見出し画像

近未来の新・物活論

「万物は神々に満ちており、磁石は生きている、なぜならそれは鉄を動かすから」とタレスは言った・・・(アリストテレス『デ・アニマ』A2.405a 19, A5.411a7)

あらゆる物に生命が宿っている「物活論(Hylozoismus)」は、古代には一般常識だった。
進歩史観によると、否、ある種の現代思想によると、これは克服/否定されるべき古臭い「世界の見方」とされよう。
果たしてそうであろうか?

現代は、AIブームであろう。量子力学ブームであろう。
Chat GPTブームの限界は、思考の主体性・自律性、つまり、強いAIに至るには、その超えるべき閾は天地の差ほどもあると思う。
「情報」が決定的キーワードであると判明した量子力学が、その得意とする数学・モデル・論理的整合性・合理性を保持しつつ、「世界/宇宙」の基本方程式である『最終理論』に至るには、その超えるべき閾は天地の差ほどもあるかと思う。

見方を変えると、この天地の差ほどもある閾を、いとも簡単に超えたのが、古代の「物活論」なのではないだろうか。人類の「進歩」からすると、古代物活論は、革新的パラダイムシフトを人類が手にした瞬間だったのだろう。

たいていの思想史・人類史・歴史では、最初の頁にエピソード程度に嘲笑をもって触れられているにすぎない「物活論」だが、最先端科学は、なんらこれを超えていないどころか、これを見直すところにこそ、これを基に近未来の新・物活論を再構築することにこそ、前述の閾を超えるヒントがあると思う。

最先端科学になくて、古代物活論にあるものは何か。ホリスティックである。最先端科学の矜恃を持って、古代を超克した新しいホリスティックにパラダイムシフトすることである。

これは、言語の限界、つまり、論理・合理、数学・モデルの限界を超克することであろう。

自己矛盾を承知の上で言っている。言語の本質は、その”arbitraire(恣意性)” “linearity (線型性)” “articulation (分節性)”にこそあるのだろうから。
「言語」は、それ程迄に本来人類が持っている思考の柔軟性に足枷を嵌めている。この「言語」の限界を超克することからしか、人類は次のステップに跳躍することはできない。

そう。キーワードは「言語」である。数学的言語も含めた「言語」「情報」である。

「言語」「情報」のホリスティックを獲得する・・・これ自体、「言語」矛盾だが、このパラドックスのアポリア/謎解きから始めるしかないのではないか。ホリスティック、つまり、真の意味での「全体」を扱える数学・論理・言語・情報の智の体系・エピステーメーを必要としているのではないか。

写真は、アルテミスの像(セルチュクのエペソス博物館蔵)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?