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【謝肉祭①】蠅【ホラー短編集】

あらすじ

「肉」をテーマにしたホラー小説短編集、『謝肉祭』。
第1話「蠅」:ストーカー被害に遇っていた里佳子は、犯人の男が自殺していたと知らされる。もう安心だと思った矢先、里佳子は気が付いてしまう。ストーカーからの非通知電話は、男が死んでからも掛かってきていたことに。
第2話「肉屋のアイドル」:安全で割のいい闇バイトとして紹介されたのは、肉屋でのマスコットの仕事だった。簡単なバイトだと二つ返事で引き受けたものの、その仕事内容は予想とは異なっていた。
第3話「いっぱい食べる君が好き」:恋人に勧められるがままに食べ、美都江は太り続ける。やがて日常生活に支障を来すほどになった頃、彼は信じられないことを言った。

謝肉祭 ①「蠅」

 警察は役に立たないというが、ここまでのものなのかと私は打ちのめされていた。
 ストーカー被害を訴えてもうじき半年になる。月に一度は警察署に足を運び、私が体験したことを伝えてきた。それでも、彼らは解決のために動いてはくれなかった。

「以前からお伝えしているとおり、具体的な証拠がありませんとねぇ……」

 飾り気のない応接室で、禿げ頭の老刑事はお決まりの文句を繰り返す。ほとんど眠ったような目をしていて、こちらを説き伏せるときだけその目をギラリと光らせる。

「ま、警戒はしておきますから。三丁目でしたっけ? ご自宅の辺りの巡回を増やしますからね。あんまり帰りが遅くなるときはタクシーでも使ってもらって。女性のひとり歩きは危険ですからね」
「それだけですか? あの――」

 呼び掛けた私の声は扉の音に掻き消された。勢いよく扉が開き、若い警察官が飛び込んでくる。彼が老刑事に何か耳打ちすると、刑事は顔色を変えた。私に対するヘラヘラした愛想笑いが嘘のように、真剣な表情で「すぐ行く」と答える。

「それではね、小境さん。また何かあれば遠慮なくどうぞ」
「えっ、ちょっと」

 老刑事はそれだけ言うと、そそくさと部屋を出て行ってしまった。残された私は呆然と扉を見つめ、怒りが遣る瀬無さへと変わっていくのを味わう。
 私が体験しているストーカー被害は、確かに人によっては「気のせいだ」と一蹴するようなものだった。手紙に一度開封された痕跡があったり、いつも誰かに見られているような感覚があったり。一番多いのは非通知電話。気持ち悪いのは、それが決まって風呂上りに掛かってくることだ。昨日も一昨日も、連日のように掛かってきている。
 しかし、具体的に脅迫のような手紙を入れられたり、姿を見せて付きまとわれたりすることはないため、警察も真剣に取り合ってはくれなかった。
 私はとぼとぼと廊下を歩く。途中、先ほどの刑事が慌ただしく私を追い越していった。何か事件が起きたのだろう。取るに足らない私の恐怖とは違う、何か大きな出来事が。
 気持ちを切り替えようとケーキ屋に寄って、帰路に着く。八重桜が花を散らし終えた今の季節は、暑くもなく寒くもない。ちょうど心地よい陽気だった。鮮やかな新緑に目を細めれば、たった今味わった不快感も吹き飛ぶような気がする。
 駅からバスに乗り、最寄りのバス停で降りる。大通りから一本入ればそこは住宅街で、田舎らしく庭や駐車場を持った一軒家が多く並んでいる。庭よりも駐車場を広く取る家が増えたのは、今どきの主流なのだろうか。古い家ほど庭が広い。
 庭先の草花を愛でながら歩き続けたところ、小さな人だかりに出くわした。見れば、パトカーが二台と大きなバンが停まっている。集まっているのは野次馬なのか関係者なのか、数人の主婦が警察官と立ち話をしていた。
 何かあったのだろう。ひょっとすると、先ほどあの刑事が呼ばれていった先はここだったのだろうか。
 今は警察を見たくない。それに野次馬だと思われるのも嫌だった。しかし、私のアパートはこの角を曲がった少し先にある。私は引き返すこともできず、人だかりの方へ歩みを進めた。
 近づくにつれて、角の民家が現場であるとわかった。人が住んでいないのか、もう随分長いこと明かりの点いていない家だ。その家の窓がすべて開け放たれていて、シャワーキャップみたいな不織布の帽子を被った男性が玄関に立っている。

