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カンボジアでゲイに襲われかけ、差別について考える

 *内容が「差別」、「LGBT」という敏感なものを扱います。なので適さない言葉や表現があれば是非指摘して頂けるとありがたいです。


 2週間だけカンボジアに滞在していた時、宿泊施設のゲイの従業員に襲われかけた。当初から、「よく見られているな」とは感じていた。でも客と従業員という一線は超えないだろうと思っていた。

 ある時、忘れ物を取りに部屋に戻ろうと2階へ行く階段を上ろうとした。すると、その従業員が階段の数段先待っている。壁にもたれかかるようにしながら、肘を付けて、体の正面をこちらに向けていた。彼(彼女)の何か獲物を狙っているかのような熱い視線は私と目が合っている。

 私は「何をされるか分からない」という恐怖心でとりあえず目を合わせたまま、彼(彼女)が遠くへ行くのを待っていた。数秒後、彼は素早く階段を最後まで登っていき、右へ曲がっていった。

 私の部屋は右にある…

 「どうかいなくなっててくれ」と思いながら、ゆっくりと階段を上っていく。私の心臓は、体には収まりきらないくらいに大きく鼓動している。

 そして階段を登りきると、角を右に曲がったすぐのところで彼(彼女)に思いっきり、「シャーーーーーーーーー!!」と叫ばれた。思いっきり私も叫んだ。

 自分の叫び声が頭の中で一通り響き渡り、冷静になると彼(彼女)は目の前から消えていた。

 その後も、何度か彼と目が合う度にドキドキしていたが、何もされることはなかった。彼(彼女)は私を襲うとしたのか、ただ単にからかいたかっただけなのかは分からない。とりあえず、人生で初めてカンボジアでゲイに襲われかけたという貴重な体験を手に入れた。

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 時が流れ、日本で電車に乗っている時のこと。扉にもたれて揺られていると、途中で容姿が周りとは異なる人が乗ってきた。かなり年配の方だが、髪の毛はまるで小学校低学年の女の子の様に頭の高い位置でツインテールをしている。

 服も全体がピンクで覆われ、あまり似合っているとはお世辞にも言えない。そして大きな一人ごとをつぶやいている。世間一般で言われる「障がい者」と呼ばれる方であった。
 
 周りの人達は、彼女を軽く避けるように動き、ちらちら見たりしている。これがいわゆる「普通の人」なら誰も気にかけようとは思わない。
別に誰も侮辱の言葉を彼女に掛けているわけではない。でもそういう周りの態度を見て、「これが差別の感情なのかな」と思った。

 どうして「普通の人々」は彼女のような「障がい者」に対し、このような態度をとるのだろうか。
何が彼女を「普通の人」と「障がい者」に区別するのだろうか。

 やはり、「何を考えているか分からないという未知に対する恐怖」が人間の不安感を作り上げるのだと思う。

 例えば仮に、キツネが電車に乗り込んできたらどうだろうか。自分を含めて、電車に乗ってる人は、おそらく怖がるだろう。「吠えだすかもしれない」「急に嚙まれるかもしれない」「噛まれたら狂犬病になるかも」って色々な事を考えるに違いない。キツネでも犬でもカラスでも、ある程度の大きさの動物なら基本みんなそう思って避けるだろう。

 他にも、沢山の外国人が電車に乗り込んできたらどう思うだろうか。「話しかけられたくない」「急に話しかけられたらどうしよう」「ちゃんとマナー守るのか心配」などを第一印象で抱く人は少ないだろう。

 これらの例えで共通する、「意思疎通が取れない恐怖」。この感情が「普通の人」たちに警戒心を作り出す。そして先ほど登場した「障がい者」の女性に対する周りの行動を生み出す。

