な交換は、特定的な顔の見える関係の中だからこそ成り立つ。

p29

ただ自分が問題提起したいのは、経済とは「手段」ではないのか、ということだ。
人が幸福感をもって日々を生きる、そのために経済がある。

p38

面白いのは、世に「消費者的な人」と「受贈者的な人」とがいるわけではないということだ。事はそれほど単純ではなく、きっとあらゆる人の中に両方の人格が存在し、時と状況によってそれぞれが発現するのだ。

p54

考えるに、「クレーマー」とは人の中にある「消費者的な人格」の一つの行き着く先とは言えないか。

p58

資本主義も一つのシステム(仕組み)だ。
システムとは、ルール/約束事の集合体。
資本主義の場合、個人は自身の経済的利得を最大化するべく振る舞うことが想定される。
(中略)専門的な話はともかくとしても、システムを形成する際には多くの場合「期待される成果」や「目的」が設定される。
資本主義の場合それは、個人の経済的利得の最大化と、システム全体として生み出す経済的価値の最大化だ。
(中略)重要なのは、その過程では個々人の意思や主観は、副次的なところに追いやられるということなのだ。

p86~87

⇒資本主義をハックするためには、この逆、個々人の意思や主観を大切にする活動を、資本主義の只中で行っていけばよい。

明治期に”society”という言葉が入ってきた当時、これにどういう日本語訳を当てるか議論になったという。結果的には「社会」という語が普及・定着し、今もぼくらはこの言葉を使っている。ただ、個人的にはこの訳語は、「どこか自分とは遠く離れたところにある大きな何か」を指すニュアンスがあるように感じ、あまり好きになれない。「社会」に自分が含まれている感じがしないのだ。
そして実はかつて、”society”に当てる訳語としてもう一つ「人際交流」という候補があったという。なるほど、と思う。つまり「私とあなたの関わり」の集合体とでもいったところか。
そう、社会とは、一つ一つの関わり、一つ一つの交流の集合体なのだ。
(中略)とすると、もし一つ一つの関わり合いの「原則」を変えることができたなら、それらの無限ともいえるような積み重ねが、積もり積もって世の中に大きな変化をもたらすことだってあるのではないだろうか。
「利用し合う」関係から「支援し合う」関係へ。

p114~115

本当は、「受け手」の存在が「贈り手」を育てる。

p124

きわめて単純化してしまえば組織力/チーム力とは、「個々人の力の総和」×「チーム内の関係性」のようなものだ。
(中略)ただ、いずれにせよ前者が育っていかないことには会社やお店は成長しない。一人ひとりがそれぞれに多くの人と出会い、技を磨き、経験値を高め、世界を広げていくことは、直接・間接にお店にも必ず還ってくる。

p148~149

クルミドコーヒーでは、どんな仕事にもそれをつくる人の「存在」が感じられるものづくりをしていきたいと思っている。最終的にそれを受け取った人を癒し、鼓舞しうるのは、技術や知識ではなく、哲学や価値観ですらなく、それをつくり届ける人の存在だと思うからだ。
(中略)それは「人に仕事をつける」ということでもある。誰か特定の人に合わせて仕事が生まれ、その人を失うとその仕事自体が失われる。
経営学の教科書ではむしろ逆のことが教えられる。「仕事を人につけよ」と。
(中略)ただ、「仕事に人をつける」ーそれを突き詰めていくと人はどんどん「替えのきく」存在になっていく。

p159~160

「まわりをいかす」→「まわりにいかしてもらう」→「自分をいかす」。
これでいいのだ。自分が何をやりたいのか、自分が何に向いているのか、迷って動けなくなるくらいなら、まわりの頑張っている人を応援することから始めればよい。

p166

通常、ビジネスにおける成果は、次の数式で測られる。
 成果=利益÷(投下資本×時間)
分子をできるだけ大きく。分母をできるだけ小さく。
(中略)だからビジネスの世界では、時間をかけることは「悪」だ。

p217~218

記号化された「情報」「コンテンツ」を手に入れるだけであれば、電子書籍は十分にその期待に応えてくれる。
(中略)ただ、ぼくらの作りたかった本はそういうものではない。
ぼくらが提供しているのは「時間」。
これはクルミドコーヒーにおいても常に意識してきたことだった。ぼくらが提供しているのはコーヒーやケーキといった「コンテンツ」ではない。それは、「いい時間を過ごしてもらう」こと。取り扱っているのは「時間」なのだと。
そのためにはどうしたらいいのか?
そう考えたときに辿り着いたぼくらなりの(ひとまずの)結論が、「存在を傾けた、手間ひまのかかった仕事をちゃんとすること」だった。まずこちらが時間をかけること。

p221

あらゆる仕事の正体は「時間」であると思う。
それも機械が働いた時間ではなく、人が働いた時間(「働かされた時間」ではなく)。
そして、仕事に触れた人は、直接的にその仕事に向けて費やされた時間の大きさを感じ取るセンサーを持っているのではないかと思う。そしてその費やされた時間の大きさと、そこから生じる「快」の感覚は一定の相関性を持っているのではないか。それは言語的なものではなく、ときには意識すらされないものであったとしても、「なにか落ち着く」「気持ちがいい」「からだがよろこんでいる」のような形で感得されるもの。

p222

存在を傾けた、手間ひまのかかった仕事をちゃんとすること。
そしてその仕事を受け取ってくださった方に、時間をかけてちゃんと寄り添い続けること。
これが「時間と戦う」のではなく、「時間とともにある」人の働き。
そうすればきっと時間は味方になってくれる。

p227

改めてこの数式に立ち返ろう。
 成果=利益÷(投下資本×時間)
自分はこの数式自体を否定していない。
(中略)ただこの数式の使い方を、二つの点で変えていってはどうかと思う。
一つは分子にある「利益」の定義を変えること。
もう一つは、分子を目的にするのではなく、分母を目的にすること。
(中略)目的を、動機を、「ギブすること」にしてみる。
かけるべき時間をちゃんとかけ、かけるべき手間ひまをちゃんとかけ、いい仕事をすること。さらにその仕事を丁寧に受け手に届け、コール&レスポンスで時間をかけて関係を育てること。つまり「贈る」ことを仕事の目的にする。
そして分子を「結果」と捉える。

p229,234

熊谷晋一郎著 『リハビリの夜』

施設にいる大人は私の一挙手一投足をじっと見た。それは私のことを見ているという感じではなくて、何か私の気持ちの在りかとは別のところに焦点が合っているような、こちらからは関われなさそうな視線だった。きっと大人たちは、「緊張が強いな、どういう介入がよいかな」などと思いながら、私の動きを見ていたのだと思う。そんなまなざしの先で、私は体の緊張を強くして「障害児」になる。

p57

「障害」という体験は、ある社会の中で多数派とは異なる身体的条件をもった少数派が、多数派向けに作られた社会のしくみ(ハード、ソフト両方)になじめないことで生じる、生活上の困難のことである。

p83

小林武彦著 『なぜヒトだけが老いるのか』

  • シニアがいる集団が繁栄したため、そのようなシニアの遺伝子が選択され、現在に至った。しかしその現在、シニアが過剰になってきていて、今後長い目でみて、「変化と選択」が行われるかもしれない。