「あら、里佳子ちゃん」

 声を掛けられて振り返ると、斜向かいに住む澤田さんだった。澤田さんはお決まりのエプロン姿で、ジェットコースターの待機列に並ぶ人のような、恐怖と興奮の入り混じった顔をしていた。

「こんにちは。何かあったんですか?」
「ええ、そうなのよ」

 澤田さんは私に身を屈めるよう促し、声を潜めて言った。

「あの角のおうち、落合さんって人が住んでいたんだけど、その人が遺体で発見されたらしいのよ」
「遺体で?」
「孤独死よぉ」

 そう言ったあと、澤田さんは急いで付け加える。

「これから警察の人が調べるから、まだ事件か病気か、自殺かもわからないけどね」

 だが、ここは事件現場と呼ぶには拍子抜けしてしまうほど静かである。事件の可能性があるのなら、もっと厳重に周囲の封鎖や目隠しなどをするのではないか。きっと警察は一目で事件性はないと判断したのだろう。

「可哀想にねぇ。うちの主人の二つ下だったから、まだ五十かそこらだったんじゃないかしら?」

 口では「可哀想に」と言いながら、澤田さんの様子はどこか楽しそうにも見える。自分と関係のない人間の死なんてそんなものか、と考えたところで、彼女よりも無感動に現場を見ている自分に気が付いた。

「ここ、人が住んでいたんですね。ずっと電気が消えていたから、誰も住んでいないのかと思っていました」
「そうねぇ。遺体も腐敗していたみたいだし、亡くなってから何日も経ってしまったんでしょうねぇ」
「ってことは、そんなに前から……?」
「違うわよ。ずっと電気を点けないで暮らしていただけみたいよ」

 私は思わず顔を顰めた。

「どうしてまた、そんな」
「さあ? 節約じゃない? 落合さんって変わったところのある人だったから、奥さんと別れたのがよっぽど堪えたのかしらねぇ」

 その後も澤田さんは落合嘉影という男性に関して好きなだけ話し続けたので、私は望まずともこの件について詳しく知ることとなった。
 落合さんは外壁塗装などを請け負う会社に勤めていたそうだ。新婚当初にこの家を買って移り住んで来たが、奥さんとは十年前に離婚している。それからずっとひとり暮らしで、近所付き合いはほとんどしていなかった。挨拶をすれば返してくれるので、真面目な人ではあったのだろう。
 警察に通報したのは自治会長の奥さんだそうだ。消防費の集金のために訪れたところ、窓にびっしりと張り付く蠅を見て、異常を察したらしい。それから警察が鍵を抉じ開けて踏み込み、今に至る。
 立ち去り際、私は一度だけ好奇心を持ってその家を見上げた。蠅が湧いていたということは完全に白骨していたわけではなく、所謂腐乱死体だったのだろう。その割に何の臭いもしないのは、遺体を運び出してしばらく経っているからなのか、警察が何か処置をしたからなのか。腐敗臭なんて嗅ぎたいとも思わないけれど、どうしても思考はそちらに寄っていってしまう。
 最初にこの家に踏み込んだ警察官は、いったい何を見たのだろう。扉を開けた瞬間に溢れ出した腐敗臭は強烈だったに違いない。私の脳裏には、解き放たれた蠅の群れが火の粉のように舞い上がる様がありありと浮かんでいた。
 途端に鼻先を腐敗臭が過ったような気がして、私は驚いて息を詰める。幻覚だった。大きく息を吸い込んでも、何の臭いもしない。
 ほっと溜息を吐く私の耳元を大きな蠅が掠めていった。

 
 アパートに帰り着いた私は、買ってきたショートケーキをすぐに食べる気にはなれなかった。仕方がないので一度冷蔵庫に入れ、日が傾き始めたちょうど今、遅いティータイムを始めようとしていた。
 ローテーブルにケーキを並べ、丁寧に紅茶を入れる。そうしているうちに、昼間思い描いてしまった嫌な光景は、ようやく頭から抜けていった。
 いざ食べようとソファーに座って皿を持ち上げたとき、インターホンが鳴った。私は反射的にケーキの皿を置く。
 モニターを覗くと、私を軽くあしらったあの老刑事が、若い相棒を連れて玄関前に立っていた。
 今さらどうしたのだろう。まさか、今になって気が変わり、私の相談に乗ってくれようとでも思ったのだろうか。そんなわけはないと思いながら、私はチラリとショートケーキに目を遣って、扉を開けた。

「刑事さん?」
「突然お伺いしてすみません、小境里佳子さん。実は少々お話をさせていただきたいのですが、少しお部屋に上げていただけないでしょうか?」

 相談に行ったときとは打って変わって遜った様子だ。私はひとり暮らしの自宅に見知らぬ男性を上げることに抵抗を覚え、しばらく躊躇っていた。
 私の胸中を察したらしく、横から若い刑事が口を挟む。

