片岡大右『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか』における「村崎百郎論」批判への応答

・片岡大右『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか:現代の災い:「インフォディミック」を考える』(集英社新書)内で、拙論「90年代サブカルチャーと倫理:村崎百郎論」に関し批判的な言及がなされていたので反論と応答を記したい(文中敬称略)。
・私自身、小山田圭吾は悪くないと考えている。かつ、小山田は90年代の鬼畜・悪趣味系サブカルチャーの影響を受けていると思う。そうであっても小山田の音楽の価値は毀損されるものではない立場に付く。片岡は小山田を鬼畜・悪趣味系の重力圏から切り離したいようだが、その試みには果たして正当性があるのだろうか。
・片岡は問題とされた、小山田がいじめ体験を語った2つの『ロッキング・オン・ジャパン』(ロッキング・オン)と『クイック・ジャパン』(太田出版)による雑誌記事インタビューを「悪趣味系」「鬼畜系」と絡めて振り返られる当時のサブカルチャーの潮流を見て取る傾向とは距離を取ってきたと明言する(p.130)。そこで小山田は「モンド・カルチャー」の担い手であったと述べるのだが、これはかなり苦しい主張ではないだろうか。片岡はモンドの細かい定義を示し、必死に鬼畜・悪趣味系との切り離しを目指している。だがモンドとは、キッチュやキャンプ(スーザン・ソンタグ)とも評されるもの全般を指すものであり、あらゆる場所やものに偏在する要素である。当然ながら、鬼畜・悪趣味系をも包括するものであり、そこのみを切り分ける必要があるのだろうか。私はコーネリアスの作品の中では『FANTASMA』をもっとも好むが、おもちゃ箱をひっくり返したような世界観はモンドそのものではないか。
・本書全体に言える傾向だが「小山田は悪くない」結論ありきで論述が展開される。『クイック・ジャパン』のいじめインタビューの文言が読み解かれているのだが「一見すると悪いように見えるが真意がある」といった解釈が続く。それは一つの主張としては成立するが、反証に耐えうるものだろうか。片岡に同調する読者は好意的に読んでくれるだろうが、それ以外の大多数の読者、あるいはいまだに小山田への誤解を持ち続けているであろう新書本すら手に取らない層にこの主張は届くのだろうか。
・片岡は私の村崎論は、彼が行っていたとされる美女のゴミあさりなど鬼畜度の高い仕事を積極的に取り上げず、鬼畜の定義など「さほど世間の反発を買いそうにない信念の表明が強調」され「多くの人びとに受け入れやすい村崎像の再構築が試みられているという印象を受ける」(p.137)と記す。これは読み解きとしては正しい。私は村崎論の執筆に際し引用文などにおいて穏当なものを選ぶ手心を加えている。それは「村崎像の再構築」を企図したものだが、同時に片岡も本書で「小山田像の再構築」を目指しているではないか。片岡は註でも、私の村崎論に対する選考委員の批判的評価「ナイーブな道徳が責任の次元に回収されている気がして、ちょっと後退に感じました」(杉田俊介)や「著者の文体がクリーン過ぎる」(大澤信亮)(p.257)に触れている。片岡の村崎論への批判は、そのまま本書へと跳ね返るように思われる。ある偏愛する対象を論じようとする場合、執筆者がそこにかける、あるいは無意識にかけてしまうバイアスにどこまで自覚的であり、自らに批判の視線を向け、距離を取れるかという問いである。
・本書で片岡は、村崎百郎を「近隣住人とりわけ女性のプライバシー情報を下着写真とともに晒す雑誌記事などで90年代半ば以降に話題になったライター」(p.135-136)と紹介する。新宿ロフトプラスワンで開催された「鬼畜ナイト」は「大麻取締法違反で逮捕されていた青山正明の保釈を機に開催されたイベント」(p.139)と記す。ロマン優光の『90年代サブカルの呪い』に関しては(「コンビニで買うのに最も勇気がいる雑誌」(しらべぇ、2020年6月24日)と評される月刊誌「実話BUNKAタブー」の版元コアマガジンの新書レーベルの一冊(p.145-146)とある。小山田の実績に関しては海外の音楽メディアの評価などが強調されるのに対し(p.31-34)、鬼畜・悪趣味系に関しては非常に手厳しい。こうした要点ごとのバイアスの違いは、本書にとってはウイークポイントとなってしまうのではないか。小山田に対して向けられた正義、正論をまとった悪意に対抗しうるのだろうか。
・村崎のゴミあさり行為に関しては「本当にそうした行為を日常的にしていたのか」は執筆時から疑問があった。『GON!』(ミリオン出版)1996年10月号では「イメクラのゴミを緊急回収!!」と題して性風俗店のゴミが取り上げられている。店名や電話番号も記載されており、これは事前に取材許可を得た企画であるとわかる。村崎は本や雑誌は好きだったから、それらを拾うことはあっただろうが、女性の下着や使用済みの生理用品を本当に拾い集めていたのかは疑問が残る。
・私は一連の騒動でもっとも悪いのは、小山田のマネジメントができなかったレコード会社であり、次いで出版を中心とした当時のマスメディア業界であったと考えている。問題となった2つの雑誌記事はともに1995年発行である。日本経済のバブル崩壊は1991年3月とされるが、この時期の出版業界はいぜんバブル状態にあり、音楽業界も売上は好調であった。売上のピークは出版が96年、音楽が98年である。延命するバブルの渦中にあった2つの近しい業界(音楽と出版)の癒着、内輪ノリから小山田記事が生み出された背景は強く確認されるべきである。かつサブカルチャーの享受者は、その空気を味わい楽しんでいた。本書では「人格プロデュース」(p.75)と評されているが、『ロッキング・オン・ジャパン』がミュージシャンの人間性をキャラ付けしていく空気などに言及されている。さらに小山田の「いじめっ子キャラ」インタビューが音楽業界内で問題となっていた逸話も取り上げられている(p.60-61)。こうした部分、90年代の「ギョーカイの空気」(それはまさに「モンド的」と形容されるものであろう)を、当時の空気を知る人の証言などを交え浮き彫りにするなど、もう少しジャーナリスティックに掘り下げても良かったように思う。
・本書では小山田が通っていた和光学園が、障害者と健常者が同じ空間で学ぶ「共同教育」と呼ばれる実験的な方針を取っていた言及がある(p.127-129)。さらに1996年に『小説トリッパー』(朝日新聞出版)が学校を特集したところ、小説家が寄せてきたテーマがすべて「いじめ」を主題とするものであった逸話も興味深い(p.177)。前出の「ギョーカイの空気」と合わせて、こうした時代背景にもっと迫るべきではなかったか。
・コーネリアス/小山田圭吾の名誉回復を目指す本書の意図は評価したいが、強度を欠く本となっている点は否めない。それでも私の村崎論がアクチュアルなテーマに迫る新書本に取り上げられたのは歓迎したい。村崎が自身の髪の毛やフケ、皮膚のかけらをゆく先々でばらまくことで身体の拡張を目指していたように、私の村崎論も文芸誌の枠内を越え出て新たな読者と出会うかもやしれないとも考えている。

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