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『春の馬』 にみる詩性

執筆:ラボラトリオ研究員  七沢 嶺

歩みつつ歩幅を探す春の馬  林 亮

厳しい冬を越え、春の野に解き放たれた馬が、まるで歩幅を確かめるように歩きはじめる。その初々しい様子に心温まる思いである。

馬は、その優美な容姿のみならず、体躯の強靭さや精巧さに裏打ちされた魅力がある。足の動きは、対称性のある「並足」の四拍子から「速歩」の二拍子、非対称性の「駈足」三拍子、「襲歩(全速力の状態)」の四拍子と複雑に移り変わる。そして何より、人類と共に歩んできた歴史がある。悲しくも、戦場や賭場の花形として駈けてきた事実は無視できないが、気脈を通じる強い絆で結ばれていることは確かである。

人も馬も道ゆきつかれ死にヽけり。旅寝かさなるほどのかそけさ 
道に死ぬる馬は、仏となりにけり。行きとヾまらむ旅ならなくに
(釈迢空「供養塔」より)

釈迢空(折口信夫)氏の短歌である。かつての移動手段は徒歩か馬であり、道は険しく、人も馬も道半ばで力尽きてしまうことも少なくなかった。供養塔を詠んだ歌であり、人のみならず馬への哀惜が強く流露している。

また、「老いたる馬は道を忘れず」「生き馬の目を抜く」「竹馬の友」「竜馬の躓き」「馬の耳に念仏」「塞翁が馬」等、馬に纏る故事は多い。馬が身近な存在であったことを感じさせる。

私は、ラボラトリオ研究員であり詩人でもある猪早圭氏の影響により、詩について考えることが多くなった。詩を詩たらしめるものは何であるか。心に響く力を詩性というのであれば、私は『春の馬』と相対したとき確かにそれを感じたのである。


  春の馬
  宵待草を
  かみながら

  草場には
  草しかないのだが
  それでおまえは
  満足なように

  私も、今日いちにち
  いのちあって
  生きられて
  さいわいに思うよ

 (パローレ内記事 猪早 圭 著 『春の馬』

一連(詩の世界では、行の一塊を「連」という単位で呼ぶ)は、五七五の俳句の音韻である。連歌の発句のような始まりである。

春の野原とそこで草を食む馬を景としてみることができる。二連、三連での、優しく語りかける表現により、春の柔らかな空気感、美しくおとなしい馬と、その様子を優しい眼差しで見守る人の姿も立ち現れてくるようである。その景のなかに、謙虚なこころ、つまり、足ることを知る精神性を見出すことができる。そして、このような牧歌的な雰囲気には常に死が暗示されている。

宵待草とはなにか。花の図鑑をひくと、月見草の一種であるようだ。宵を待つことと、月を見ることに矛盾はないだろう。開花期は、初夏からのようで、春の時期は詩にあるように草の姿である。花を咲かせる前に、馬に食べられるという事実は、ひとつの詩性を生み出していると感じる。日常のなかの死という非日常的な出来事は、心を響かせるに十分な力を内在している。人生という一個人の短い歴史において、誰しも、花を咲かせたいものだろうか。私のように文学者としての花がなかなか咲かない場合もあるが、草としての今の私は枯れることなく青々としていると声高らかに宣言できる。

そのような私でさえもいつかは咲かせたいと思っているのだが、花を咲かせるとは、自己の目標を達成することのみではないだろう。詩における草は、そのような草であることの自負と、花を咲かすことなく人生を終えるという憂いを同時に満たしていると思えるのである。勿論、現実的な冷めた見かたであれば、一頭もしくは数頭の馬が草を食べたところで、宵待草という種は絶えることなく花を咲かせることができるだろうが、詩性という純然たる心の働きは合理主義的な世界には宿らないだろう。

詩の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。幻覚のための幻覚を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演繹することのためでもない。詩の本来の目的は寧ろそれらの者を通じて、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。
詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である。

(萩原朔太郎著「月に吠える」序より)

詩人・萩原朔太郎氏は、詩とは感情そのものの本質を凝視し、かつ感情を外にあらわれ出す表現であるという。「感情の神経」とは難解な表現である。忖度に起因する感情ではなく、心の底より湧き出る水のような働きだろうか。詩とはそれを掬い上げるものであり、神経に電気信号が走るように、心の水面に波紋を生じさせるのである。

すべてのよい叙情詩には、理屈や言葉で説明することの出来ない一種の美感が伴ふ。これを詩のにほひといふ。(人によつては気韻とか気稟とかいふ)にほひは詩の主眼とする陶酔的気分の要素である。順つてこのにほひの稀薄な詩は韻文としての価値のすくないものであつて、言はば香味を欠いた酒のやうなものである。かういふ酒を私は好まない。
詩の表現は素樸なれ、詩のにほひは芳純でありたい。
(萩原朔太郎著「月に吠える」序より)

香味の例えは分かりやすいといえる。私はお酒を飲むことができないため、珈琲に置き換えて考えてみると、香味を欠いたものは飲むことはできるだろうが、美味しくはないと想像できる。鼻をつまんで珈琲を飲むようなものだろうか。また、「詩の表現は素樸なれ、詩のにほひは芳純でありたい」とは俳句や短歌の短詩型文学全般に共通することである。絢爛豪華な言葉ばかりで装飾した文章は、直接的であり、言葉の裏から漂う「香味」つまり詩情の余韻を欠くだろう。

最後に、私と猪早氏との書簡を次に引用する。詩「曲折」(猪早圭著)感想を通して意見を交わしたことがある。私から氏への書簡は以前の記事で触れた。私の見かたは、叙景重視の俳句的なものであり、私自身の理想郷をみた、といった感想である。一方、氏から私に対しては次の通りである。

詩というものは「何かを説明する言葉」ではないので自由に連想していただければ良いのではないでしょうか。今回の詩についての解釈は私が作った意図を読み取ってくれている部分もあれば、私が想像だにしない部分もありました。それは嶺さんも、感想を送ってくれた読者の方も同じです。でも、それで良いと思うのです。
詩とはそれぞれの持つ世界観を押し広げるための、ちょっとしたインスピレーションを与えてくれるものだと思いますから。
(詩『曲折』について)

氏の言葉を誤解なきように補足すると、人は脳の性質上、意味の理解により、対象を捉えるため、全く意味はわからずとも只々感じれば良いという主張ではない。理屈や説明ではないが、文章の論理は成立すべきであり、文学という表現特有の了解である。朔太郎氏が心理学という言葉を引用していることからも、学問としての論理性を強調しているのではないかと考えられる。詩とは、意味の伝達のみに特化した表現(説明)ではなく、読者に自由な連想を促す余白があるということである。

また、もし私の人生にまだ「余白」があるのであれば、これからも詩歌に触れて、善き言葉を書き足していきたいと思う。


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【七沢 嶺 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、兄・畑野慶とともに小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。
地元山梨の工学部を卒業後、農業、重機操縦者、運転手、看護師、調理師、技術者と様々な仕事を経験する。
現在、neten株式会社の技術屋事務として業務を行う傍ら文学の道を志す。専攻は短詩型文学(俳句・短歌)。


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