【謝肉祭②】肉屋のアイドル【ホラー短編集】
謝肉祭②「肉屋のアイドル」
珍しいバイトあるよ、と言って紹介されたのは、肉屋のマスコットだった。
「肉屋のマスコット?」
高田秀喜が持ってくるアルバイトが所謂「闇バイト」であることは、俺たちの間の共通の認識だった。法律的にグレーなことをやらされる場合が多く、危険は付き物だと言われていた。そのかわり、金払いだけは馬鹿にできないほどいい。時間と体力を持て余した俺たち大学生には打ってつけだった。
「肉屋のマスコットって何やるんだよ」
俺が胡散臭そうに顔を顰めると、高田は素っ気なく肩を竦めた。
「知らねぇよ。着ぐるみでも着るんじゃないの?」
「着ぐるみのどこが闇バイトなんだよ」
「知らねぇって。オレは先輩から紹介されただけだし」
高田はスマートフォンの先端を俺に傾け、「で、やるの? やらないの?」と言った。
闇バイトと呼ぶのは大袈裟だが、着ぐるみを着て街頭に立つというのは間違いなく重労働だ。このくそ暑い季節ならなおさら、命にだって関わる危険性がある。
だがそれでも、事故物件に住まわされたり、法律に触れるようなことをやらされたりするよりはマシだろう。高田が持ってくるアルバイトの中ではまともだし、夏休みの間だけならなんとかなる。俺は深く考えることもなく了承した。
だが、結論から言うと、俺は酷く後悔している。
件のお店は住宅街の真ん中にポツンと残された昔ながらの精肉店だ。店舗の二階が住宅になっている。店に入ると正面に肉が並んだショーケース、右手に常温品の商品棚、左手にレジの載ったカウンターがある。店内には丸椅子が二つ置かれていて、肉を包んでもらっている間、そこに座って待つご老人をよく見かけた。
肉屋の女将さんも、旦那さんも、基本的には朗らかで感じのいい人だった。女将さんはぽっちゃりして色白で、旦那さんは大柄で筋肉質。二人ともよく笑い、よく食べた。レジに立つのは女将さんの仕事で、旦那さんは日がな一日奥で肉を解体し続けている。この店はコロッケと肉団子が人気なので、客が来ない時間に二人はよくつまみ食いをしていた。
そして、俺の仕事。
俺は肉屋のマスコットとして、ショーケースの上に寝そべっている。全裸で。
仕事は本当にそれだけだ。マスコットなので動くこともない。腕を枕に身を横たえ、どこぞのヴィーナスさながらに、足を交差させて大事なところが見えないよう隠している。俺は少々肉付きがいいので、隠すのには苦労しなかった。
営業時間中はその体勢でじっとしており、店が閉まれば金をもらって帰宅する。寝ているだけなので一見楽な仕事だが、八時間以上同じ体勢で動けないというのは予想以上につらい。
初めの日は、まず仕事の内容が理解できなくて、女将さんに何度も何度も確認してしまった。最終的には「やる気があるのか」とドヤされてしまったので、追い立てられるようにして服を脱いだ。前貼りの使い方もわからず、旦那さんに手伝ってもらった時は、情けなくて死にそうだった。
二人の視線に晒されながら、窮屈なカウンターの上に身を横たえる。前は足で隠せるけれど、カウンターの裏から見れば俺の尻が丸見えだ。体勢を整える一部始終を女将さんに見張られていたので、恥ずかしくて気が変になりそうだった。
やっとのことで体勢を決め、いよいよ店がオープンする。
寝ているだけだと言い聞かせていたけれど、シャッターが開いた途端に俺の平静は消し飛んだ。店の中から外を見ると、外の明るさがひたすらに眩しい。どこかから吹き込んだ風が肌を撫でるたび、「俺は何をやっているんだ」と自問しそうになる。
最初の客が来た時の緊張は、今でも忘れられそうにない。
俺は裸で肉屋のカウンターに寝そべるという奇妙な状況に慣れるために必死になっていた。油断すればパニックに陥りそうな頭を落ち着かせ、キツく目を閉じて旦那さんが包丁を扱う音に耳を澄ませる。タンッ、タンッという潔い音は仕事場らしい日常を感じさせ、俺は次第に落ち着きを取り戻していった。
だが、それも客の姿を見るまでのことだった。
開けっ放しの入り口から、おばあさんが来店する。その小柄なシルエットを視認した瞬間、俺の全身から汗が噴き出した。
改めて裸であることが意識される。アルバイトだからと命じられるままに服を脱いだけれど、本当にこれは大丈夫なのか? 店の中で裸になるのは公然わいせつ罪に値しないのか? そんな問いが頭の中を駆け巡り、心臓の鼓動が速くなる。太腿の間に滲んだ汗がじっとりと不快だった。
おばあさんは真っ直ぐに店の中に入ってくると、俺の存在など目にも留めずにショーケースを見渡した。それから女将さんに向かって軽く挨拶し、豚小間肉を三百グラム注文した。
「はいはい。他には?」
「ロースも少しもらおうかねぇ」
何の変哲もない会話が当たり前のように通り過ぎていく。
俺は呆気に取られておばあさんの方を見た。おばあさんは完全に俺を無視している。
「九百十八円です」
女将さんが包んだ肉を差し出しながら言う。おばあさんは何事もなかったかのように肉を受け取り、お金を払って出て行った。
それだけだった。
俺は混乱した。
まさか、俺のことが見えていないのか? 何もおかしいと思わないのか?