「お部屋に入れていただくのが難しければ、警察署の方へご足労いただくのでも構いませんよ。パトカーでお送りしますから」
「あの、この場で話すのではダメなんですか?」
「ここではやはり、人の目がありますから。小境さんのご事情としても、あまり人の耳に入れたいものではないと思いまして」
「……わかりました。でも、部屋の中まで上げるのはちょっと――」
「もちろん、玄関で結構です。盗み聞きさえ防げればいいので」

 私は刑事二人を玄関に入れ、扉を閉めた。アパートの狭い玄関口はいっぱいになってしまったが、私は部屋の中を覗かれないよう廊下の真ん中に立って、それ以上は譲らなかった。

「それで、お話というのは……」
「落合嘉影さんという方をご存知ですか」

 私は面食らった。

「知り合いではありません。でも、今日遺体が発見されたと聞きました」
「ええ、ええ。その角の家ですね。実はその落合さんのご自宅から、こんなものが発見されたんです」

 老刑事が封筒を差し出す。開けてみると、中には透明な袋に入った写真が数枚入っていた。写真を見た私は、思わず声を上げそうになる。

「これって……!」
「そこに写っている女性……あなたですよね、小境さん」

 盗撮写真だった。
 道を歩く私。自宅で布団を干す私。コンビニから出てくる私。私、私、私――……。

「なんですか、これ。なんでこんなものが」
「落合さんの自宅には、この他にも似たような盗撮写真が大量に保管されていました。小境さん、あなたを悩ませていたストーカーですが、どうやら犯人は落合さんだったようです」

 それを聞いた私の胸中は、恐怖と安堵でぐちゃぐちゃになった。極近所に住んでいたストーカー犯。まったく見ず知らずの、何年もずっと電気を点けずに暮らしていた中年男性。今日、腐乱死体で発見された男。孤独死。
 本当に、目と鼻の先にいたのだ。あの家だったら、私のことを監視するのは容易かっただろう。私は通勤で毎日あの家の前を通るし、生活圏が完全に被っている。店先ですれ違ったことだって、きっと一度や二度ではないはずだ。
 だが、死んだ。
 ストーカー犯はもうこの世にいない。
 これ以上は付け狙われることがなくなったのだ。私は解放された。警察は何も対応してくれなかったけれど、こうして最も揺るがぬ形で解決した。私はもう、安堵していい。
 ところが、どうにも違和感が拭えなかった。
 何かが私に警鐘を鳴らし続けている。私はゆっくりと口の中が乾いていくのを感じた。

「よかったですね、というのは不謹慎かもしれませんが……小境さんを脅かしていたストーカーはもうこの世にはいません。これからはどうぞ安心してお過ごしください」

 若い刑事が優しく声を掛けてくれる。私は困惑の表情で彼を見上げた。

「わざわざそれを教えに来てくれたんですか?」
「はい。事件性はありませんでしたので。落合さんは自殺でした」
「自殺……」

 ストーカー犯が、自殺。
 逆恨みされた被害者が殺されるとか、無理心中に巻き込まれるといった事件は珍しくない。自分がそれに巻き込まれなくてよかったと思うと同時に、私の中の違和感は大きくなっていった。

「……あの、こんなこと訊いていいのかわかりませんが」
「なんでしょう?」
「その方が亡くなったのは、いつ頃のことなんですか?」

 二人の刑事は顔を見合わせた。

「詳しいことはこれからですが……まあ、一ヵ月は経ってますな」

 私の中の違和感が確信に変わる。私は叫んでいた。

「そんな! じゃあ、じゃあ……ストーカーはもうひとりいるってことですか?」
「はい? 小境さん、何を言っているんですか?」
「だって、非通知の電話は昨日だって一昨日だって掛ってきたんです。その人が死んでいたなら、いったい誰が電話を掛けて来たって言うんですか?」

 刑事二人は黙り込んでしまった。若い刑事は困惑を、老刑事は見るからに藪蛇を引いたという顔をしている。老刑事が若い相棒を肘で突いたので、ひょっとすると私にストーカーのことを話しに行こうと言い出したのは、若い方の彼なのかもしれない。
 それからの私は自分でもわかるくらいに半狂乱で、支離滅裂なことを喚き立てていた。刑事たちが何と言って私を宥め、置き去りにして帰って行ったのか覚えていない。気が付くと私はひとりでソファーの前に座り込んでいて、温くなって溶け始めたショートケーキを見つめていた。
 いつの間に入ってきたのだろう。大きな蠅が螺旋を描いて飛び回り、ショートケーキの上にとまった。黒々としたそれは白いクリームに溺れ、忙しなく口に運んでいる。
 私はケーキをゴミ箱に捨てた。