  • 進化とは「変化と選択」。たまたま起こった変化が、たまたま環境に適応して、選択される。

  • 良い意味での「シニア」とは、利他性をもって、次世代に繋ぐ活動をする人である。元々、生物は死をプログラムされて利己的、つまり勝手に産まれてくる。そして死ぬことが進化の原動力になる。生が利己的、死が利他的、公共的。

  • シニアは自分なりに咀嚼した知識を全て吐き出し、ゼロにしてから死ぬことことは、公共的で利他的な死に方ではないか。

なぜヒトだけが老いるのか。それは死を意識し公共を意識するためです。死は何のためにあるか。それは進化のためです。進化は何のためにあるのか。それは私たちも含めた地球上全ての生物の存在理由なのです。

國分功一郎著 『中動態の世界』

そして、この表現は決定的に重要である。言語が思考を規定するのではない。言語は思考の可能性を規定する。つまり、人が考えうることは言語に影響されるということだ。

p111

(・・・)すなわち、われわれはふだんそうは意識していなくてとも、アレントの言うように、意志を、何事かを開始する能力として理解している。だからこそ、この言葉に基づいて責任を考えることができる。
ある行為が過去からの帰結であるならば、その行為をその行為者の意志によるものと見なすことはできない。その行為はその人によって開始されたものではないからである。たしかにその行為者は何らかの選択はしたのだろう。しかしこの場合、選択は諸々の要素の相互作用の結果として出現したのであって、その行為者が己の意志によって開始したことではないことになる。

p131

権力は人々が行為するのを妨げるのではない。権力は行為に働きかけ、人がある行為をするように、もしくは、その行為のあり方を規定するように作用する。言い換えれば、権力は人がもつ行為する力を利用する。

p146

(・・・)ところが、能動と受動を対立させる言語は、行為にかかわる複数の要素にとっての共有財産とでも言うべきこの過程を、もっぱら私の行為として、すなわち、私に帰属するものとして記述する。やや大袈裟に、出来事を私有化すると言ってもよい。

p176

(・・・)この事実は、能動対受動の対立図式がどれほど行為の帰属という観点に取り憑かれているかを実に分かりやすく示すものである。もともと大差のない表現であるのにもかかわらず、「その行為を誰に帰属させるべきか?」という問いが作用するや、両者は対立させられる。
(中略)そして言うまでもなく、この問いによって前景化されるのが意志に他ならない。
私は姿を現す。つまり、私は現れ、私の姿が現される。そのことについての現在の言語は、「お前の意志は?」と尋問してくるのだ。それはいわば尋問する言語である。

p182

言語はたしかに生き物のように変化する。しかしそれは、言語がまさしく人の心や社会のように、歴史という環境のなかにあって常に数々の要求を突きつけられ、自らに抑圧を行使し、そしてそれゆえの矛盾を抱えながら存在しているからの他ならない。(中略)言語が変化するのはその抑圧の形が変わるということである。言語はこの条件を絶対に超えることができない。

p196

人は意志するとき、ただ未来だけを眺め、過去を忘れようとし、回想を放棄する。繰り返すが、意志は絶対的始まりであろうとするからである。そして、回想を放棄することは、思考を放棄することに他ならない。なぜならば、人はそれまでに自分が受け取ってきた情報にアクセスすることなしにものを考えることができないからである。
つまり、ハイデッガーはこう言っているのだ、意志することは考えまいとすることである、と。

p206

國分功一郎著 『目的への抵抗』

ものすごく遠くにあるボンヤリした関心事とものすごく近くにある課題を大切にする。その間のことはなかなか思うようにならないと分かっておく。かなり人生論的な話ですけれども、これが今日、僕が若い人たちにお伝えしたいことの一つです。

p25

・・・その中でソクラテスが自分自身の哲学者としての役割のようなものを語っています。
(中略)哲学者というのは社会(ポリス)にとってチクリと刺してくる虻のような存在であり、チクリと刺すことによって人々を目覚めさせる役割を担っているわけです。

p45

よく思い出すマハトマ・ガンジーの言葉があります。「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」。自分が何かをしてもすぐに社会は変わりません。それでパッと変わってしまったら、そっちのほうが恐ろしい。だけど、意見を表明したり、考えたり、話したりする限り、「もうこれで仕方ないんだ」と思い込むような人間になるのを避けることができるのではないですか。

p114

浪費は生存のための必要を超えた支出の享受を意味しました。それは言い換えれば、限界を超えて物を受け取ることです。限界を超えて物を受け取るわけですから、浪費は満足をもたらします。そして、満足すれば浪費は止まります。
(中略)ところが、消費には終わりがありません。なぜか。浪費の対象が物であるのに対し、消費の対象は物ではないからです。消費は観念や記号を対象とするものだとボードリヤールは指摘します。

p136

浪費はどこかで満足して止まるという点は極めて重要です。なぜならば、自分たちが奪われている楽しみや豊かさを取り戻すことによってこそ、大量生産・大量消費・大量投棄に基づく消費社会の悪循環に亀裂を入れることができるという視点が得られるからです。

p140

つまり資本は、現状に対して疑問を抱き、何事かに気づき始めた人間を、これまで通りの消費社会の論理に連れ戻そうとするのです。だとすると、すべてを目的に還元する論理、目的をはみ出るものを許さない論理は、消費社会の論理を継続するために、現在、この社会で支配を広げつつあるのだと言うことができるのではないでしょうか。

p145

目的によって開始されつつも目的を超え出る行為、手段と目的の連関を逃れる活動、それは一言で言うと「遊び」ではないでしょうか。

p179

結果として充実感を得ていることと、充実感のために何かをすることとは、外側から見ていると区別ができないかもしれません。(中略)しかし、この区別は大切です。

p192

國分功一朗著 『暇と退屈の倫理学』

一九世紀の資本主義は人間の肉体を資本に転化する術を見出した。二〇世紀の資本主義は余暇を資本に転化する術を見出したのだ。

p147

消費社会とは、人々が浪費するのを妨げる社会である。

p175

現代では労働までもが消費の対象になっている。
(中略)労働が消費されるようになると、今度は労働外の時間、つまり余暇も消費の対象となる。

p177~178

退屈は消費を促し、消費は退屈を生む。

p188

「疎外」という言葉は人に、本来性や<本来的なもの>を思い起こさせる可能性がある。
<本来的なもの>は大変危険なイメージである。なぜならそれは強制的だからである。(中略)本来性の概念は人から自由を奪う。
それだけではない。<本来的なもの>が強制的であるということは、そこから外れる人は排除されるということでもある。

p192

大切なのは、魚釣りはしても漁師にはならなくてよい、文芸評論をしても評論家にならなくていいということではないだろうか?それは余暇を生きる一つの術である。

p224

人間が頭のなかで抽象的に思い描く「世界」なるもののことを、ユクスキュルはとりあえず「環境 Umgebung」と呼んでいる。これは環世界を、私たちは普段想像する「世界」から区別するための言葉である。実際にはこの「環境」なるものは虚構である。だれも何も、そんな「環境」を生きてはいないからである。それぞれの生物はそれぞれの環世界を生きているのだ。
さきほどは非常に抽象的なダニの環世界を例として取り上げてみた。だが人間についても同様のことが言えないだろうか?森で森林浴をしようとする散歩者、狩りをする猟師、森林の状態を検査する森林検査官、植物を採取する植物学者。彼らは同じ森を同じように経験するだろうか?