ひょっとするとおばあさんは目が悪くて、俺の存在に気が付かなかっただけかもしれない。それとも単に、見て見ぬふりをしただけだろうか。その方がまだ考えられる。
俺は戸惑いを抑えきれず、手をついてカウンターの奥を振り返った。
「あの、女将さん」
「こら」
すかさず叱責が飛んでくる。
「今あんたはマスコットなんだよ。勝手に動くんじゃない」
「え、でも……」
俺はそのまま身を起こした。
「宮越くん」
低い声が遮る。旦那さんが包丁を手にこちらを振り返っていた。
「営業時間中だよ。後にしなさい」
有無を言わさぬ口調だった。俺は旦那さんの放つ殺気のようなものに圧倒されて、すごすごと引き下がるしかなかった。
その後も客は来たけれど、俺に反応を示すことはなかった。何人かは素早く俺から目を逸らし、また何人かは完全に無視をしていた。
やっと俺に反応を示す客が現れた。それは近所の定食屋のオヤジさんで、注文していた業務用の肉を引き取りに来たようだった。
「おっ」
オヤジさんは俺を見るなり目を見張り、にっこりと顔を綻ばせた。カウンター越しに段ボール箱を受け取りながら、女将さんに言う。
「いいねぇ。旨そうなのが入っているじゃない」
俺は耳を疑った。
旨そうなの、と言ったか?
「いいでしょう。新人くんだよ」
「へぇ。今度は長続きするといいねぇ」
オヤジさんはもう一度舐めるように俺を見て、そのまま店を出て行った。
なんだか嫌な感じがした。不快感がざらりと舌に残る。冗談にしても気持ちが悪い。今まではピンと来なかったけれど、セクハラに対して抱く嫌悪感とはこういう感覚なのではないかと思った。
今さらながら後悔が押し寄せる。当たり前だ。そもそも、こんな奇妙奇天烈なアルバイトは引き受けるべきじゃない。店の中とはいえ、こんな風に裸を晒すことを求めるなんて非常識じゃないか。
それでも俺がこのアルバイトを続けてしまったのは、偏に待遇の良さにあった。とにかく日給が高くて、しかも賄いまでついてくる。
「うーん。ふっくらしていいと思ったんだけどねぇ。お客さんのリアクションはいまいちだったねぇ」
初日の終わり、日給を手渡した女将さんは俺をじっと見ながら考え込んだ。
「よし。宮越くん、これ持って行きな」
と言って持たせてくれたのは、大量の肉団子。次の日はコロッケ、また次の日はメンチカツに梅ささ身カツと、それから毎日大量に賄いをもらえるようになった。これは貧乏学生には大変有難い。味も申し分なく旨いので、俺は違和感を覚えながらもずるずるとこのアルバイトを辞められなくなってしまった。
毎日沢山の賄いをもらうおかげで、俺は見る見るうちに太っていった。
体重の増加につれて変わったのは、肉屋に来店する客からの反応だった。ほとんどの客が見て見ぬふりをしていた最初の頃と違い、俺は注目を集めるようになっていった。
「仕上がってきてるねぇ!」
入店するなり歓声を上げたのは、例の定食屋のオヤジさんだった。数日に一回は訪れるので、そのたびに俺の様子を確認するのが恒例になっていた。
オヤジさんは寝そべる俺の全身をじっくりと眺め回し、太腿を鷲掴みにした。
「おおっ。いいねぇ、いい感じだねぇ!」
突然のことに驚いた俺は、声を上げることもできなかった。オヤジさんは肉の弾力を確かめるように、俺の腿や腹を指で押している。
商品棚で品出しをしていた女将さんは、オヤジさんの声に嬉しそうに振り返った。
「ふふふ、わかる?」
「順調じゃないの。こりゃあ楽しみだねぇ」
いったい何の話をしているんだ。俺は肌を這うざらざらした指の感触に嫌悪を感じながら、必死で二人の会話に耳を澄ました。この時には既にマスコットは動いたり喋ったりしてはならないというのが俺の中に染みついていたので、俺は身動ぎすることもできず、目をひん剥いて二人の様子を窺うことしかできなかった。