 翌日になっても私の気持ちは晴れなかった。
 余程暗い顔をしていたのだろう。職場でも何かあったのかと心配されてしまった。ストーカーのことを知っている同期にだけは打ち明けたが、ありきたりな心配や慰めの言葉を掛けられても、心の小波は収まらなかった。
 結局、体調不良を理由に早退してしまった。なるべく早い時間に帰りたかったというのもある。電車とバスを乗り継いで、自宅の傍まで戻ってきた。
 あの家の前を通ろうとすると、嫌でも昨日のことが思い出される。警察は昨日のうちに引き上げて、問題の家は何事もなかったかのように静まり返っている。異変を告げるものは、玄関先に供えられた小さな花束だけだった。誰か、心優しい人が置いて行ったのだろう。
 この家の住人が私のことを付け狙っていた。少なくとも、付け狙っていた者のうちのひとりだ。その男が自ら命を絶ったと聞いても、私は心に浮かんだ感情を上手く言葉にすることができない。
 私の目は家の窓へと吸い寄せられた。そこは出窓になっていて、カーテンではなくブラインドが下ろされている。白地に黒いドット柄という派手なブラインドだと思い目を凝らして、私はビクリと身を縮めた。
 柄ではなかった。
 蠅だ。
 大量の黒蠅が出窓に張り付いている。
 昨日一日窓を開けていただけでは、到底すべて追い出すことなどできなかったのだろう。特殊清掃はまだ入っていないだろうから、遺体から零れ落ちた蛆や蛹も、そのまま家の中に残されているに違いない。そこから羽化した新しい蠅たちが、出窓に集まって飛び回っている。
 込み上げたのは生理的嫌悪と、少しの同情だった。ストーカー犯には憎悪しかないけれど、孤独の中で自ら命を絶ち、その体を蛆に食われるというのはあまりに惨めではないか。私ならばそんな最後は御免だ、と思わずにはいられない。
 後ろから車が来たので、私は我に返った。自殺のあった家を凝視していたなんて不謹慎だ。私は慌てて歩き出す。
 アパートに着き、警戒しながら外階段を上る。見られているという感覚はしなかったが、いつでも通報できるようスマートフォンを握り締めているのは、もはや癖になっていた。
 鍵を開ける。誰かが侵入した気配はない。いつもの我が家だ。
 チェーンを掛けてようやく全身の緊張が解れる。郵便受けを確認すると、出前のチラシが何枚か入っているだけだった。
 台所を兼ねた廊下を進む。頭上を虫の羽音が通り過ぎていった。
 私は部屋を見回した。出掛ける前と何も変わってはいない。黄緑のカバーを掛けたソファーにガラスのローテーブル、シングルサイズのベッド。ソファーと同じ淡い黄緑のカーテンは閉ざされている。
 蠅がいる。
 そういえば昨日から部屋の中を飛んでいるが、いったいどこから入ったのだろう。窓なんか開けなかったはずだが。
 それにしても、大きな蠅だった。夏に湧くコバエとは違う、スイカの種のような黒々とした蠅だ。大きさだけあって羽音もすごい。一匹飛んでいるだけでかなり目障りだった。
 蠅を目で追っていて、私はハッとした。
 もしかして、あの家から来た蠅だろうか。思い出すのは先ほど見た出窓の光景。窓に張り付いた黒い点が目に焼き付いている。昨日はあの家中の窓を開け放っていたのだ、蠅たちはこの地域一帯に解き放たれている。そのうちの一匹がうちに紛れ込んだとしても、何も不思議はなかった。
 あの家の蠅だと思うと、私の嫌悪は募るばかりだった。同時に嫌なことにも気付いてしまう。
 自殺者の死体が見つかった家。
 その家で生まれた蠅たち。
 そうだ、この蠅は男の死体を食べて育った蠅なのだ。その蠅からまた新しい蛆が生まれ、死体を食べて蠅になり、死体に卵を産み付ける――……。
 このサイクルの中で新たに生まれ落ちた蠅は、純粋に死体だけを成分として生まれ育った個体となる。それは、死んだ男がそのまま蠅になったようなものではないだろうか……。
 私は吐き気に駆られ、考えることをやめた。無意識のままに殺虫剤を手に取り、部屋中に噴射する。死んだのか逃げたのか、蠅はどこかに行ってしまった。これで少しは気が収まる。
 このまま部屋にいては体に悪いので、窓を開けて網戸にした。空気の入れ替えをしている間に、台所に行って夕食の支度でもしよう。
 まな板を調理台に置き、冷蔵庫を開けて使えそうな食材を確認する。玉ねぎとピーマン、ベーコンと卵があった。夕飯はオムライスに決めた。
 食材を抱えて振り返ったところ、まな板の上に何かが載っていることに気が付いた。米粒だ。私は食材を傍らに置き、水で洗い流そうとまな板を持ち上げた。