p302~303

この環世界を移動する生物の能力を本書では「環世界間移動能力 inter-umwelt mobility」と名付けたい。そしてそれを人間と動物の差異について考えるための新しい概念としてここに提唱したい。

p331

人間はおおむね第二形式の退屈を生きている。そして時折、何らかの原因で退屈の第三形式=第一形式の構造へと逃げ込む。つまり、人間はたいていは一方に留まっているが、時折もう一方との間を往復する。それが人間の生である。

p371

楽しむことは思考することにつながるということである。なぜなら、楽しむことも思考することも、どちらも受け取ることであるからだ。

p406~407

さ行

斎藤幸平著 『人新世の資本論』

そう、資本主義こそが、気候変動をはじめとする環境危機の原因にほかならない。

p117

近年進むマルクス再解釈の鍵となる概念のひとつが、<コモン>、あるいは<共>と呼ばれる考えだ。<コモン>とは、社会的に人々に共有され、管理されるべき富のことを指す。
(中略)ただし、「社会的共通資本」と比較すると、<コモン>は専門家任せではなく、市民が民主的・水平的に共同管理に参加することを重視する。そして、最終的には、この<コモン>の領域をどんどん拡張していくことで、資本主義の超克を目指すという決定的な違いがある。

p141~142

資本主義は、自らのために「人工的希少性」を生み出す。だからこそ、潤沢さこそが資本主義の天敵なのである。
そして、潤沢さを回復するための方法が、<コモン>の再建である。そう、資本主義を乗り越えて、「ラディカルな潤沢さ」を二一世紀に実現するのは、<コモン>なのだ。
(中略)<コモン>を通じて人々は、市場にも、国家にも依存しない形で、社会における生産活動の水平的共同管理を広げていくことができる。その結果、これまで貨幣によって利用機会が制限されていた希少な財やサービスを、潤沢なものに転化していく。要するに、<コモン>が目指すのは、人工的希少性の領域を減らし、消費主義・物質主義から決別した「ラディカルな潤沢さ」を増やすことなのである。

P258,266

貧相な生活を耐え忍ぶことを強いる緊縮のシステムは、人工希少性に依拠した資本主義の方である。私たちは、十分に生産していないから貧しいのではなく、資本主義が希少性を本質とするから、貧しいのだ。これが「価値と使用価値の対立」である。
(中略)資本主義の人工的希少性に対する対抗策が、<コモン>の復権による「ラディカルな潤沢さ」の再建である。これこそ、脱成長コミュニズムが目指す「反緊縮」なのだ。

p269

『資本論』で展開された物質代謝論によれば、人間と自然は労働でつながっているのだ。だからこそ、労働のあり方を変えることが、自然環境を救うために、決定的に重要なのである。

p291

ここでの矛盾は、「使用価値」をほとんど生み出さないような労働が高給のため、そちらに人が集まってしまっている現状だ。(中略)だからこそ、「使用価値」を重視する社会への移行が必要となる。それはエッセンシャル・ワークが、きちんと評価される社会である。
(中略)脱成長コミュニズムがケア労働に注目するのは、環境に優しいからだけではない。今、世界のあちこちで資本主義の理論に対抗して立ち上がっているのが、ケア労働の従事者だからだ。

p315~316

ハーヴァード大学の政治学者エリカ・チェノウェスらの研究によると、「三・五%」の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わるということである。

p362

斎藤幸平+松本卓也編 『コモンの「自治」論』

新自由主義化した権力は、管理の行き届かない空間が存在することが許せないのです。その場所で何か悪いことが行われているかどうかが問題ではない。何が起きていようと、管理下にない空間があること自体が、あってはならないこととされるわけです。
(中略)何となく「私はここにいてよいのだ」と思い込める空間がない時、あらゆる空間は「私がここにいてよいということを自ら証明しなければならない」空間になります。

p39~40

公的でない私的な場所であるがゆえに、逆に公共的な役割を担えるのです。店という空間は、本当に小さくてとるに足らない場所に見えます。でも、そこにしかない可能性があるのです。

p72

資本主義のただなかにありながらも、孤島のように、資本の理論とはまったく違う形で営まれている店から「自治」を考えてみる。それは、そもそも政治とは、国会や国連総会などの大きな組織的な場でのみ起きていることではない、と発想の転換をすることでもあります。
(中略)失恋して苦しむ人に、さりげなく配慮する。不登校の子が安心して通ってきて気軽に話ができる場所をつくる。店という場で生まれる「市場の共同性」には、ある種の「ケアの共同性」があると言えます。
(中略)店で生まれる自律的でありながらも、他者に配慮する関係性。それは地域や組織や自然資源といった、すでにある「コモン」を維持管理するための「自治」ではありません。町のなかの小さな場所を自分たちの守るべき「コモン」だと思える人たちが集うことで生まれる「自治」です。

p76~77

しかし、もう一度<コモン>とは何かを問い直すと、誰もが「生きていく」ために必要とする共有財産のことですから、<コモン>の再生を考えるならば、命を育むという<ケア>の思想を強く意識することが本当は必要だったのです。
(中略)こうした問題の解決策として、たとえば、先述した地域政党「バルセロナ・イン・コモン」はデイケア・サービスのコモン化を打ち出しました。

p98~101

この危機感の背景には、たとえば、「オーガニック」や「無農薬」という言葉が、その背景にある公害の歴史が思い起こされることなく、消費を促す記号となっていることや、小さな運動体が大きな組織になることで、次第に理念が形骸化していくことがあります。オンライン・ショッピングでクリックすれば玄関に無農薬野菜や無化学肥料の野菜が届けられるような有機農業の資本主義化は、黎明期に目指されていた生産者と消費者の対話というよりは、「有機農業」という新しい市場の形成であり、有機農業が挑戦していた資本主義の弊害の克服というよりは、資本主義の補強とも言うべきもので、「自治」とは異なるものに陥っています。

p229

だから、私たちが腹の底から理解しなくてはならないのは、いくら「上から」の改革があっても、現場の運用が変わらないなら、人々が救われることは決してないという事実です。

p245


サリンジャー著 『フラニーとズーイ』

そもそも俳優というのは身軽に旅するべきものなんだ。

p90

言わせてもらえば、僕はとにかく何がなんでも外国に出て仕事をしたがる、いわゆる『クリエイティブな人種』が大嫌いなんだ。

P197

僕はあいつのうぬぼれが好きだ。あいつはあまりにもうぬぼれが強いんで、結果的にはおそろしく謙虚になるんだよ。

p204

つまりさ、君は彼らが代表しているものを忌み嫌うのではなく、彼らを忌み嫌っている。それでは個人的な次元の問題になってしまうんだよ。

p233

君はエゴについて語り続けている。しかしね、何がエゴであって何がエゴでないか、それを決めるなんて、まったくの話、キリストその人でもなきゃできないことなんだよ。~~しかしエゴについて十把一絡げにわめき立てるのはやめてもらいたい。僕の意見を僭越ながら言わせてもらえるなら、この世界のいやらしさの半分くらいは、自分たちの本当のエゴを用いていない人々によって生み出されているんだ。