 「意思疎通が取れない恐怖」というのは、一旦コミュニケーションが取れれば一瞬で消え去ってしまう脆いものだ。近年は、NHKやユーチューブが、「障がい者」のリアルをカメラに写し、画面の向こう側の人々に「本当の彼ら」を分かってもらうための行動が盛んになっている。そうすることによる「障がい者」の社会参入障壁の破壊へ挑戦しているのだ。

 実際にコミュニケーションが取れることを証明する。これだけで警戒心は消え去る。差別の感情とは実際脆いものなのだ。

「何を考えているか分からない恐怖」が差別の感情を作り出す。

 人種差別は、意思疎通が取れなかった昔の時代に始まり、現代はその差別感情だけが残り、濃縮され、形骸化した虚構の差別だと思う。中世ヨーロッパ人がアメリカ大陸に到達し、インディアンと出会い、彼らを奴隷にした。その背景には、文明的に未熟なインディアンを文明化するという使命感と、そこに裏付けられた「言葉が通じない裸のやつら」に対する差別的感情が存在した。
 
 アフリカ諸国やアメリカでは、その感情は親から子へ、長い時間をかけて世代を渡っていった。そして元々白人が抱いていた、「文明化への使命感」や「言葉が通じないやつら」という感情はなくなり、ただ単に「差別する対象」となってしまった。初めて白人が黒人と出会った時、彼らを警戒したはずだ。でも圧倒的な強さの武器によって抑圧することが可能だと分かり、奴隷にした。

 人間は未知のモノや、理解できないモノを見た時、警戒し、抑止したくなる。しかし「人権」という概念がある現在、理解できない人間を抑圧することはできない。実際は構造的に抑圧する環境を作り出していると思うが、暴力で直接的に抑圧することはできない。だから避けようとする。

 こういう理由で電車の中でその女性が乗り込んだ時、周りの人たちは避けようとしたのだろう。

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 ここで話はカンボジアでゲイに襲われかけた話に戻る。
 私にとって彼(彼女)は完全に未知の存在だった。今のテレビは差別的表現を避けるために、LGBTQという表現をセクシュアルマイノリティに対して用いる。しかし彼(彼女)に対して私が抱いた感情は、少し前のテレビで扱われていた「オネエ」の方だった。人生でLGBTQの方に実際に会ったことはそれまでない。だから実際に目の前にした時思い起こすのは、「オネエ」の方のイメージだ。今やオネエは差別表現となっている。しかし、テレビやインターネットを通じて普及した「ゲイ=オネエ」というイメージは、まだ多くのセクシュアルマジョリティが抱いているのが事実だ。

 また言語が通じないのも、未知への恐怖を煽る要素の一つであった。カンボジアはクメール語を母国語として扱うが、私はクメール語は話せない。英語は多少できたが、恐怖心の中で何も言葉が出なかった。そもそも英語がお互い話せたところで、通じ合えるのかが不安だった。

 「オネエ」というイメージのゲイであり、言語が通じないという2つの要素が、彼(彼女)をますます未知のモノにした。もはや私にとって彼(彼女)は、いつ人に嚙みつくか分からない獣と同じである。

 しかし、「オネエ」だから怖い、言語が通じないから何か怖い、という感情は、これまでの人生で触れてきた単なる差別的なステレオタイプ(思い込み)の凝縮である。

 私は、「人を差別するような人間ではない」と信じていながら、カンボジアでいざそういう状況になった時に、身体に染み付いていた差別的ステレオタイプから脱出できずにいたことを証明してしまっていた。

 「未知に対する恐怖」は確かに、私たち人類が長い時間をかけて獲得した生存能力かもしれない。しかし現代社会では、未知のモノにこそ、一歩踏み出し、理解しようとする努力が必要なのだと感じる。

 結論がありきたりなものになってしまい少しもったいなく感じる。しかし、カンボジアでの貴重な体験と、電車の中での日常にありふれた瞬間を結び付け、「差別」という抽象的な言葉を、自分の中で深められたことには価値があるだろう。


 




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