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夢と醒め

 年を重ねるにつれて、クリスマスが楽しいものではなくなってきてしまった。もちろん今だって、何となくクリスマスの雰囲気は楽しい。でも、それは幼い頃に感じていた、全てが叶いそうに思える夢のような感覚や心が踊る期待感や待ち遠しさではなくて、退屈な日常にもたらされる変化のうちの一つとして楽しめるだけにすぎない。

 通学時に京橋駅の京阪モールの横を通り過ぎると、曲名までははっきりとは知らない洋楽のクリスマスソングが聴こえてくる。つられるようにしてモールのガラスドアの向こう側のアパレル店や雑貨屋に目をやると、赤や緑の装飾が施された店内でクリスマス用の商品が綺麗に包装されて並んでいる。今は昼だから店員は暇そうだけれど、夕方から夜にかけての時間帯になれば平日でも仕事帰りの男性やクリスマスコフレを探すOLで賑わうのだろう。
こういう普段の光景の変化を見ているのは楽しい。

 彼らはただ商品を買っているのではない。クリスマスという夢を買っている。

 ありとあらゆるものが商業化されていくのが現代だけれど、消費社会の発展でついには夢まで買えるようになった。私は熱心なキリスト教徒というわけではないし、今更「イエスキリストの生誕祭なのに」なんていうつもりはない。そんなことをいうのって自分が人より少し物知りであることをアピールしたい小学生みたいだ。本当のキリスト教徒に失礼。ただ、クリスマスに限らず、人間が暦上定めただけのイベントに対して少し冷めた目を向けてしまう自分もいる。閏年で調整しても、地球の公転運動と完全には調整しきれない暦。それに乗っかってクリスマスにはプレゼントを、とか、クリスマスケーキだ、とか、豪華なディナーでお祝いとか、はたまたクリスマスのデート向けの服装だとか、とにかく人間に消費をさせようとする社会に末恐ろしくなる。
何とかして金を落としてもらおうとする企業の欲望と、夢を実現させようという人間の欲望の交錯。これに夢を見出せるほどの図太さと金銭的豊かさを私は持ち合わせていなかった。

 クリスマスを純粋に楽しんでいた幼少期の私の目には、浮かれて楽しそうな大人たちが映っていた。でも彼らも、イベントに乗じて奮発し、自分の欲望を満たしていただけだったのかもしれない。私を楽しませてくれていた周りの大人は、子供に「夢を与えられる存在としての自分」に満足していたのかもしれない。

 サンタをかたどったマジパンはコーティングが剥がれ、砂糖の塊に変わってしまった。口にしても人工的な甘さが喉に張り付いて、乾きすら覚える。

 だから私は夢をウィンドウショッピングするくらいでちょうどいい。私がクリスマス向けの商品を買っても、夢は付いてこないから。

 深夜にAmazonを見ていると、5年ほど前から気になっていたCDが中古で売っていた。数十秒前に見た“欲しいが見つかる”というキャッチコピーそのもの。個人のあらゆる欲望がビッグデータに把握されている時代だ。夢を見ることもできなければ、夢を与えることすらアルゴリズムにとって代わられていく。

 Amazonに登録されているクレジットカードは母親のものだったので、CDが届いた際に「お金、払うから」と言った。

「いいわ300円くらい。あ、あれクリスマスプレゼントね」

 母親は目も合わせず、薄笑いを顔に浮かべていた。ああ、とか、ありがとう、とか適当なことを言って私はすぐその場を離れた。自室に入り、Macを起動させ外付けドライブにディスクを差し込む。喉元に湧き上がった感情は、部屋に響くキューンという無機質な動作音に神経を集中させるうちに、腹の底に沈んでいった。

 私が期待していなかった通りだった。他人のものの言い方に対して苛立ちを感じることにももう飽きてしまった。今まで与える側の役をしてもらっていたことに居心地の悪さすら覚える。

 ドアを閉めていたが、リビングから浮かれたクリスマスソングが漏れ聴こえてくる。今日やっている音楽特番のようだ。しばらくすると「星に願いを」が流れてきた。この時期しか聴かないせいか、この曲は今までのクリスマスの記憶と強くリンクしている。最近のものから順に記憶を引き出そうとしてみた。だいたいこういうイベントは父親の機嫌に振り回されてばかりだった。純粋に何もかもが楽しかった時っていつだったっけ。今の私には思い出せそうになかった。思い出せないのか、思い出したくないのか、その区別すらもう、どうでも良かった。

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