p240

君の脳味噌はどこにあるんだ?もし君が普通じゃない歪んだ教育を受けたのだとしたら、少なくともそいつを活用しなくちゃ。そいつを逆手にとって使わなくちゃ。

p285

君に今できるただひとつのことは、唯一の宗教的行為は、演技することだ。

p285

俳優がどこで演技をしようが、そんなことは僕にはどうでもいい。~~そこにはね、シーモアの言う太ったおばさんじゃない人間なんて、誰ひとりいないんだよ。~~その太ったおばさんというのが実は誰なのか、君にはまだわからないのか?ああ、なんていうことだ、まったく。それはキリストその人なんだよ。

p290

スコット・フィッツジェラルド著 『グレート・ギャッツビー』

人生というものは詰まるところ、単一の窓から眺めたときの方が、遥かにすっきりして見えるものなのだ。

p15

僕は内側にいながら、同時に外側にいた。尽きることのない人生の多様性に魅了されつつ、同時にそれに辟易してもいた。

p71

ロング・アイランドのウエスト・エッグ在住のジェイ・ギャッツビーは、彼自身のプラトン的純粋観念の中から生まれ出た像なのだ、というのがことの真実である。彼は一人の神の子供ー一般的表現としてではなくまさに字義どおりの意味で言うのだがーとして、父なるものの仕事の従事し、卑しく、けばけばしく、とどまることの知らぬ美に仕えるしかなかったのだ。こうして彼はジェイ・ギャッツビーなる人間を想像したのである。~~そのような夢想が彼の想像力にあるところまではけ口を提供してくれた。現実という非現実について、それは納得のいく示唆を与えてくれた。

p181~182

なぜなら彼に少しなりとも関心を抱いている人間は、僕のほかにいなかったからだ。ここで言う「関心」とは、人はたとえ誰であれ、その人生の末期において誰かから親身な関心を寄せられてしかるべきだという意味合いにおいての関心のことである。明言されておらずとも、それは人たるものの固有の権利ではあるまいか。

p295


た行

近内悠太著 『世界は贈与でできている』

贈与とは、モノを「モノでないもの」へと変換させる創造的行為に他ならないのです。
だから僕らは、他者から贈与されることでしか、本当に大切なものを手にすることができないのです。

p22

映画「ペイ・フォワード」から得られる教訓、それは「贈与は受け取ることなく開始することはできない」というものでした。そしてこれが贈与の原理の一つです。

p41

正確には、そのような自己利益を見込んでの行為なのにもかかわらず本人の主観的には純粋な善意による一方的な贈与であると装うことを、僕らは偽善と呼ぶのです。
彼らの合言葉は「お前のことを思って言っているんだよ」という呪いの言葉です。(中略)なぜ偽善かというと、それは等価交換を贈与だと言い張るからです。それを「自己欺瞞」といいます。
(中略)そして、プレヒストリーなき贈与は必ず疲弊します。(中略)それを「自己犠牲」といいます。
多くの人が贈与を恐れる理由はおそらくここにあります。見返りを求めない贈与は自己犠牲ではないのか、と。
ですが、すでの受け取ったものに対する返礼であるのならば、それは自己犠牲にはなりません。
(中略)結局、贈与になるか偽善になるか、あるいは自己犠牲になるかは、それ以前に贈与をすでに受け取っているか否かによるのです。

p44~45

「金で買えないものはない」のではありません。そうではなく、「金で買えないものはあってはならない」という理念が正当なものとして承認される経済システムを資本主義というのです。
だからそのシステムの中では、あらゆるものが「商品」となり、あらゆる行為が「サービス」となり得る。その可能性を信じ切る態度を資本主義と呼ぶのです。
それは言い換えれば、もし仮に金で買えないものがあったとするならば、それは、「買えない」と思い込んでいる僕らのほうが間違っていると主張する立場のことです。だとするならば、資本主義とは経済システムのことではなく、一つの人間観です。

p57

現代を生きる僕らは「意味の欠如」を恐れます。無益と思えることを極端に避けようとします。
だからこそ、僕らの善意はセカイ系の贈与という形になってしまう。
しかし、それは贈与に見せかけた交換にすぎません。
交換の理論は、対価や金銭的見返りだけでなく、その交換の「意味」を、今すぐ今ここで求めます。自身の贈与の意味をその場で回収しようとするのです。
これは明らかに認知的な失敗です。
他者への影響は極めて小さいかもしれませんが、ゼロではありません。
無力と微力は違うはずなのに、微力は無力と見なされてしまう。
だから、これは想像力の問題なのです。
想像力が無ければ、贈与に関して認知的に失敗する。

p67

呪いとは「思考と行為の可動域」に制約をかけるものの総称です。
他者の善意はときとして呪いとなる。
そう、僕らがつながりに疲れ果てるのは、相手が嫌な奴だからではありません。
「いい人」だから疲れ果てるのです。
いや、正確には「いい人だと偽る人」からのコミュニケーションによって疲れ果てるのです。
そしてここに、贈与と交換の交錯地点があります。

p74

また、田口は先のエッセイの中で、呪いは「意味不明の言葉の反復」という形を取ると指摘しています。
なぜ「意味不明の言葉の反復」が重要になるのか。
(中略)通常の文脈では、何度も同じ言葉を口にするという行為は、「あなたはこの言葉の意味をまだ分かっていない」というメタメッセージを含みます。さらには「この言葉には重要な意味があり、あなたはこれを理解しなければならない」という命令のメッセージすら送ることができます。
また、なぜ「意味不明」かというと、ベイトソンがいうように、メッセージとメタメッセージが矛盾しているからです。これはメッセージが「ナンセンス」であるということではありません。
ナンセンスなものは力を持たないが、矛盾は強い力を持つ。
非合理なものを僕らは無視することができるが、不合理なものに遭遇し、そこから出ていくことを禁じられたとき、僕らは一切の動きを封じられ、生命力が奪われる。
しかし、反復することで矛盾したメッセージに「このメッセージには意味がある」というメタメッセージを込めることができます。
そのゆえ、強いつながりの人間関係の中で意味不明なメッセージを反復することは、呪いとしての効果を最大限発揮する手法となるのです。

p86~87

そう、贈与は差出人に「届いてくれるといいな」という節度を要求するのです。
贈与の呪いの正体は、その節度の無さ、祈りの不在だったのです。そしてその節度の無さとは、贈与は必ず届くという信念から生まれます。

