見出し画像

言霊よもやま話 【特別編】 〈祭るものと祭られる者〉 其の三

原典:『世界維新への進発』(小笠原孝次 著)
編集:新谷 喜輪子 / 監修:杉山 彰

内宮は祭るものの宮であり、外宮は祭られる者の宮である

伊勢神宮は内宮と外宮の両社であって、先ず外宮に参拝してから内宮に参拝する昔からのしきたりである。内宮は祭るものの宮であり、外宮は祭られる者の宮である。祭る主体は人類の生命意志の原理であり鑑である五十音言霊八咫鏡であり、その鏡の上に祀られる客体は個々の人間の霊魂思想である。全局の完全の鏡の上に祀(真釣)られると云う事は、個々の部分々々が不完全な状態であるままに、それでいて全体全局の調和を分担する事である。「念仏衆生摂取不捨」と云われるが、斯の如き法によってこそ弥陀仏の四十八の本願が、即ち極楽国土の建設が成就実現されるのである。外宮に祀られて自己の時処位を自覚した者は、やがて内宮の典範である生命意志の全局である八咫鏡の活用者となる。祭られる者である衆生の魂が祭る者である救世主、キリスト、仏陀の魂の境涯に到達する。最後にその人数は十四万四千人に達すると黙示録は予言している。

内宮と外宮の関係を詳説しよう。その数理を「百八十結び」と云う。

この葦(あし)原中国は命のまにまに既ら献(たてまつ)らむ。唯(た)だ僕(あ)が住所(すみか)をば、天津神の御子の天津日継知ろしめさむ。富足(とだ)る天(て)の御巣(みす)なして、底津石根に官柱太知り、高天原に氷(ひ)木高知りて治めたまはば、僕は百足(ももた)らず八十坰手(やそくまで)に隱りて侍ひなむ」(古事記)

この誓約を大国主命(須佐之男命)の国譲りと云う。内宮の百の意義「百敷の大宮」に就ては「言霊百神」で解説した。外宮の九十九は框(かまち)(枠)の直線の交点の数である。すべて概念や表象を以て外側を囲んで、この中に真理があると示している「指月の指」であるのが従来の哲学宗教である。この九十九の枠に囲まれた八十(やそ)は耶蘇(やそ)の語原であって、モーセもイエスも四十日四十夜シナイの山や荒野に居た。ノアの洪水の時には四十日四十夜雨が降った。四十と四十で八十である。

此の八十から両端の母音半母音の部分を除いた中の子音は六十四であって、これは易(け)の加の数である。

(つづく)


・・・・・・・・・・

【小笠原孝次(おがさわらこうじ)略歴】
1903年 東京都にて生誕。
1922年 東京商科大学(現在の一橋大学)にて、
吹田順助氏よりドイツ文学、ドイツ哲学を学ぶ。
1924年 一灯園の西田天香氏に師事し托鉢奉仕を学ぶ。
1932年 元海軍大佐、矢野祐太郎氏および矢野シン氏と共に
『神霊密書』(神霊正典)を編纂。
1933年 大本教の行者、西原敬昌氏の下、テレパシー、鎮魂の修業を行う。
1936年 陸軍少佐、山越明將氏が主催する秘密結社「明生会」の門下生となる。明治天皇、昭憲皇太后が宮中で研究していた「言霊学」について学ぶ。
1954年 「皇学研究所」を設立。
1961年 「日本開顕同盟」(発起人:葦津珍彦氏、岡本天明氏ほか)のメンバーとして活動。
1963年 「ヘブライ研究会」を設立。
1965年 「ヘブライ研究会」を「第三文明会」に発展。
1975年 「言霊学」の継承者となる七沢賢治(当時、大学院生)と出会う。
1981年 「布斗麻邇の法」を封印するため七沢賢治に「言霊神社」創設を命ずる。
七沢賢治との連盟で山梨県甲府市に「言霊神社」創設する。
1982年 79歳にて他界。

【著書】
『第三文明への通路』(第三文明会 1964年)
『無門関解義』(第三文明会 1967年)
『歎異抄講義』(第三文明会 1968年)
『言霊百神』(東洋館出版社 1969年)
『大祓祝詞講義』(第三文明会 1970年)
『世界維新への進発』(第三文明会 1975年)
『言霊精義』(第三文明会 1977年)
『言霊開眼』(第三文明会 1980年)

この記事は素晴らしい!面白い!と感じましたら、サポートをいただけますと幸いです。いただいたサポートはParoleの活動費に充てさせていただきます。