「ひっ……」

 米粒ではなかった。蛆だった。紡錘形の乳白色の生き物が、パラパラとまな板の上に散らばっている。それらは明らかな意思を持って蠢いていた。あたかもこれから食い破る腐肉を探すかのように。
 嫌悪感が込み上げる。洗ったからといってこのまな板をまた使う気にはなれず、蛆ごとゴミ袋に放り込んだ。そのままゴミと一緒に死ねばいい。蠅になったら嫌なので、袋の口をきつく縛った。
 すっかり食欲が失せてしまった。夕飯は買い置きのカップ麺で済ませることにする。
 飲み下すようにカップ麺を食べ終えると、そのまま風呂に向かった。お湯を溜める気力はなかったので、シャワーで手早く済ませようと思った。
 浴室の扉を開けると、ここにも蠅がいた。二、三匹の黒蠅が窓ガラスに群がっている。すりガラスの凹凸を舐めるかのようなその動きに不快さが蘇ってきて、私は急いでシャワーを浴び始めた。
 髪の毛の間を水が潜り抜けていく。熱い湯の感触は私の緊張を和らげてくれた。トリートメントのおかげで滑らかな手触りになったことを確かめながら、私は丹念に髪を絞った。
 ふと見下ろすと、足元にまた白い何かが落ちていた。それもひとつやふたつではない。かなりの数の蛆虫が、風呂場の床に撒き散らされている。
 今度は悲鳴も出なかった。私は反射的にシャワーでそれらを流し、浴室を飛び出した。
 どこから湧いてきたのだろう。窓から? ゴミ箱から? 排水口から? 生ゴミの処理はきちんと行っているし、突然あんなに大量の蛆が湧くなんて、どう考えてもあり得ない。
 動揺を抑えきれぬままリビングへ行った。
 蠅が増えていた。
 真っ黒い粒がシーリングの周りを飛び回り、羽音の合間にコツコツと小さな音を立てる。置きっぱなしにしたカップ麺の容器に蠅が集る。箸の先で身繕いをする。網戸にも蠅が止まっている。あの家のように、大量の蠅が張り付いている。
 信じられない光景だった。私は叫ぼうとして口を押える。大きく口を開けようものならば、飛び回る蠅が口に入ってしまいそうだった。
 電話が鳴った。
 あまりのことに絶句していた私は、その音で我に返った。スマートフォンはソファーに置きっぱなしになっている。
 取ろうとして手を伸ばし、私は動きを止めた。白い画面に表示された文字は、非通知だった。
 よりによってこんな時に。そんな思いが私の思考を停止させる。そのまま動けないでいると、一匹の蠅が液晶の上にとまった。それを感知してしまったのか、電話が勝手に応答してしまう。
 酷いノイズが流れてきた。私は慌てて蠅を払い除け、電話を切ろうと手を伸ばした。

「やっと話ができるね」

 流れてきたのは男の声。ざらついた声が歓喜の響きを込めて、ねっとりと囁く。
 話なんかしたくない。聞きたくない。早く電話を切らなければと、私は焦った。
 だが、動けなかった。

「どうすればもっと君を近くで見ていられるだろうかと思ったんだ」

 いつの間にか部屋中の蠅が私の前に集まっていた。蠅たちはうねりながら渦を巻き、やがて黒い塊となった。蠅の塊が凹凸を作る。あるひとつの顔を形作っていく。
 それは、近所で見かけたことのある男の顔だった。

「これでずっと君の傍にいられるよ」

 黒蠅の顔が私に向かって羽音を立てる。私は大きく悲鳴を上げて後退り、ローテーブルに足をぶつけて転倒した。咄嗟のことで受け身を取ることもできず、私は強かに頭を打つ。激しい痛みが広がった。
 倒れたまま動けないでいる私の眼球に、蠅がとまった。


謝肉祭① 「蠅」 了

第2話「肉屋のアイドル」

第3話「いっぱい食べる君が好き」


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