p111

贈与は、差出人にとっては受け渡しが未来時制であり、受取人にとっては受け取りが過去時制になる。
贈与は未来にあると同時に過去にある。

p112

僕らは受取人としてのポジションからゲームを始めるのです。
だとすれば、贈与において最大の関心事は「どうすれば贈与を受け取ることができるのか?」という問いに集約されます。
受取人においては、贈与は過去の中にあるのでした。ですが、もちろん「過去そのもの」はもはや存在しません。
だから、そこには想像力が要請されます。
贈与は差出人に倫理を要求し、受取人に知性を要求する。
これは本書の贈与論において、決定的に重要な主張です。
そして、倫理と知性はどちらが先かと問われれば、それは知性です。
つまり、受取人のポジションです。
なぜなら、過去に埋もれた贈与を受け取ることのできる主体だけが、つまり贈与に気づくことができた主体だけが再び未来に向かって贈与を差し出すことができるからです。

p113

このように、実践を通してゲームが成立するがゆえに、事後的にルールというものがあたかもそこにあるように見える、というのがウィトゲンシュタインの主張のポイントです。
ウィトゲンシュタインは、そのようなゲームを「言語ゲーム」と名付けました。
(中略)このように、他者のことを理解できないのは、その心の内側が分からないからではありません。
その他者が営んでいる言語ゲームに一緒に参加できていないから理解できないと感じるのです。
(中略)他者と共に生きるとは、言語ゲームを一緒に作っていくことなのです。

p126,134,136

アノマリーとは「(科学的)常識に照らし合わせたとき、うまく説明のつかないもの」一般を指す言葉です。
(中略)パラダイムという「地」があって初めて、アノマリーが「図」として現れる。平たく言えば、僕らの常識があるから、その常識から逸脱したアノマリーに気づくことができます。
求心的思考とは、常識の枠組みのほうを疑うのではなく、それを地として発生するアノマリーを説明しようとする思考のことです。

p155,159,

贈与はアノマリーとして僕らの前に姿を現す。

p182

シーシュポスは、この世界が無秩序で混乱に満ちた場所になるのを、未然に防ぎ続ける存在の比喩と見ることはできないでしょうか。
(中略)この社会の秩序と安定を維持し続ける贈与者。
シーシュポスは、その事実を語るのです。

p205

その功績が顕彰されない影の功労者。歌わざる英雄(unsung hero)。
アンサング・ヒーロー。
それはつまり、評価されることも褒められることもなく、人知れず社会の災厄を取り除く人ということです。
(中略)僕らはあるときふと、その事実に気づきます。
(中略)だからアンサング・ヒーローは、想像力を持つ人にしか見えません。
(中略)この文明の秩序というアノマリーに気づき、それを合理化するプロセスを経て、初めてアンサング・ヒーローがいたはずだ、いたに違いないと知ることができるのです。

p209~211

他者から贈与されることによって(中略)市場における交換を逸脱する。そのゆえに、僕らはそれに目を向けることができ、それに気づくことができるのです。
だから、贈与は市場経済の「すきま」に存在すると言えます。
いや、市場経済のシステムに存在する無数の「すきま」そのものが贈与なのです。

p224

土井善晴著 『味付けはせんでええんです』

岡潔は人間の「わかる」を三つの段階に分けて説明します。まずは、「事柄がわかる」こと。(中略)その次が、意味がわかる「理解する」というわかり方。しかし、これでも不十分です。さらに進んで「情緒がわかる」まで行かないといけない。

p11

超革新的料理「エル・ブジ」が続かなかった理由
(中略)しかし、そこから普遍的なものは生まれませんでした。
(中略)同じ驚きでは満足は得られず、二度三度味わいたいという人はいないということです。

p24~25

そもそも味覚と嗅覚は言語中枢とはつながっていない.・・・・・・と、解剖学者の養老孟司先生に教わりました・・・・・・ので、味やにおいは、言葉にすることができないのです。
(中略)でも、味覚・嗅覚が言語中枢とつながらないことには理由があると思います。
料理に「人間の幸福につながる大切な意味」を持たせてくれていたのです。テーブルを囲んで、一緒に食べた人だけとおいしさを共有できるのです。

p27

幸せが目に見えないのは、それが状態だからです。(中略)その幸せもまた、自ら振り返ることで認識されて、心に留めることができるのです。

p47

日本人の清潔感とは、「なにもない」を好むことのあらわれです。なにもないところに、ごく小さな変化が表れるとき、私たちはそれに気づくことができるのです。

p125

公の食の議論は、おいしいという雑念を人間の幸福だと嘯きますが、食はビジネスのコンテンツではなく文化です。

p144

おいしいという快楽や、空腹の満足は、私たちはの理性を鈍らせます。おいしいは想像以上に強烈です。
(中略)おいしいものを食べるというたわいもない一人の罪なんて、ごくわずか、小さなことです。でも、それをみんながやれば、驚くほど大きな負の力として働き、地球の環境にまで、すでに、影響を及ぼしているようです。
おいしいという快楽に向かう脳は、脳内に湧き上がるはずの他者への思いやりを、抑え込んでしまうのです。

p147~149

いや、私の意見に斎藤さんがなんと言うかはわかりません。でも、一汁一菜は、行き詰った資本主義の負の連鎖を断ち切ることができるのです。(中略)お金という現実に対抗できるのでは料理という現実だけです。

p202~203

土井善晴著 『一汁一菜でよいという提案』

情報的なおいしさと、普遍的なおいしさとは区別するべきものです。

p26

「慎ましい暮らしは大事の備え」と言われます。
(中略)地に足のついた慎ましい生活と、贅沢が均衡するところに、日本人の幸せはあるように思います。

p27,36

無償の愛を受けていたからこそ、人にも愛を与えることができるのでしょう。これこそ愛のリレー、清水博先生のいう「与贈循環」です。清水先生によれば、よく言われる「贈与」とは自分の名を残し、見返りを求めるもの。対して「与贈」とは、自分の名を残さないで与えるばかりのことを言います。人間は自分以外の人のために何かをすることこそが本質であり、その与えがまた新たな与えを生み、やがてそれはみずからのところに戻ってくるのだという思想です。

p114

土井善晴著 『くらしのなかの料理学』

だから、手抜きなんて言葉を使って自分や家族を傷つけて欲しくないのです。
(中略)そこで私が勧めたいのは、手を抜くのではなく、「要領よくやる」「力を抜く」ことです。

p15

西洋における人間中心主義の「進化」と日本における自然中心主義の「深化」では、まったく意味が違います。

p61

そういうちょっとした変化に気づいて、うれしくなることを、「もの喜びする」と言います。

p66

これまで繰り返し述べてきたように、和食のおいしさは人為によるものではありません。ですから、和食のおいしさは受け取るより仕方ありません。そういう意味で私は、「味覚のおいしさは思いがけないご褒美だ」と捉えています。

p72

このように、その瞬間を心に留め、心に楔を打つことを日本人は「もののあはれ」と表現しました。(中略)「もののあはれ」とは、あくまで「ただ受け止める」ことであり、それを深く思考せよということではありません。

p88

「人間は料理することで人間になった」と唱えたのは、ハーバード大学のリチャード・ランガム教授です。

p94

たとえば、お茶(道)では、このように亭主と客が心を重ね合うことを、「賓主互換」といいます。お茶のような高尚な世界でなくとも、実際に料理する人と食べる人の間に、そういうものがいつもあるのです。

