ほめるでなく共に喜ぶ
最近読んだ本で学んだ話を一つしようと思う。
読んだ本はこちら。僕は好きな本だった。読み終わって著者がどんな顔しているのか検索した。そうしたいと思える本だった。
突然だけど、人を育てるって難しい。ってよく聞く。僕もそう思う。
もちろん子育てもあるだろうし、子供がいなくても社会人として後から入社してきた人を育てるというのはどこの会社にもある。
その中で、昔から気になっていた話がある。
例えば、
子供が、楽しいから泥団子を作っていたとする。理由は楽しいから。すると大人が真ん丸でピカピカの泥団子を見て「すごいねー」とほめる。そうすると好奇心で作っていた泥団子もほめられる嬉しさの承認欲求が満たされる。これによりもっと褒められたいと考えるようになり、目的だった泥団子づくりがいつの間にか手段化して褒められるために行ってしまうという話。
(大人だと好きでやっていたことも給料をもらうための手段化するという話で趣味を仕事にするもんじゃないっていう人もいるね)
こうなった時にいい仕事をしたりした後輩に対してどう接したらいいのかを悩んでいた。承認欲求を満たすことは簡単なことではあるのだが、それって劇薬を使っているような感覚になるなーと漠然と思っていた。
で、話をこの本に戻そう。
この本の中で特に印象に残った章があった。それが「ほめるでなく共に喜ぶ」という章。先述の僕のモヤモヤをスッと晴らしてくれた。
やることはそのまんまで一緒に喜ぶというもの。同じように見えて全然違う
「すごい」と褒めることは評価する構図で上下を作っている。そうではなく、共に喜ぶことにより横並びの構図となる。それにより、本来の好奇心を満たす行為が肯定されているだけなため内的動機をブラさず、評価されるための外的動機にはならないんじゃないかというもの。
外的動機で仕事をしたりすること自体が悪という話ではない。これをしながらも自分の内からの湧いてくる好奇心を満たすことが自己実現につながるという話。
僕自身はそういう生き方をしていきたいし、そういう人の方が目的を見失わず生き生きとしているのではないだろうか。
最後に、僕は人を育成するということ自体が烏滸がましいと思っている。育成するなんて上から目線で物事は言えない。
うまくいったことは一緒に喜んで、失敗したことも一緒に悔しがってくれる人・環境に身を置けると必然的に成長していくと信じて。
ちなみに、この本を書かれた著者の顔を検索して、想像していた顔と違ったけども、勝手に思い込むのは良くないね。ということも改めて学んだわけなのです。
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