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人生があるって怖いね。(読書感想エッセイ『ケインとアベル』)
通勤ラッシュという困難に直面しつつあります。どうも、コーシです。
先日、twitterを意味も無く眺めていると、とあるツイートが私の目に飛び込んできた。一語一句を記憶してはいないが、こんな内容である。
”すれ違った人やTLのツイートの投稿者とか全員に人生があるの怖すぎる。”
間違いない。私は改めてこの事実を確認し、この投稿者と同じく恐怖を感じた。
私が通っていた高校の私が通っていたコースは特徴的な教育理念を抱いており、その内容は一言では表し難い。うまくまとめるのであれば、いわゆる板書などの授業はさほど行わず、自分たちで授業を展開したり、また、クラスメートとの関わりによって、対話の重要性や他者理解、自己理解を深める、そんなような高校であった。
そんな学校の授業の中に「自分史」というものがあった。その名の通りである。「自分の歴史」について語るのだ。大体みんな、語り出すと1時間近くかかってしまう。聞いている身としてはかなり興味深い授業であった。
その自分史を通して、私が抱いた感情は恐怖に近かったかもしれない。
もちろん、知っている。その人にはその人の人生があり、自分はその一瞬の登場人物にすぎない。人の人生について聞いていると、「こんな壮大な人生の中に、私なんかが足跡を残すことなど許されて良いんですか!」とさえ思えてきてしまう。
しかし、どうしても自分以外の人生のことを考えようとすると私の脳はキャパオーバーを迎えてしまった。
一人一人の自分史は本当に”そいつらしさ”があった。やはり生き様というのは表に現れるものなのだ。だからこそ、怖いのかもしれない。
家族、友人、彼女、街ですれ違う人、何気ないツイートの投稿者、このパソコンを作った人、少しでも関わった全ての人。全員に人生の蓄積があり、今そこに少し私は足跡を残している。そして今もなお、人生は溜まり続けている。
この壮大な人生の交わりが恐怖を感じさせているのかもしれない。
「おそらく俺なんかと関わっている暇ないよ!君!」と言いたくなってしまう。
いずれ人生が交わる2人の人間を生い立ちから見て、いかにしてその接点へと辿り着いたのかを目撃してみたいものである。
そんな作品はないだろうか。
あった。
今回ご紹介するジェフリー・アーチャー著『ケインとアベル』である。
この作品の主人公は2人、ケインとウワデグである。ケインは都市の大銀行の頭取の息子であり、将来の安定が保障された人物。一方ウワデグは森の中で貧乏な猟師の家に拾われた子供。
そんな2人の人生をくまなく表現し、2人の人生がいかにして交わるのか、運命がどう変わるのかを描いた作品である。
この作品を読めばあなたは二つの人生を客観視することができる。そしてこの2人の人生の交点を奇跡のように感じるかもしれない。
しかしよく考えて欲しい、あなたの親友や犬猿の仲とも言える人間、彼女や彼氏、人生を歩む中で深い関わりを持った人とのことを。この2人の奇跡は自分自身と彼ら彼女らの中の誰か1人に対してだって当てはめることができる。
この物語は決して奇跡ではないのかもしれない。ただ、たまたまこの2人だっただけなのかもしれない。
この物語が奇跡だとしたら全ての人の人生における出会いは奇跡であるとも言える。
改めて、人生の尊さを教えてくれる作品であった。
こんな深く語ってみたものの、やはり自分の人生では人様の人生と交わるには取るに足らないかもしれない。
自分の人生を『ケインとアベル』のように伝記チックにしたらどうなってしまうのだろう。もはやそれはかなり高度なボケとも捉えることができそうである。
キーパーをやっていて遠くにボールを蹴ろうとして空振った足を振り下ろし、オウンゴールを決めた、あの私の人生における最も無様な瞬間を伝記に表したらどうなるのだろうか。
コーシ しそとツナ缶。
Instagram @kohhhhhshi.f (アート投稿中!)
Twitter @kohhhhhshi_f
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