p101

なぜ利他の心を持つのか。それは、生命の始まりである単細胞生物が、生命維持のために、互いに知覚し、記憶し、協力し合う能力(ホメオスタシス)を持っているからではないかと思います。その性質こそが私たち人間が獲得した「心」の始まりではないかと神経科学者・神経科医のアントニオ・ダマシオは言います。

p105

東畑開人著 『居るのはつらいよ』

「居場所」とは古い日本語では「ゐどころ」と言ったらしい。(中略)おもしろいのは、この「ゐどころ」の「ゐど」には「座っている」という意味があり、さらには「尻」という意味があったことだ。居場所とは、「尻の置き場所」なのだ。

p55

中井久夫という精神科医は、心と体を分けておくのは、それが便利だからだという理由にしか過ぎないと言っていた。(中略)分けることは分かることだ、なんていう言い古された言葉があるけど、さらに付け加えるならば、分割して統治せよと言われるように、分けておくとうまくコントロールできる。調子が悪くなって、「おかしな」状態になるとき、心と体の境界線は焼け落ちる。そのとき、心と体は「こらだ」になってしまう。(中略)こらだはコントロールが効かないから、他者を巻き込んでいく。

p82-83

そう、人は本当に依存しているとき、自分が依存していることに気がつかない。

p114

だから、キテイは、依存労働者には「ドゥーリア」が必要だと述べている。
出産し、赤ん坊を世話することになった母親のために、身の回りのことを手伝ってくれる人のことを「ドゥーラ」という。キテイはそこから着想して、ケアする人をケアするもののことを「ドゥーリア」と呼ぶ。

p117

僕らは二つの時間を生きている。一つは線的時間で、それは僕らに物語をもたらす。もう一つは円環的時間で、それは僕らに日常をもたらす。

p127

遊びは中間で起こるのだ。主観と客観のあわい、想像と現実のあわい。子どもと母親のあわい。遊びは自己と他者が重なるところで行われる。それはすなわち、人は誰かに依存して、身を預けることができたときに、遊ぶことができるということを意味している。
(中略)デイケアのプログラムに遊びが多いのは、決してただの暇つぶしをしているということではないのだ。それがデイケアの治療的仕掛けなのだ。一緒に遊ぶことによって遊べない人を遊べるようにする。自己を他者に重ねることを可能にする。

p154

民俗学でいう「ハレとケ」というやつだ。終わることなく繰り返される「日常=ケ」は徐々に枯れていって、「ケガレ」になってしまう。するとケガレは暴走し、デイケアの平和を脅かす。だから、ときどきハレの時間を挿入することで、枯れたものを生き返らせる。
(中略)その最たるものがスポーツだ。スポーツには勝ち負けがあるから、ふだん封じられている攻撃性にかたちが与えられる。

p166

事件とは、すべての安定した図式を覆すような新しい何かが突然に出現することだ。(ジジュク『事件!』一五項)

p177

だけど、それでも、デイケアにいると、成長しないこと、治らないこと、変わらないことの価値を感じてしまう。
(中略)僕の師匠筋にあたる心理学者、河合隼雄が「先生のおかげで、私もずいぶんと変わりました。変わるも変わるも三六〇度変わりました」とクライアントからのお礼を言われたエピソードを書いている。名言だ。僕たちもそうかもしれない。

p188

デイケアで働きはじめたときに、いちばん戸惑うのがここだ。「おれは治療者なんだ」と気負っているから、「何かしなくては!」と意気込んでしまうんだけど、実際のところ本当の仕事は「やってもらう」ことなのだ。だから、「専門家でございます!」という武装を解除して、メンバーさんの親切をキャッチし、身を委ねられるようになると、スタッフになれる。デイケアに普通にいられるようになる。

p209

デイケアはコミュニティだ。しかも、究極のコミュニティだ。というのも、それは「いる」ために「いる」ことを目指すコミュニティであり、コミュニティであるためにコミュニティであろうとするコミュニティだからだ。

p220

重要なのは「内輪ネタ」なのだ。それはコミュニティの内部で生じて、コミュニティの内側で作用する。(中略)良きコミュニティには内輪ネタが存在する。誰しもが人を笑わせることができて、誰しもが笑えて、そして外部にはまったく波及していかないのが内輪ネタだ。

p224

そう、ケアとセラピーは成分のようなものです。人が人に関わるとき、誰かを援助しようとするとき、それは常に両方あります。

p278

会計はアジールを殺す。その光は、アジールの薄暗さは隈なく照らして、アサイラムにしてしまう。

p325

「ただ、いる、だけ」。その価値を僕はうまく説明することができない。会計係を論理的に納得させるように語ることができない。
(中略)だけど、僕はその価値を知っている。「ただ、いる、だけ」の価値とそれを支えるケアの価値を知っている。僕は実際そこにいたからだ。その風景を目撃し、その風景をたしかに生きたからだ。
だから、僕はこの本を書いている。そのケアの風景を描いている。
「ただ、いる、だけ」は、風景として描かれ、味わわれるべきものなのだ。それは市場の内側でしか生き延びられないけど、でも本質的には外側にあるものだ。

p337

東畑開人著 『野の医者は笑う』

だから、医療人類学は、近代医学に茶々を入れる。(中略)つまり、私たちが当たり前だと思っている近代医学だって、違う文化の人から見れば何やら怪しいものに見えてくるということだ。治療を科学的現象ではなく、文化現象として見てみるのが医療人類学だ。

p46

自分を癒したもので、人を癒す。そして人を癒すことで、自分自身が癒される。
こういう現象を、ユングという偉大な心理学者は、「傷ついた治療者」と呼んでいる。

p69

野の医者の研究は確かに臨床心理学に茶々をいれるものだ。だけど、そういう茶々から、自分たちが何者なのかを考えることが、臨床心理学にはできる。
臨床心理学は宗教の末裔であると同時に、学問でもあるからだ。
学問は常識が疑われ、地面がゆらゆらと不安定になったときこそ、逞しく成長することができる。臨床心理学もまた、そうやって発展してきたのだ。
この打たれ強さこそが、学問と呼ばれる文化のいいところであり、野の医者の文化とは違うところである。

p260

治療とはある生き方のことなのだ。心の治療は生き方を与える。そしてその生き方はひとつではない。

p342

野の医者たちはそういう精神を受け継いでいる。資本主義の片隅で、経済的困窮に傷つけられた人たちが、癒されるために資本主義的な癒しの文化に参入するのだ。
だから、彼らはよく笑う。何もかも笑い飛ばそうとするのだ。
バチフンという、自分自身も恵まれない人生を送った学者が、笑いについて書いている。
「笑いとは、その本質からしてきわめて非公式なものである。笑いには、公式の生活のあらゆる生真面目さの彼岸に、無遠慮な祝祭的集団をつくりだす」
野の医者は、非公式なやり方で、資本主義の公式な世界を逞しく生きようとする。そのために笑う。

