【書評】片岡大右『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか』の問題点:あきれた本

自分の好きなアーティストが、過去の失言で攻撃され、悪魔に仕立て上げられた場合、その名誉を回復させ、本人に悪意がなかったことを証明したくなる気持ちは、わからなくもない。

それは小山田圭吾氏(以下、敬称略)もそうだ。小山田が社会的に抹殺された2021年、過熱報道がエスカレートするなか、某女性ブロガーが中心になって小山田を擁護する論陣が張られた。もちろん、ろくにファクトチェックをしなかった毎日新聞や、その元になった「孤立無援のブログ」は批判されるべきだ。

しかし、ありとあらゆる証拠をかき集めて反証していく際、客観性を装いつつ、盲目的にその対象を信奉したり、あるいは「〇〇は悪くない」という結論ありきで、自分の意見をゴリ押しする姿勢で書き連ねた本は総じてゴミクズだと思う。しかも、バイアスまみれのくせに「検証」という真っ当な体裁を取り繕ってるので、なおさらタチが悪い。

ネタバレしておくと、これはそういうタイプの本だ

本書のあらすじは簡単。過去のいじめ告白記事が蒸し返され、叩かれまくった小山田が、なぜ、あんな発言をしてしまったのかを丁寧に検証しつつ、あらゆるレトリックを駆使しては、小山田を全力擁護する内容となっている。

閑話休題。ここからは、本書でガン無視された時代背景に迫ってみよう。なぜ小山田がああいう発言をメディアに載せてしまったのか?

キーワードは「価値相対主義」「ポストモダニズム」「面白主義」だ。

そもそも論として「いじめ」は絶対にダメ。それは当たり前のことだ。でも「いじめで死ぬのはやめろ」だとか「がんばって生きてね」だとか、「愛は地球を救う」だとか、そういう言葉を聞くと、なんか無責任に思えてくる。

こうしたアンパンマンみたいな正論は、もう成立しない。
社会全般が依拠できるような固定観念(たとえば天皇を神として崇めるような宗教観とか)なんて、すでに敗戦にともない崩壊していたからだ。

1979年、それに気づいた哲学者のリオタールは固定観念的な考え方、つまり「大きな物語」にビロングできた時代を「モダン」と呼び、それに対する不信感が蔓延した時代を「ポストモダン」と呼んだ。ようは、大きな物語のオワコン宣言ですな。もはや道徳や倫理といった絶対的正義が「覇権」(ヘゲモニー)を失い、ほとんどイロニーの対象として欺瞞化したというわけだ。

以降、覇権をとったのは80年代的な消費文化や相対主義、つまりはオタクやサブカルだった。なかでも悪趣味を志向し、オワコン化した「大きな物語」を冷笑で茶化すことは、文系ぼっちゃんのたしなみ(痴的遊戯)だったわけだが、その極北として、世間的に無価値なものや、珍奇なものにアイロニカルな没入をするモンドカルチャーが90年代に台頭、そこから「鬼畜系/悪趣味系」と呼ばれる、露悪的スタイルを志向するサブカルがあらわれてくる。

この際、ブームを支えたのが、マンソンTシャツで『危ない1号』を小脇に抱え、「政治的に正しくないオレ、カッケー」みたいな人たち。才能は乏しいくせに、非凡を気取りたいという一般人ですな。まさしく、鬼畜系・悪趣味系は、あの時代の空気感を濃縮したパッケージであったわけだ。

結論になるが、小山田のいじめ記事も「鬼畜系」も私は同根だと考えている。ともに倫理の欠如を誇り、笑いに無化するスノッブな態度をとっている以上、価値相対主義(面白主義)と通底しているからだ(すげー分かりやすく言うと、バイキンマンに肩入れするようなカルチャー)。この時代に毒された価値観をロマン優光は「90年代サブカルの呪い」と呼んだ。

実際『ROJ』1994年1月号のインタビューで、小山田は次のようなことを言っておる。

正論ってあちこちに存在するわけじゃない?「ああ、ここで正しいことを言ってる人が居る」「ああ、こっちにも正しいことを言っている人が居る」ってなってるけど、正論が何10個も存在するっていうのはやっぱどうしても疑問が残るっていうかさ。〔……〕
で、そういうことを言ってる自分が何言ってるかっつったらさ、それをまたさらに僕は後ろで見てて「おまえの言ってることも、そんなの正しいの?」なんて言ってるんだと思うんだけどさ(笑)

これを受けて、インタビュアーの山崎洋一郎は次のように総括した。

実際、その音楽においても小山田はますます「強い断定」から遠ざかり、スルリスルリと何かを避けながら、しかも徐々に後ずさりするというイラだたしい戦法に出ている。〔……〕社会や学校やテレビやスポーツに忙しく熱中する「普通人感覚」に対して「バーカ」と斜め45度の冷凍光線を送る教室のハグレ者、そのまんまに大人になったのが小山田だ。

このような、どっちつかずの態度をみせた結果、小山田は、いじめ記事に対する批判を20年以上も放置・黙殺することになる。

この間、かれは自身の名誉を回復するための具体的な行動をとらなかったし、炎上の前年に出た『90年代サブカルの呪い』でも、ロマン優光からの取材を無視したとされている。やろうと思えば、名誉回復のために自身の発言を大きく歪曲したとされる『ROJ』を訴えることもできたはずだ。この炎上騒動を引き起こしたのは、あいまいな態度をとり続けた小山田自身にある。