そのあと、オヤジさんはいつものように商品を受け取って帰って行ったが、それを機に俺は色んな人に声を掛けられるようになった。訪れる客、訪れる客、皆が俺の体を見ては感嘆する。
「わぁ。ママ、見て。美味しそう!」
小さな子供にそう言われた時は、俺の全身に鳥肌が立った。
美味しそうとはどういうことだろう。子供の言葉に含みがあるとは思えないし、心の底から食欲的な意味で感想を述べているに違いない。定食屋のオヤジさんだけならまだ悪趣味な冗談だと受け取れたが、子供までこんなことを言うのは不可解だった。
俺は腹を決めた。次に来店した赤ん坊連れの若い奥さんに、起き上がって質問しようとしたのである。奥さんは俺を見るなり、抱っこ紐で抱えた赤ん坊にこう話し掛けていた。
「美味しそうなお肉ですねぇ。お腹すいちゃいますねぇ」
「あのぅ」
俺は肘をついて体を起こした。
途端に目を見開く奥さん。「ひっ」と小さな声が彼女の口から洩れた。
「こらっ!」
女将さんが怒声を上げて振り返る。俺が動きを止めたのを見て、女将さんはすぐに客に向かって愛想笑いを浮かべた。
「驚かせてすみませんねぇ、奥さん。注文は何にします?」
若い奥さんはぎこちなく笑みを返し、肉を買うとそそくさと店を出て行った。
その後ろ姿が完全に見えなくなったのを確認し、女将さんが俺を怒鳴りつける。
「あんた! 何勝手に動いてるんだい? マスコットなんだから黙ってニコニコしてりゃいいんだよ!」
女将さんの目には本気の怒りが燃えていた。その気迫から逃れたくて目を逸らすと、カウンターの裏で旦那さんがこちらを睨みつけている。握ったままの肉切り包丁が不気味だった。
「……すみません」
結局、俺はすごすごと元の位置に収まるしかなかった。
不可解だ。あまりにも不可解だ。だが、女将さんの怒り顔を見ると、これ以上反論するのが怖くなってしまった。
理解できないことは触れない方がいい。待遇に不満はないし、夏休みいっぱいの辛抱だ。何も考えず、ただ黙って言われた通りにしていればいい。俺はそう無理矢理自分を納得させた。
それからも俺は肉屋のアルバイトに通い続けた。
寝そべり、触られ、金と賄いをもらって帰る。
そんな日が何日も続いた。
心を無にしていればそのうち慣れるかと思っていたが、そんなことはなかった。むしろ、不快感は募るばかり。俺を触る手が、舐め回すように見る視線が、気持ち悪い。
労働時間が終われば日常に帰れる。そう思って頑張っていた時期もあったが、やがてそれすら叶わなくなった。服を着て、日給をもらって帰る道すがら、すれ違う人々が俺を旨そうなものを見る目で見ているような気がするのだ。
今あの人は「美味しそう」と言わなかったか。すれ違ったあの人は舌なめずりをしなかったか。そんな見間違いが何度も続いたので、俺は思い余って高田に相談した。このアルバイトを紹介した本人だから、何かアドバイスをくれるかもと思ったのだ。
しかし残念ながら、高田からも望む返答は得られなかった。彼は俺のことを胡乱な目で見、「楽だし給料はいいんでしょ? なんでそんないいバイト辞めんの?」と言っただけだった。
俺は決意した。
辞めよう。これ以上は続けられない。
元々闇バイトとして紹介されたのだ。そう呼ばれるからには、それなりに裏があるのは当然だ。だったら、これ以上嫌な思いをする前に辞めてしまうほうがいい。
早速次の日、俺は女将さんにアルバイトを辞めたい旨を切り出した。女将さんはただ一言「そう」と言っただけだった。カウンターの向こうで、旦那さんがダンッと包丁をまな板に叩き付けた。
「それじゃあ、今日で最後だから。今日だけは頑張ってね」
最後。
その言葉に励まされて、俺は服を脱いだ。カウンターの上に寝そべる。
この日も俺は横になってじっとしているだけだった。それなのに、いつになく視線が気になった。店には客が誰もいないのに。最後だからと言い聞かせて耐えたけれど、視線の不快感は今まで以上だった。
どこから見られているのだろう?