p363

な行

ニーチェ著 『ツァラトゥストラ』

からだは大きな理性、精神は小さな理性

⇒これを世間に根付かせることが、ケアの重要性を理解し、広告代理店などの不当な高待遇の改善につながるのではないか。

わたしの深部はゆらぐことがない。しかしそこは、泳ぎ遊ぶさまざまの謎と笑いとで、かがやいている。

p258

友よ、君たちは言うのだな、趣味と味覚は論争の外にあると。しかし、生の一切は、趣味と味覚をめぐる争いなのだ。

p259

そこでわたしはこの厳しい客を笑い、笑いながらかれに感謝する。かれがわたしの家で蠅どもを追い払い、多くの小さな喧噪をしずめてくれることを。
(中略)かれは苛酷な客である。ーしかしわたしはかれに敬意をはらう。
(中略)冬がわたしの家の客になってから、わたしはわたしの敵を、いっそうよく、いっそう果敢に嘲笑する。

p384

は行

ま行

マックス・ウェーバー著 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

  • 資本主義は、プロテスタンティズムの行動的禁欲(目標のためだけに行動し、その他の欲を禁ずる)の精神(エートス)によって西洋から発展していった。⇒現代の私たちがまさに行動的禁欲に支配されている理由がこれではないか。資本主義が崩れかけている今、あえて目標から外れた行為(あえてしている、という意識が大切)をすることは、資本主義をじわじわとハックしているために大切なことなのではないか

  • 近代資本主義の成り立ちに、「無駄なことにお金を使わず、隣人愛を実践する」という精神があった。⇒資本主義の中で生きていくためにはやはり、他者のためにお金を使わないと、個々人が幸福になれないシステムなのではないか

松村圭一郎著 『うしろめたさの人類学』

「交換」という脱感情化された領域があってはじめて、「贈与」に込められた感情を際立たせることができる。

p28

ぼくらの身体は経済と非経済といった「きまり」に縛られている。でもつねに逸脱の可能性も開かれている。構築人類学は、この「ずれ」に光をあてる。

p39

霊長類学者の山極壽一さんによると、ゴリラなど人間に近い霊長類でも、ほとんど白目がない。これは相手に感情を読みとられないようにするためだ。人間は進化の過程で、あえて白目の部分を大きくし、瞳の動きを相手にさらすことを選んだ。そうして互いの感情を示しあい、共感が生じる可能性を身体的に保証することで、社会的な存在となってきた。

p60

つまり、ぼくらは「関係が○○」だから、ある行動のパターンをとるのではなく、その場に投げかけられた行為の蓄積によって、なんらかの関係をリアルなものとして感じとっている。
(中略)自分が相手にどういう行為を投げかけるのか。相手が、どんな行為を投げ返してくるのか。こうして、ふたりの関係がある「かたち」をもっていく。
「親友」や「恋人」、「家族」といったカテゴリーは、その一時的な「かたち」にあとから説明を加えるためにもち出されているにすぎない。だから、「関係」はもろいし、移ろいやすい。でもだからこそ、「関係」は互いの行為によって変えることができる。

p75,77

他人の内面にあるように思える「こころ」も、自分のなかにわきあがるようにみえる「感情」も、ぼくらがモノや言葉、行為のやりとりを積み重ねるなかで、ひとつの現実としてつくりだしている。この、人や言葉やモノが行き来する場、それが「社会」なのだ。

p82

歴史家のフェルナン・ブローデルは、自由な競争に根ざす市場にとっての真の脅威は、国家というよりも、国の領域を超えて独占を志向する「資本主義」のほうだと指摘する。資本主義こそが、反ー市場である、と。

p132

市場と国家のただなかに、自分たちの手で社会をつくるスキマを見つける。関係を解消させる市場での商品交換に関係をつくりだす贈与を割り込ませることで、感情あるれる人のつながりを生み出す。その人間関係が過剰になれば、国や市場のサービスを介して関係をリセットする。自分たちのあたりまえを支えていた枠組みを、自分たちの手で揺さぶる。それがぼくらにはできる。

p178

⇒caféの経営という市場の内側にいながら、コモンの再生という市場の外側といえる働きかけをする。

贈与は「結果」や「効果」のためになされるわけではない。そうするしかない状況で、自分がそうしたくて、他者に投げかけられる。(中略)「効果」があるとしたら、モースが言ったように、そこに「つながり」が生まれるだけだ。

p185

村上靖彦著 『客観性の落とし穴』

客観化する学問そのものが悪いわけではない。客観化が、世界のすべて、人間のすべて、真理のすべてを覆い尽くしていると思いこむことで、私たち自身の経験をそのまま言葉で語ることができなくなることが問題なのだ。

p40

エビデンスに基づくリスク計算に追われてしまうと、人生の残り時間が確率と不安に支配されるものになってしまうだろう。
新聞をにぎわせる恐怖が、確率を使って繰り返し語られる。その可能性〔偶然・確率〕chanceがあるのは、メルトダウン、癌、強盗、地震、核の冬、エイズ、地球温暖化、その他である。恐怖の対象は(たぶん)これらではなくて、実は確率そのものなのである。

p53~54

⇒結局のところ、確率論的に最良な選択ではなくて、「自分が何がしたいのか」で選択することが、その人らしい人生を送ることができるのではないか。

リスク計算は自分の身を守るために他者をしばりつけるものなのだ。(中略)社会の実質が変化して「不確実でリスクに満ちた世界」になったというよりも、数値化されたことで社会や未来がリスクとして認識されるようになった。

p56~57

生産性によって人間を分断する試みは、顔を持った人格を匿名的なものへ変える動きである。

p79

私たちの行動はしばしば突発的なものであり、因果関係では説明できない。予測できない偶然の出来事のもので、偶然の行動が生まれ、私たちは後戻りできないしかたで変化する。その理由はしばしばあとづけされ語られる。そのゆえに語りは偶然を保存するし、語りのぎくしゃくした表現は経験の生々しさを示す。
(中略)偶然は誰かに語ることによってのみ定着される。友人の磯野に向けて語る(書く)という行為においてのみ、宮野は病の経験そして自分自身の生という偶然について意味を与えることができたはずだ。

p111~112

偶然を言葉にしていく語りとは、言葉にしがたい理不尽な現実に対して、最低限納得のいく言葉と行為によって応答する営みだ。(中略)語りきれないことがあること自体もまた経験の重さのしるしだ。

p118

私たちの経験のダイナミズムは、心のなかや身体、対人関係にまでまたがったさまざまなリズムの複合体である。客観性と対置されるのは主観性ではなく、共同的な経験のダイナミズムなのである。

p123

「働く意思のない人を税金で救済するのはおかしい」というような学生の授業コメントを読んでいて気になるのは、彼らが統治者の視点に立って語っていることである。国事を決定する権力の視点から「善悪」を判断する。学生は統治者になり代わって思考しているのだが、実はそれは国家権力の論理に思考を乗っ取られてしまっているということである。学生は一人の市民なのだから、自らの生活の実感から、あるいは近くにいる家族や友人の視点から社会課題を考えることができるのではないだろうか。

p134


村上靖彦著 『ケアとは何か』

つまり、私たちの内側からの感覚という視点に立ったとき、身体は客観的に扱うことのできる「臓器」ではなくなり、心と<からだ>の区別はあいまいになっていくのだ。
ケアは、このようなあいまいな<からだ>と積極的に関わるものである。