こうした小山田の未熟な考え方(すなわち「鬼畜系」の背景にあった価値相対主義)について、政治哲学者の斎藤幸平は次のように一蹴している。

相対主義に従えば、他者と互いに理解し合うことなどはできない、それぞれ、分断された世界に住んでいるのだということになる。〔……〕相対主義者は「他者性」をつくり上げることによって、自分が見たいものだけを見ている。
ーマルクス・ガブリエル他『未来への大分岐―資本主義の終わりか、人間の終焉か?』集英社〈集英社新書〉2019年8月、146-147頁。

なお『QJ』3号(1995年8月号)のいじめ紀行でも「いじめってエンターテインメントだよね」というコンセプトが村上清により語られている。

しかし「いじめっ子」と「いじめられっ子」を等価にあつかう姿勢は、はなはだ問題含みであり、社会構造の非対称性は無視されている。が、これと似たようなことは、同年7月に出た、青山正明編集の鬼畜系ムック『危ない1号』第1巻(データハウス)の前口上でも次のように宣言されている。

全ての物事には、数え切れないほどの意味やとらえ方、感じ方などがある。例えば、自殺。これを「悲しいこと」「負け犬がすること」とみなすのは、無数にある“自殺のとらえ方”のほんの一部に過ぎない。この世には、祝福されるべき自殺だってあるのだ

あらゆる物事は、その内に外に、無数の“物語”を秘め、纏っている。『危ない1号』では、これら無数の物語の中から、他の本や雑誌ではあまり語られない物語だけを選びだして語るようにした。さらにその際、一つの物事が含み持つ無数の物語の全てを“等価”と考えるように心掛けた。〔……〕

この世に真実などない。あらゆる物事は、その内に外に“数限りない物語”を秘めている。そして、それらの物語は、人間様中心の妄想であるという意味で“全て等価”なのである。だから何を考えても許される。これが当ブックシリーズの編集ポリシーだ。

妄想にタブーなし!

きっと赤田祐一は否定するだろうが『QJ』にせよ『危ない1号』にせよ同根で、「面白ければ何でもOK」と言わんばかりに、他誌では語られない物語ばかりを(それこそ価値相対的な目線で)載せていた。そもそも、赤田も青山も、山口百恵のゴミ漁りを実行し、80年代の日本に「モンド」という概念を輸入した『Jam』『HEAVEN』編集長の高杉弾に大きな影響を受けている。

話がこんがらがるのは『QJ』や小山田本人は「鬼畜系」と直接は関係がないということだ。ここで問題にすべきは、80年代の残滓を引きずったまま、いじめを笑いのネタにするような試みを採用した、ポストモダンの極北としての「等価」ないし「相対化」という価値観にあるだろう。

この意味で、小山田のいじめ記事は「鬼畜系」と非常に近接した領域にあったといえるはずだ。少なくとも「小山田と鬼畜系はあまり関係なかろう」と述べる片岡は、このあたりの話をいっさいがっさい無視している
つうか、地続きにあった文化的なバックボーンを「点」と「点」で切り離すような行為に、一体なんの意味があるのかと首をかしげてしまう。

最悪なことに、その切り離し方もオソマツなものでしかない。片岡は「鬼畜系」を極悪非道なクズの文化としてあつかい、村崎百郎のゲス文章の多大なる引用をもって、われらが小山田君との文脈を意地でも切り離そうとしている。
当然そのような姿勢には、怒りや不快感しかない。まるで鬼畜系を踏み台として扱い、いじめ記事を矮小化しようとする企図すらも感じられる。

ちなみに片岡は、いろいろと理屈を並べては、小山田をモンドカルチャーと結びつけようとするのだが、これに対して、小山田炎上直後に「90年代サブカルチャーと倫理:村崎百郎論」を執筆した鴇田義晴氏は「モンドとは、あらゆる場所やものに偏在する要素」「当然ながら、鬼畜・悪趣味系をも包括する」「そこのみを切り分ける必要があるのか」と懐疑的な目線を向けている。(https://note.com/tokita_note/n/n96293bd65ba0

本書の帯には「文化的・社会的背景を踏まえ」とあるが、こうしたバイアス含みの後付けでしかない歴史修正主義が、やたらと連発することから、ぼくには文化的背景を踏まえるどころか、都合のいいことばかりいっては、底辺の文化を踏みにじっているように思えてならない(少なくとも当時、モンドと悪趣味系を厳密に切り離して受容していた人間がいたとは考えにくい)。

批判すべきことは、まだまだいくつもある。

たとえば片岡は、小山田が傍観者として立ち会った数々のいじめ行為について「加害性は少ない」として「障害のある学友たちとの友情物語」に読み替えようとする。だが、障害児へのいじめ行為を笑いのネタとしてあつかい、それに対して、ろくに撤回も謝罪もしなかった小山田を「パラリンピックの幕開けに音楽を添えるのにふさわしい存在」(p.50)とするのは、さすがに無理筋と思う(それこそ相対主義的な言説ではないの?)。

まるで「いじめの矮小化」を延々と見せつけられているようで吐き気がした。「小山田クンは実はこう思ってたはず」とか心底どうでもいいから、まずは本人や関係者に話を聞きにいけや。

そもそも片岡は、いじめ記事を編集した山崎洋一郎や村上清に取材せず、録音テープの捜索すらしてない。それは片岡が小山田の発言に無理があるとわかっているからではないだろうか?

だから本書は正確な検証をしているようで、関係者の言質を取っておらず、国会図書館と自宅を往復して書かれただけのファンブックとなっている。

本来であれば、普遍的な題材になりえたものを、ファン目線ゆえのバイアスで台無しにした筆者は、そもそも批評家を名乗る資格などないのではないか。

少なくとも、この件は小山田が『週刊文春』2021年9月23日号のインタビューで語った告白記事が全てであり、本書はファンの誇大妄想が入り混じった「こたつ記事」の域を出ていない。

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