少し考えて、俺は気が付いた。
これは女将さんの視線だ。旦那さんの視線だ。
二人がじっと俺に視線を注いでいる。
背後から包丁の音が聞こえる。旦那さんが肉を切り分けているのだ。大きな肉塊を切るときには、包丁を鉈のように振るわなければならない。そのたびに、大きな音が鳴った。
ふと嫌な思いつきに囚われる。
黙々と肉を解体し続ける旦那さん。次に解体されるのは俺なのでは?
怖くなった。逃げ出したくなった。
けれど、動いたら本当に殺されるという妙な確信があって動けない。
俺は生きた心地のしないまま、ひたすらに無事に帰れますようにと祈り続けた。俺の祈りが通じたのか、はたまたすべては俺の思い込みだったのかはわからない。だが、ついに何事もないまま、最終日のアルバイトは終わった。
女将さんが店を閉めた瞬間に飛び起きる。俺は裸のまま女将さんの前に立ち、九十度の礼をした。
「ありがとうございました!」
女将さんからの返事はなかったが、そんなものはもはやどうでもよかった。アルバイト代なんていらないから帰りたい。一刻も早くここから離れたい。その一心だった。
俺は顔を上げた。そこにいたのは、エプロンを着けた豚だった。
「……え?」
どっしりとした豚の顔。元は女将さんの頭があったところに、リアルな豚の頭が付いている。
豚の鳴き声がして振り返ると、旦那さんも豚になっていた。二足歩行の豚人間が、旦那さんの作業着を着て立っている。
「え、嘘。なんで……」
俺の問いは空虚に木霊した。
作業着姿の豚人間は肉切り包丁を手にしていた。カウンターを越えてこちらにやってくる。そのまま女将さんの服を着た豚人間を押さえ付け、ショーケースの裏へと引き摺って行った。女将さんの服を着た豚は、激しく鳴き声を上げながらもされるがままになっている。
いつの間にか天井からフックが垂れ下がっていた。作業着の豚人間はそこに女将さんの服を着た豚人間を逆さ吊りにした。抵抗する豚の鳴き声が一層酷くなる。
そして。
肉切り包丁が一閃を翻し、吊るされた豚人間の喉がぱっかりと割れた。
血が噴き出す。調理台を濡らし、床を濡らし、赤い液体が排水口へと消えていく。
血抜きをしているのだということは見ればわかった。あの豚はもうひとりの豚人間を殺し、食肉として解体するつもりなのだ。
行為が理解できたとしても、状況はとっくに俺の理解を超えていた。俺は悪夢の中に迷い込んだのか。ありえないアルバイトをこなすうち、本当に頭がおかしくなってしまったのか。
訳がわからぬまま立ち尽くしていると、作業着の豚人間がこちらを振り返った。手には肉切り包丁が握られたまま。
俺は逃げた。転げるように店を飛び出した。
走っているうちに前貼りが取れて全裸になってしまったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。俺は町中を全速力で走り抜けた。
豚人間の鳴き声はしばらく聞こえていた。俺を捕まえようと追って来ているのだ。俺は必死で足を動かした。走れば走るほど俺の体は重くなり、肉の襞が波打った。俺はぜいぜいと耳障りな息を吐きながら、転げるように走り続ける。
しばらく逃げ続けてようやく、背後の足音も、豚の鳴き声も聞こえなくなった。
振り切ったらしい。恐る恐る背後を窺ってみても、追い掛けてくる様子はない。
俺は安堵した。がっくりと膝をつき、電信柱に寄り掛かる。心臓は今にも破裂しそうだった。乱れた呼吸は家畜の鳴き声のようだった。
しばらくそうしていた。
呼吸を整え、やっと立ち上がる決心がつく。俺は四つ足をついて立ち上がった。
向かいの店のショーウィンドウに俺の姿が映る。
そこには電信柱に寄り添う、一頭の豚がいた。
謝肉祭② 「肉屋のアイドル」 了
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