まえがきiii

弱さを他の人が支えること。これが人間の条件であり、可能性であるといえないだろうか。

まえがきⅳ

目が合うということは、人が人として存在するということに関わる。

p18

その瞬間、かつて犯行をおかした受刑者も、たまたま恋人役をつとめた受刑者も、彼らが演じた人々とかつて自らの周囲に居た人々が初めて「出会った」といえるかもしれない。もちろん、被害者当人たちはその場にいなかったにもかかわらず、である。演技なのだが、もはやその体験は単なるフィクションではなくなり、生身の自分が露出し触発される生の体験となったのだ。

p31

相手の立場に立って話を聴くという行為は、語り手と聴き手双方にとってのケアとなりうる。聴き手にとっては、経験を共有することで、今まで蓋をしてきた自分自身の経験に言葉が与えられ、自分は一人ではないことを確認することにつながる。

p34

器械化が進んでいるゆえに、このようなモノ化に抗って、あえてコミュニケーションを取る努力、患者の生命を直接感じ取ろうとする努力が必要になる。医療技術のなかにコミュニケーションを目指す意思が加わったところで医療的なケアが生まれる。

p37

ケアを専門職にされている方々にとっては極めて逆説的なことなのだが、エキスパートになればなるほど、専門知識と専門職としての立場をいったん括弧に入れるようになるという。

p46

ケアする人の役割は「あなたの代わりに何かを決めること」ではありません。あなたの自律を介助することです。~~自律とは、一人で生活できることではなく、自分自身の願いを具体化できることなのだ。

p68

ここで起きていることは、患者は健康のために節制すべし、病気の進行を食い止めるために治療を専念すべしという、医療の規範からは外れている。そしてここでの医療者たちの応答は、患者を「何やってんの!」とたしなめつつも、追いつめているわけではない。患者の生活を一種のユーモアとして受け取り、笑いで応答している。そのことで患者のカレーパンは肯定され、ケアは継続されていく。

p91

病気と一緒に生きていくためのツールとして、私が関われば、やっぱり安心するんじゃない?

p92

ケアが肯定するのは、匿名の厚生を最大化するための健康政策ではなく、名前をもったそれぞれの人の個別の欲望だ。

p94

「落ち着く」という感覚の源泉は、おそらく「自分が本来あるべき場所に立ち戻っている」という意識であり、根本的には「生存が無事に確保されている」という安心感なのだろう。~~その安心を形作る要素のひとつは、過去・現在・未来が連続しているという感覚だ。本人の育ってきた文化や習慣の堆積に照らして、「こうありたかった」という過去の想起であり、そうなることが望ましいという未来でもあるような、そういった感覚である。

p98~99

このように、ケアの視点で見たときに、身体医学と精神医学を区別する必要は必ずしもない。~~心身の区別は、そもそも西欧医学が学問的に導入した人為的なものにすぎない。

p122

⇒理学療法士とは、理学療法の知識を携えたケアラーである。

「あいまいな場所」とは、「ただ単に居ることができる場所」という意味でもあるし、「退屈な場所」というニュアンスもある。~~そのような居場所は、退屈することもまた大事な要素だ。

p132

受け入れられない現実や己の限界に対して、家族は「答えのない問いを立てること」で直面し、看護師は「居続ける」ことで直面する。一般化すれば、「できないということに耐えること」こそがケアであるという、不可能性の反転として現実への応答がなされている。

p149

ケアラーは言語化の触媒であり、行為の触媒でもある。

p175

ユーモアは言葉による状況への応答の技法のひとつだ。~~むしろユーモアそのものがひとつの行為である。

p179~180

ケアが共同的な営みであるのは、そもそも病が病人だけのものではなく、周囲の人を巻き込んだ共同の経験だからだというのだ。家族も患者も共に新たに「人生を形作ってゆかねば」ならない。これは非常に本質的な指摘である。私の病気であなたの人生が変化したからには、あるいはあなたの病気で私の人生が変化したからには、共に考えて応答するしかないのだ。

p184

弱さとは、強さが弱体化したものではない。弱さとは強さに向かうためのプロセスでもない。弱さには弱さとしての意味があり、価値がある。「強いこと」「正しいこと」に支配された価値のなかで「人間とは弱いものなのだ」という事実と向き合い、そのなかで「弱さ」のもつ可能性と底力を用いた生き方を選択する。

p216

森田真生著 『計算する生命』

計算において、自分が何をやっているかを「わかる」にこしたことはない。だが、まだ意味が「わからないまま」でも、人は物や記号を「操る」ことができる。まだ意味のない方へと認識を伸ばしていくためには、あえて「操る」ための規則に身を委ねてみることが、ときに必要になる。このとき、「わかる」という経験は、後から遅れてやってくるのだ。

P22

すべてを見通す高みからの視野という幻想から解き放たれるとき、一つの尺度に基づく「正しさ」や「確実さ」を競う合うのとは別の道の可能性が開ける。清潔で純粋な世界に引きこもろうとするのではなく、不気味な他者との波長を合わせながら、新たな現実へと感性をなじませていくのだ。

p209

⇒(フラニーとズーイより)すべての観客をイエスと思って、演技を続けることと通ずる。


計算の正しい結果を導き出すだけでなく、計算とともに自己をつくりかえていくこと。記号をただ正確に操るだけではなく、その帰結を受け止め、その先に意味や概念を見つけ出していくこと。

p217

⇒計算結果や本の結論をデータとして入力するだけではなくて、その先の意味、自分の文脈の中での意義を考えることに、生命、とりわけ人間の本質あある。


GPT-3は、ウエブや電子書籍から収集した何千億もの単語の統計的なパターンを学習して文章を作成していて、人間のように言葉を「理解」しながら作文するわけではない。肝心なのは、意味よりもデータであり、理解よりも結果なのだ。

p218

⇒人間の思考が、GPT-3のようになっていないか。


それまで順調に作動していた思考と行為の流れが行き詰ったときこそ、無自覚に依存していた足場の「仮説性」が浮き彫りになり、新たな仮説の構築が始まるときだ。

p224

⇒行き詰ったときこそ、自分が何に依存していたかを抽象的に捉え、その根本にある「大切にしていること」を発見する。


知的であるためには、生きている必要がない。

p228

起源への遡及を試みていくことは同時に、別の可能性を浮上させることでもある。なぜいまそうしているかを根源に立ち返って理解することによって、そうしないこともできた(できる)可能性へと、思考が導かれていく。

P229

本当に何かをわかるためには、自分のわかりかたそのものを作らなければならない。探究には、それぞれ自分の「スタイル」があってしかるべきなのだ。

p231

森田真生氏著 『僕たちはどう生きるか』

一見どんなに正しく思えることも、意外な仕方で間違っている可能性がある。この意味で、僕たちは常に「偽善」から免れない存在である。~~僕たちは何をしても偽善的になる。だがそれは、倫理を丸ごと手離す根拠にはならない。そもそも人が、自分でないものを気遣い、他者の喜びを願うのは、それが単に「正しい」からではない。~~そうすることが、僕たち自身にとっても喜びだからではないのか。

少しでも参考になりましたら、サポートして頂ければ幸いです。